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自主的に読書感想文③『正欲』朝井リョウ

(2439字)
note毎日投稿8日目です。現在埼京線の満員電車の中で吊り革に捕まり圧迫されながら書いています。なんとか毎日投稿を1週間継続できました。これを1ヶ月まで伸ばしていくためには、暇な時にストックを貯めておくか、忙しい時でもすぐ書けるフォーマット的なものを用意していなければいけないなぁと、やりながら足りないところを思いつく毎日です。スピードと質をギャンギャン上げていきたいです。そんなこんなで今回は、朝井リョウさんの書かれた小説『正欲』の読書感想文をいい加減書き終わりたいと思います。(長くなっている理由は、この小説が扱っているテーマの切り口が無数にあるから)

つまりは、自分と同じ価値観で集まった小さなコミュニティを、世界に一つだけの花と信じ込み、他者と''違う''というだけで相対的な幸福度を高く感じられる年頃なのである。そして、その幸福を感じられる場所はまさに、大概の場合は''学校''というたった一つの世界であり、学校こそが彼ら学生にとっての''世界そのもの''なのだ。

だが、彼らは学校という世界の中で単に''少数派''になりたい訳ではないというのが厄介で、彼らはあくまでも''イケてる少数派''になりたいのである。''イケてる''少数派になるためには、''多数派''の感覚に刺さるものが必要不可欠であり、バスケのピポットのように彼らは常に''少数派''に軸足を固定しつつ、もう片方の足で''多数派''のフロアを自由に探るのである。だから彼らは、耳に穴を開けると言えばちゃんと耳たぶに開けるし、ワイシャツは第二ボタンまでしか開けないという''ルール''を守って''違う''を演出するのである。

しかし学校の大人というのは、それを許さない。なぜなら彼らは、生徒の不安定な感覚の軸足を引き剥がし、安定した意識の世界、つまりは''多数派''の世界に生徒を両足で立たせることを生業としているからである。そう、彼らは生徒に''正欲''を振りかざし、生徒の''性欲''をねじ伏せる存在なのだ。そのやり取りこそ、例のどこの学校でも行われていた、あのスカート丈の厳重指導の光景であったのだ。要するに、''イケてる少数派''になるために必死に作り込まれた生徒の性欲の表現は、大人の''多数派''に導くためという正欲(大義名分)によって、頭ごなしに激昂されて潰されてしまう。酷い教員では「大人と子供は大人の方が偉い。よって、子供は大人の言うことを聞くべきだ。」という立場を使った正欲ポジショントークで子供をねじ伏せるケースも少なくない。(過去に自分も何度もそうされてきた) 立場という抗いようのない力で相手を縛り付け、ただ自分の感情をぶつけることは紛れもなく暴力だ。それは、決して教育でも愛情表現でも何でもない。教育は自分の感情を好き勝手にぶつけた後の、結果論的な後付けではいけない。教育なら、最初から生徒を導くべく目的と真心をもって、それを的確な形式を保った練られた話術でしっかりと''伝える''べきだ。それができない大人が学校には多すぎるのだ。(ほとんど全ての教員がそう)

でもそれも仕方のないことである。なぜなら学校の教員というのは、学校という世界で何の苦労もなく、当たり前のように上手く生きて来られた方々が大多数であり、人生において少数派になることを最も遠ざけて生きて来ている正欲が高すぎる人達の集まりだからだ。だから、自ら''少数派''に飛び込む生徒達を見ると、危なかっかしくて見てられないから、直ちに正したくなるのである。それに、そもそも自分は少数派の世界に飛び込んだ経験が少ないから、教えられることなど何もなく、''辞めとけ''ぐらいしか言えることなどないのである。さらに、そんな生徒を肯定するとなると、これまでの自分の人生を否定することにも繋がりかねない。つまり、そういう意味では教員も生徒に対して真面目に指導しているのだ。自分はこれまで、この生き方で上手く生きて来ることができた。きっと、明日も明後日も一年後も10年後も30年後も、この生き方なら安定して生きていける。楽しく生きていける。だから、お前も何でそうしないんだ。こっちの方が生きやすいぞ。お前の明日のためなんだ。と、自分の正欲を真剣に生徒にぶつけていたのだ。

一方生徒の方も、学校という世界(社会)の中で、与えられたものをこなしながら、明日も明後日も一年後も10年後も30年後も、自分という世界に一つだけの花を愛しながら、幸せに生きていくための''大きな軸''を見つけようと必死なのだ。だから彼らは性欲をエネルギーにして、色々やる。未来に広がる無数の選択肢の中から、より色づいた自分の明日を迎えられる''何か''を手にするために。
学校で見られた教員と生徒のあの平凡な小競り合いには、こうした背景があったのだ。

『正欲』の感想を最後にまとめて終わろう。ここまで、『正欲』の感想文として自分が学校で体験したことをベースに、とりとめもなく思い浮かんだことを、論理を保った風の体裁で書いて来たが、内情は自分でも読み返したくないほどめちゃくちゃな散文に仕上がってしまったと思う。そうなってしまった原因としては、シンプルに自分の腕が足りない事と、この本の扱う''正欲''というテーマの間口が異常に広く、到底論じ切れる代物ではないからである。また、このテーマを論じていくうちに、実は幾つも矛盾が生じてしまっているということに気づいていて、言葉で物を理解するということの限界にも気付かされた。これは『正欲』を読んでる時も何度も感じたことだ。さらに興味深かったのは、自分が学校の事を書きはじめたら、教員に少し当たりがキツく、生徒にはめっぽう甘い所から、自分がまだ大人になりきれていないということにも気づかされた。ぼくはどうやら、まだ高校生の続きを生きているのかもしれない。
こんな重厚で練られた小説を、いつか自分も書いてみたい。(完)

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