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自主的に読書感想文②『正欲』朝井リョウ

(2376字)
note毎日投稿5日目にして、まだ毎日投稿やっぱ辞めますって言っても許されるんじゃないかと思っているけーしゅーです。昨日に引き続き、朝井リョウさんの『正欲』の読書感想文を書いていきたいと思います。


そもそも人は、''人間''という高度な知性を持った社会的な存在である前に、''ヒト''という有機生命体でもある。
(''社会的''という言葉もまた、謎めいた混濁を帯びた言葉ではあるが)
人は、''ヒト''と''人間''のケンタウロスなのである、と考えると分かりやすいだろう。
この''ヒト''と''人間''の性質の違いとして、顕著なものを二つ挙げるとするならば、まず一つには、ヒトは世界を、感覚器官を使って捉え、人間は世界を、意識を使って捉えるというものがある。
感覚器官は、世界の''違い''に気づき、''違い''を尊ぶ。
一方意識は、世界の''同じ''に気づき、''同じ''を尊ぶ。
例えば、目の前にりんごが一万個あったとする。ヒトの感覚器官は、そのりんご一つ一つの色・形・味・大きさの''違い''に気づき、この世界に一つとして全く同じものは存在しないということを必死で訴える。
だが、人間の意識は、一万個のりんごのそれぞれの微妙な違いはさておき、いったんとりあえず全て同じ「りんご」だとする。意識は、感覚器官が捉えた種々の情報を一つに集約し、「りんご」と、世界を分ける。分けることで、人は世界を分かっていく。
あまりにも意識が発達してしまった''人間''は、この世界にただ一つとして同じものは存在しないという真理に気づき、お得意の発達した意識を駆使して、この世界に''同じ''を生み出そうとした。それが''ルール''である。人は、''ヒト''という性質を未だに根底に持ち併せながら、ルールなるものを作り、ルールの中で''人間''として''同じ''を守り合いながら生きている。


そして二つ目には、ヒトという有機生命体は、この世界に盲目的に増えようとするが、人間という社会的存在は、この世界に過度に留まろうとする、いわば自己保存欲が以上に高い生命体であるという性質が挙げられる。
例えば、カマキリのオスの数割りはSEX中にメスに食われてしまう。そのオスの最期はまるで、自分達の種族をこの世界に増やすために生まれてきたんだと言わんばかりの死に様である。これは極端な例であったが、生物がこの世界に増えようとするために自らのエネルギーを働かせる物体であるという事実は否めないだろう。
しかし人間は、増えるためではなく、自らをこの世界に保とうともするのだ。だから人間のSEXにはコンドームなるものが存在しているのだろう。その意味でコンドームは人間が造った最大の殺人兵器である。コンドームは、盲目に増えることを拒み、保つことを優先するために生み出されたゴムっペラなのだ。
話が逸れそうなのでここら辺でまとめておくと、少し大袈裟だが、ヒトの生きる目的は、''増殖''であり、人間の生きる目的は、''延命''であると言えるかもしれない。(保命という言葉が存在するならば、この場合、延命より適切な表現だろう)


つまり人は、ヒトという有機生命体でありながら、発達した''意識''なる超能力を駆使して''同じ''というルール(社会)をこの世界に生み出し、そのルールの中で単に増殖して生きるのではなく、ルール自体とルールの中で生きる自らを保持しながら生存してきた特殊な存在なのだ。


これらの上に挙げた二つのことを念頭に置きながら、考えていくと話がまとまっていく。
''欲''の話しに戻ろう。
人は物心ついた頃から、''性欲''を抱き始める。
性欲とは、一般的にSEXと結び付けられて考えられてしまう。なぜなら人もヒト(猿)であり、性欲は種を増やすための欲求として、人の根底に潜んでいると考えられてしまうからである。
しかし、性欲は実は実態のない''感覚''なのであり、人によって大小深浅、千差万別であり、決して性対象が異性とは限らず、何かのきっかけで急に新たに生まれたり、変化したりする非常に''動的''なものなのである。つまり''性欲''には、一つとして''同じ''はないのだ。だから人は、他者を見て空気を読みながら''感覚''を''同じ''に擦り合わせていく。自らが単なるヒトではなく、真っ当で気高く超然とした''人らしさ''なる人としての''正解''を擦り合わせるかのように。それこそが、''正欲''である。その意味で性欲は正欲の先に立ち、より根源的な欲求であると言えるだろう。人は抱いた性欲を正欲で磨き上げて、''同じ''からズレることを避ける。そして''性欲''という言葉を共通意識のキャビネットで共有し合い、形の違った性欲は汚物のように遠ざけて、''正欲に磨かれた性欲''のみを高尚なものとして自らの性的欲望の中心に据えて生きていくのだ。

だがしかし、まだ人生経験が浅く、性欲の正欲による磨き上げの渦中にいる高校生達は、むしろ自らの性欲を開示し、他者と繋がろうとする。つまり、モテようとするのだ。その段階の時期では、他者の顔色を伺い''同じ''を守り合うよりも、この世でたった一つの自らの''性欲''を、他者という鏡に表現することで、自らのアイデンティティを獲得し合い、僕は(私は)違うんだ!と、世界の中心で愛を叫ぶことが第一優先の時期なのだ。だから、彼らはそのどうしようもなく熱い性的欲望をスカートや頭髪というキャンパスに表現するのである。
不良がいい例だ。彼らは、''同じ''を性欲でもってぶち壊し、自分達だけが正しいという正欲を彼らなりに行使して、彼らだけの新たな世界の中で生きているのである。だから彼らは腰パンで半ケツを晒し、第二ボタンをかっピラいて胸毛を晒し、盗んだバイクで走り出すのである。(明日以降へ続く)

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