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不安を必要以上に煽ってくるテレビやネットなんて見るのやめて、「フルサトをつくる」って本でも読もうぜ

今回もウルトラハイパースーパーマーベラスにいい本を紹介したいと思う。

再放送とウイルスの不安ばっかり煽ってくるテレビ(Eテレ除く、受信料払ってみんな見ようぜ)を見ているより、この本を読んだほうが20000000倍くらい良い、と断言しよう。

例によって引用ばっかりだし、出版社にも著者にも1ミリも許可をとっていない(そのうち私は捕まるだろう)けど、ほんとなんでこんないい本がベストセラーになっていないのか不思議でしょうがないし、読むヒマだとかいい本との出会いの機会が少ないであろう忙しい現代社会を生きる皆様のために、著者出版社印刷流通書店の皆々様へリスペクトを込めて堂々とパクりたいと思います。頼むここまでリスク踏んでるからみんな読んでくれ。

人間が何かにチャレンジできる条件とは、いざとなったら死なない自信であると私は考えている。「背水の陣なんてのは、普段は無理な特殊例だから故事成語になっている」と前作(「ナリワイをつくる」というこれもウルトラハイパー名書だからみんな読んで)で書いた。21世紀初頭の現在において、楽しくたくましく生きるための重要な作戦のひとつは、フルサトをつくることである。フルサトの条件としては、いざとなったらそこへ帰れば、心身ともに健やかに生活が送れ、競合他社とか機会損失とかそういう経済用語がさほど通用しない環境があるところである。風の音とか温泉のじわーっと来るかんじとか野菜の旨さとかを体感しながら動物的なペースや感覚で暮らせる場所でもある。
今は将来の不安のために保険や貯蓄に励むという流れが主流だ。だが、将来のために居住場所の可変性(フレキシブルさ)を捨てて住宅ローン35年を嫌々支払うという人生は、現実的な対応としてはあまりにハイリスクなのではないかと思う。35年後何をしているのか予言できる人はそういない。この前富士山が噴火したのが1707年。油断大敵だ。
この変化が大きい現代社会は、常識的に安定と思われることのほうがリスクが高い事が往々にしてある。安定しているとは、世の中が動いている時期に止まっていることであるから当然である。日々チャレンジしていったほうが、変化に適応できるから長期的に見たら安定していると言える。なにより毎日面白おかしく過ごせるから、精神面での健康も維持しやすい。昨今は、メディアは孤独死とかの特集は組むわ、日常のニュース番組からは老後の生活に悩む人のインタビューが流れてくる。けっこう怖くなってしまう人も多いかと思う。何かしなきゃとは分かっているんだけど、体が動かない、というのは見えない情報圧力も原因の一つだろう。だが、何か変化を生み出すには小さな常識を超えることが不可欠だ。不安で思考が充満すると視野狭窄になって変化を生み出せなくなる。不安を打ち消す余裕を持つにもフルサトは重要な役割を持つ。
家計の考え方についてもう少し詳しく考えてみたい。現代人は、「で、年収いくら?」みたいな話に注目しがちだが、「で、あなたの自給力はどんくらい?」と聞く人はいない。ここは今ノーマークである。特に、自給活動はマネーを稼ぐ活動よりも費用対効果がよいことが多く、狙い目の分野なのでいろいろ検証してみる価値がある。具体的には、年収が200万円でも300万円、つまり300万円の価値があることを自力で作り出せれば500万円の価値がある生活が送れる、という考え方である。
