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「駒のいななき」と「ヒヒーン」

 2023年の新馬戦が始まった。6月10日の阪神競馬場、第5レースでは、私がnetkeibaでお気に入り登録していたフェンダーがデビューした。父はモーリスで、母はプリンセスロック。函館2歳ステークスの勝ち馬、ブトンドールは1歳違いの姉にあたる。今回の鞍上は川田ジョッキー。オッズもぶっちぎりだったから、当然、来るだろうと思って、netkeibaの「俺プロ」上にて単複で「勝負」。結果、10頭中、10着。勝ち馬は5番人気のヒヒーン(ジャスタウェイ産駒)だった。

 どうやら、この名前がだいぶウケているらしく、新馬戦にもかかわらず、カンテレがYouTubeに動画をあげており、再生回数も執筆時で13万回を超えている。
 この馬の名前を見て私はすぐに橋本進吉の「こまのいななき」を思い出した。これは、岩波文庫から出ている『古代国語の音韻に就いて 他二篇』という本に収められている、論文というよりもエッセイに近いもので、文庫本で合計4ページもない(青空文庫で読むこともできる)。
 ちなみに、橋本進吉のこの本は、2019年秋の岩波文庫のフェア、「ライバルは岩波文庫!」で國分功一郎氏の推薦により最近復刊されたので、比較的入手しやすいと思う。大部分を占める「古代国語の音韻に就いて」はいわゆる「上代特殊仮名遣」(の発見)について書かれたもので、こちらも読み応えがある(この内容を滅茶苦茶かいつまんで言うと、奈良時代にはいまの五十音にあるような日本語の音よりも多くの音が聞き分けられていた……というのが万葉仮名の分析を通して明らかになった、という話)。
 さて、「こまのいななき」の中で橋本は何を書いているのか。4ページしかないのだから、立ち読みでも済ませることのできる内容をあえて紹介してみる。橋本がここで取り上げている馬の鳴き声は、残念ながら(?)「ヒヒーン」ではなく、「お馬ヒンヒン」という通りことば(世間でよく言われる言葉)の中にある「ヒンヒン」である。でもまあ、重要なのは「ヒ」の1字なので、ここでは大した違いではない。
 馬の鳴き声(いななき)を文字にして表すとき、これまでずっと「ヒ」の音が使われていたかというと、そうではない。橋本は『万葉集』から「いぶせくも」という語が万葉仮名で「馬声蜂音石花蜘◇」(◇の部分は「むしへん」に「厨」。以下同)と表記された部分を引く。『万葉集』が生まれた奈良時代にはまだ仮名がなかったので、こうようにして日本語の音を表記するしかなかった(漢字を使って半ば無理矢理に音を書き残す当時の方法には色々な種類があるのだが、詳細は省く)。
 「馬声蜂音石花蜘◇」という字を見ても、現代語の知識からは「いぶせくも」などと読めるとは想像もできない。だが、それが可能になるのは、のちに仮名ができて、「いぶせくも」という語があることがわかり、そういった語彙知識を基に国学者たちが『万葉集』を「解読」していったことの恩恵のためだ。蜂はむかしからブンブン鳴いていたから、「蜂音」が「ブ」の音にあてられた(「ブン」じゃないのか、というツッコミは良いツッコミだが、相当ややこしくなるので省略)。これと同じ要領で、「馬声」には「イ」が当てられたのだが、ここで疑問が生じる。馬の鳴き声など今も昔も変わらないはずなのに、なぜ「ヒ」ではなく「イ」なのか。これが「こまのいななき」の中心となる問いである。
 少し話が逸れるが、今年、中公新書から『日本語の発音はどう変わってきたか』という本が出て、この本の帯には「羽柴秀吉は『ファシバフィデヨシ』だった!」とある。要は、今のハ行の発音というのは、江戸時代より前には違ったものだったということで、これはそれなりに知られるようになってきていると思われるが、気にせず続ける。
 「はひふへほ」という仮名は、平安時代に成立して以降、ずっとある。しかし、この読み方は、今のようではなかった。以下、あえて橋本の表記に倣うが、いまの「ha hi hu he ho」という音は、「fa fi fu fe fo」と発音されていた。ハシバヒデヨシがファシバフィデヨシだったというのも、このためである。ちなみに、時間があれば、「fa fi fu fe fo」を5つすべてカタカナに置き換えてみて欲しい。ひとつだけ上手くいかないのがあるはずだ。この点が私が先に「あえて橋本の表記に倣うが」と断った理由と関わる(それと、Perfumeのカタカナ表記が揺れるのも、これとちょっと関わる)。
 「hi」(ヒ)という音は江戸時代までは存在していなかった。現代において馬の鳴き声には「ヒヒーン」を当てるのがベストだと考えられているが、「ヒ」がない時代にはそれを表記する手段がない。というか、そもそも「ヒ」と鳴いているという認識すらなかっただろう。となれば、「hi = ヒ」という関係の成立する前の日本語の話者は、「hi = ヒ」が無い中で、当時のベストな音を馬のいななきに割り当てる必要があった。現代日本語に関連させて言い換えるならば、「ヒ」の次にベストな表音文字は何かという問いになる。
 当時のベストな音は、「イ」だった。間違っても「fi = “ヒ”(現代のフィの音)」ではない。現代日本語のフとファ行の音は、無声・両唇・摩擦音といって、唇をすぼめて息を出してつくる音だ。いななく馬がそんな器用に唇をせばめるなんてことは考えられない。というか、そもそも構造上できるのかも私にはわからない。(ちなみに、いまここでは fi = フィとして書いたが、これはあくまでヘボン式ローマ字の対応であって、発音記号として対応させているわけではないことに注意してほしい。厳密にIPAの発音記号で示すなら、無声・両唇・摩擦音は「ɸ」と表記される。これは「世界でもかなりまれな子音」だと『脱・日本語なまり』という本では述べられている。だからもちろん、finger というときの fi とも全く違う音であることに注意してほしい)
 というわけで、馬のいななきを表現する文字はずっと「イ」だった。それがいつくらいまでかと言えば、橋本によれば、「馬のいななきを「イ」で写す伝統が元禄の頃までも絶えなかった」という。西暦で言えば、元禄の頃というのは、だいたい17世紀末から18世紀初頭にあたる。「ヒ」に切り替わるのは、橋本が確認したところでは、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』初編にある、「ヒインヒイン」(※繰り返し記号はカタカナに直した)だという。『東海道中膝栗毛』は文化期の作品だから、19世紀初頭ということになる。つまり、18世紀中に「イ」から「ヒ」への交代が起きた可能性が高いということになる。
 以上、橋本の主張から逸れたところも若干含む形になったが、まとめるとこんな感じになる。かなり粗いと思うが、細かいところを最近は気にしすぎて、下書きのまま眠る記事が多いので、今日はもう知らんと思って公開してしまう。ちなみにだが、いわゆるサラブレッド三代始祖のうち、2頭がうまれたのも18世紀のようで、もちろん音の交代とは無関係なんだけど、こういう偶然はなんだか面白い。
 
 最後に。タイトルを見て、「なぜ、“馬”ではなく“駒”なのか?」と思った人は鋭い。ちょうど関連する論文が発掘されたので、もしかしたら続編として書くかもしれない。

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