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なんで僕は起業したんだろうVol.1〜燃えども燃えない、不完全燃焼な電通時代の話〜

みなさま、こんにちは。
株式会社Mr. Wanderlustという会社を
今年1月11日に立ち上げた佐々木史彦と申します。
来週9月8日に自社で製作したスキンケア商品を売り出します。
広告代理店という全然違う業種にいた僕がなぜ起業したのか、
なぜ商品をつくることにしたのか。
徒然なるままに思い立ったことなどを書き記していきたいと思います。
まずは起業したきっかけである前職時代の話から。
どうぞよろしくお願いします。

ここからは「ですます」調ではなく「である」調に改めます。
あらかじめご了承ください。

沢木耕太郎著「破れざる者たち」に載っている
「クレイになれなかった男」の最後はこう締められている。
「人間は、燃えつきる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望みつづける人間の、三つのタイプがあるのだ、と。望みつづけ、望みつづけ、しかし、”いつか”はやってこない。」
僕の電通時代はまさに「いつか」を夢見て不完全燃焼で終わる物語だった。

スポーツには栄光と敗北しかない。サラリーマンはどうだろう。

大学を1年1浪という亀のような遅さで卒業したあと、広告代理店の電通に入社した。本当は記者や雑誌編集に興味を持っていたのだけど電通の強い磁力の影響をうけて電通に。その辺の話はまた後日。
そして勉強が好きで好きで楽しくて楽しくてしょうがなかったのに1年目を終えた時点で8単位しか取れなかった大学時代の話も、また後日。

初配属はプロモーション事業局というおまけやプレゼントなどのキャンペーンやイベントを担当する部署になった。
1年目の僕はよく怒られていた。1年目なんてそんなものだけど、まだ時代がぎりぎりユルくてパワハラ的なことも許容されていたように思う。
怒られ注意され呆れられて仕事でも飲み会でもよく説教され続け終電をこえても、まだ説教が続いていた。
そのたびに同じ部に配属された同期の清澄白河にあるマンションに泊まっては(実家住まいで家から会社が遠かった)早朝に木場公園でキャッチボールをして同じシャツのまま会社に行くという生活をしていた。
朝5時ぐらいに「俺はこんなことをするために電通に入ってきたんじゃない」とか言いながら悔しさをボールにこめて思いっきり投げていた。
たぶん50kmも出ていない、実力も自信もなにもない新入社員時代だった。

都の空は遠くて淡い。

そんなまったく使い物にならない1年目を終えた後にクリエーティブ局に異動した。当時の電通は1年目が終わる頃に新入社員全員が試験を受けさせられてコピーライターやプランナーの適正をみられていた。
大喜利みたいな試験に合格した後は面接。何を間違えたか、僕はその試験に合格して2年目にクリエーティブ局に異動した。そこまで意図したわけではなかったけど嬉しかった。何せ誰かに認められるということが社会人になってから一度もなかったのだ。
その後、小さいキャンペーンのコピーが評価されて新人賞を獲得、数々の大キャンペーンのコピーを書き、CMをつくり、広告賞という広告賞を総取り、お茶の間の誰もが知っているあんな広告こんな広告を手がけ、クリエーターオブザイヤーを獲り、ついには出演女優と結婚・・なんてことは一切合切起きることもなく燻り続けた数年を過ごした後に、あっという間に営業局へ放出された。当時、クリエーティブ局から営業に出るのは「わたしはつまらん」という張り紙をおでこに貼って会社に行くようなものでかなりの屈辱だった気がする。

クリエーティブ時代は何かをしているんだけど、何もしていない。どうしたら良いのか、どうすれば好転するのかわからない。そんなことをしているうちに上司に嫌われて、自分の送別会の二次会に上司から誘われたと思ったら2時間ほど言葉の限りを尽くして僕のことが嫌いであるということをあらゆる角度からご説教をもらった。
何が嫌いで、何故嫌いになったのか、いつ、どのように嫌いになっていったのか等々、5W1Hという文章の基本に忠実に忠実に。嫌われるのはしょうがないけど、嫌われるほど仕事で全力でぶつかったかな。全力でぶつかってぶつかって何かを生み出したのかな・・きっとぶつかっていないなぁ、、不完全燃焼だったなぁ、、切ないなぁという苦い思いを抱えて営業局へ出た。

この営業局で僕はジェットコースターさながらの毎日を過ごすことになる。