こういう仕事は実は、編集者が持つ能力が非常に生きる分野である。しかし、田舎には編集者がほとんどいない。なぜかというと、既存の重要な仕事先である出版社が田舎にはほとんどないからだ。だから、ほとんどの編集者は都市に集中して、出版不況とともに落ちるページ単価と戦っている(昔がバブルだっただけという話もある)。物事を発掘して組み合わせられる編集能力に加えて、自分の体を動かして調査する能力のある人がいたら、めちゃくちゃ活躍の場があると思う。生活を探求することがそのまま仕事になる、というのが21世紀なのではないだろうかと思う。なぜならこれまでの生活の仕方がいまいち機能しなくなってきているからである。替え時である、ということである。だからニュータイプを地道に開発しなければならないのである。現状では、ずっと都会にいると動物的な勘が鈍ってくるし、田舎に隠遁しすぎると思考が閉塞してしまう。どちらか一方、ということ自体が成立しにくくなってきている。生活を探求する勘を鍛えるということは、生活について「ほっこり」、「懐かしい」やら、「スローライフ」とか、そういうテンプレート表現をしないような姿勢が求められる。
小規模だが質が高まってボルテージが上がる題材を見つける、それはビジネスというより趣味とか遊び仕事と認識されるものになるだろう。最初から規模拡大を目指すと投資がどうとか補助金がどうとかという話になりがちだ。それはそれでダイナミックさがあるので面白くもあるのだろうが、自分の意思とは関係ない事情で動きが止まったりと面倒なことも多々増える。小規模だが質が高まる、というのは、個人がバカでかいシステムに振り回されずに生きていくのに重要なテーマである。と同時に、今後の高齢化社会を生きるテーマでもある。高齢化社会の問題の一部に、老害問題がある。私は、ごく一部の権力を持った高齢者が力を振り回して被害を起こすという老害は、メディアで目立ちやすい大御所の社会的影響力の増大、高齢化による思考力の減退、さらには趣味文化の低下による暇の処理不能、この三点がセットになった時に発生すると考えている。仕事が生き甲斐みたいな人が大御所になって影響力は大きくなるのに地位への安住で判断力が落ちてついていかない、しかし仕事での成功しか趣味がない。こういう条件が揃ってはじめて老害は起きる。若者の判断力のなさは、影響力が小さいので問題になりにくい。要するに若気の至り、ということである。歳をとるとだいたいの小さな目標は実現されてやることがなくなる。そこで質の追及に転換できなければ、ただバカみたいなスケールアップしか目指せなくなる。もし追及したい趣味があれば隠居のタイミングを逃さずに済むのだが、無趣味だとやることがないから仕事に逃げる。新しい分野を開拓したり質の追及に行けばよいが、だいたいは陣地取りゲーム状態になっているなじみの分野ででかい仕事を続け、若手の活躍の場を奪うだけの結果に陥る。粗くまとめるとこれが老害の仕組みである。老いてなお新しい分野を開拓する素晴らしい人もいらっしゃるが、一部の老害はまともに老年期を過ごされている方の功績をぶちこわしてあまりある被害を出すのである。
充実した生活というのは、現代においては衣食住の質的転換だと思う。多拠点居住は、生活の質的転換に対してかなり強力な手段になりえる。何も全員が住む場所を2つ以上持つ必要はないと思わないが、困ったら滞在できるような関係性の場所を持つことはあらゆる人にとってよい効果があるのではないだろうかと思う。地震の活動期に入ったともいわれる日本において、住む場所のバックアップを持たないことのほうがむしろ普通じゃない。住むことに関しては発想の転換が必要だ。1人が一年住むのと、12人がそれぞれ1ヶ月住むことは人口としては同じである。北欧にあるサマーハウスの集まる島のように、夏だけ300人いてほかは定住者が6人だけ、というところまでいくとちょっと極端な気もするが、年間を通して住める場所があって、夏に一時的にでも住む人がいれば、そのうち何人かは長期に住むようになる可能性が高められる。1日訪れただけで「そこに定住するぞ!」と決められる人は少ないが、1カ月住んでみたら雰囲気が分かるだろうから、だいぶ違う決断になると思う。今やっている移住者を増やしましょうというIターンフェアというのは、いくら情報を尽くして説明しても昔風に言えばピクチャーブライド(写真だけで決めるお見合い)と同じである。就職面接と似ている気がするが、このやり方は現代では難しいと思う。ましてや、骨を埋めろという条件だけを突きつけるのは無理がある。それに多くの人にとって、ひとまず1年間住んでみたらずいぶん長く住むことになった、ということのほうが妥当な流れだと思う。

ドチャクソいい本なので、どこを抜粋するか悩んだ。本当は片端からこの本を買い占めてコピーをしまくってヘリコプターでばら撒きたいくらいだけど、それはさすがにいろいろと問題ぽいしヘリコプターを借りるのはお金がけっこうかかるらしいのでやらない。というかやれない。

付け足しや強調については、何も言わない。そんなことより引用ばっかりで自分の考えを何も言っていないほうが問題だ。

まず、大半の人間が移動というのは基本的に自宅と学校もしくは職場、コンビニとかスーパーとかのお店、役所、実家を含む親戚の家の間、せいぜい観光地とか仕事の出張先程度だと思っているのが現実ではないだろうか。そう考えると合点がいく気がしている。

しかし、それらだけが行く場所なのだろうか?

縁もゆかりもない場所にいきなり行くのは難しい、とこの本でも触れられていますが、ではもっと適当に、例えばたまたま知り合った人の出身地なんかに行ってみるのはどうだろう、と思う。

実は数年前にもうやったことがあって、たまたまお盆休みに旅行でも行こうと考えていて、行き先はどこでもよかったので、たまたま知り合った人の出身地の県に行ったことがあります。

日本国内なら円が使えるし、標準語ならオールマイティーに国内どこでも通じるのだから何を恐れることがあるのだろうか、と思いました。

こういう考えは事情でひとところに落ち着かないといけない人とかには傲慢に聞こえるようなので多少忖度してあげますが、あえて言いましょう。

楽しいです。

たまたま出会った人の出身地にふらふら行くの、めちゃくちゃ楽しいです。

(一応断っておきますが数年前ですよ、念のため)

本当に血縁者が1人もいない土地でしたが、ただただ全てが珍しく刺激的で、心の底から楽しめました。

まあ、そこに住み続けないといけないというしがらみもないし、いつか帰る旅行者だから楽しめたというのはあったでしょう。

しかし、そういうのを差し引いて考えても楽しかったです。

この本を読んだからですが、わりと本気でフルサトを作ってしまおうかとすら考えました。というか今でも考えています。

今はそういうのをやるのに都合がいい時代だと思います。やる気や体力さえあれば、格安の高速バスとかLCCとかでさくっと移動できます。昔の戦後すぐの日本みたいに移動証明なんて必要ありません。さすがにいくばくかお金は要りますが、大の大人ならちょっと我慢すれば出せる額で思った以上に遠くまで移動することができ、それによって得られる刺激や気分転換の効果、人生への影響は払った額以上(というかそういうのはそもそもお金に換算できない、買えるものはマスターカードで)だと保障しましょう。

それこそ、素晴らしい、自分に合いそうな土地があるなら住んでしまうのもいいと思う。

さすがに大の大人がべた褒めというのも気持ちが悪いので多少現実的な事を言えば、事情で土地を離れられない人もいれば、長期ローンで家を買うのがもしかしたら正解かもしれないし、自己顕示欲みたいのを処理しきれないのが普通の人だと思うので、老害問題を批判してもしょうがない気もします。

ああでもこんな事は本当は言いたくない。さっき言ったようにこの本を買い占めて新宿でも渋谷でも池袋でも秋葉原でも銀座でも、はたまたその他の人がたくさんいるようなところならどこにでもばら撒きたいとすら思うのです(そんな事してるヒマがあるなら、自分の名前を名乗り自分の責任で自分の表現をしろって話ですが)。

人々よ移動しよう。今はまずいけど。もうちょっと経ったら。

























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