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【第39話 キッシュが冷たくなるまえに】

 「おっ、お疲れさん。今晩は炊き込みご飯だ。ブナシメジと人参と真空パックに入ったタケノコ、冷蔵庫に豚小間が残っていたからそれ入れた。あとはサンマの塩焼きだ。魚はみんなそろったら焼き始めるよ」
 キッチンのコンロでは、ご飯用の土鍋の小さな穴から水蒸気が溢れ出していて、グツグツと煮立った音がしている。吹きこぼれがないように二重の上蓋が乗っているが、鍋内部の温度の上昇で、二つの鍋蓋がブルブルと震えて浮かんだり沈んだりしている。土鍋の内部の圧力は相当な力にちがいない。父の人也は素早くガスコンロの火を止めて、キッチンタイマーをスタートさせた。今から余熱も含めた12分も待てばご飯が炊きあがる。
 「じゃぁ僕がさんまを焼くよ、みそ汁の温めもついでにやるわ。じゃぁ着替えてくる」
 そう言って僕は階段を上がり、自室でスーツをジーンズとカットソーのカジュアルな服に着替えて、キッチンに向かった。キッチンには10センチ口径のスピーカーと、ブルートゥース内蔵の小さなアンプが置いてあり、各自スマホで好きな音楽を聴いている。今父がスマホのラジオアプリで選局をしているらしく、先ほどジャズが流れていたと思ったら、今音が切れて、真剣な顔をしてスマホを見つめている。僕は冷蔵庫からサンマの入った発泡スチロールのトレイと大根を出してまな板の上に置いたら、急にサルサがかかってびっくりした。父は今晩はサルサの気分なのかと思ったら、しばらくしてまたジャズが聞こえてくると、父は満足気な顔をしてスマホをテーブルの上に置き、冷蔵庫を開けて缶ビールを二本取り出して、一本を僕に渡した。
 「昨夜行った店はどうだったの?なんか東雲君が厨房にいたって美穂から聞いたけどさ、なんかいいワインもごちそうになったって言ってたよ」
 僕は缶ビールのプルトップをプシュっと開けて、ビールを一口飲む。昨夜はハンドルキーパーで飲むことが出来なかったので、今晩くらいはちょっと飲みたい気分だった。父はそのことを察してくれて缶ビールを渡してくれたのかもしれない。今日もまだ夏の名残が残るような気温だったので、さらに二口目を喉をゴクゴクと鳴らして缶の半分ほどまで飲んでしまった。一気に飲みすぎて唇の横からこぼれたビールを、カットソーの袖でふき取り「ふあ~」と言葉にならないような大きな息を吐いた。

 「いやぁ、ビール旨いわ。昨日はボルドーのちょっといいワインを飲み損ねたけど、僕はビールのほうがいいかな。東雲って凪人のことね。いたわ。相変わらずの御様子で安心したというか、なんというか・・・」

 そう言って残りのビールを飲み干して、空いた缶を流し台に置いた。
 「美穂喜んでたぞ、シャンパン飲んで、赤を二人で二本開けたって。ま、そんだけ飲めば二日酔いで会社をやすむわな。うんうん唸りながら午後まで寝ておったよ。料理はどうだったんだ?」
 父は冷蔵庫でキンキンに冷やしたピルスナーグラスに缶ビールを注ぎながら昨日の事を聞いてきた。傾けたグラスにゆっくりとビールを注いで、半分を過ぎた7割くらいのところで一気に注いで泡の層を作っている。理想形のビール8割泡2割に近いのだろう、グラスの飲み口の面一のところで泡が綺麗に止まっている。父はニヤリと笑ってゴクゴクと喉を鳴らしてビールを飲む。グラスの半分ほどまで減ったビールの上には2割の泡がそのまま残っていた。
 「うん、シャルキュトリーの盛り合わせと、舌平目のフィレ、グルノーブルソースと、マグレ鴨のローストにオレンジソースがかかったやつと、デザートがイル・フロッタント。父さんでも出来るやつだよ」
 「グルノーブルソースって知らない。シャルキュトリーはベーコンはいつかやろうと思ってるけど、生ハムはなぁ・・・。鴨はやれる、オレンジソースもずいぶん昔に作ったことがあったなぁ。確か赤ワインビネガーが必要だったような。イル・フロッタントは昔東京で食べたことがあるが、作ったことなし」
 「グルノーブルソースなんて楽勝だよ、舌平目のムニエルをつくるときのバターとレモンのソースに、クルトンとケッパーを入れるだけ。イル・フロッタントはメレンゲとカスタードソースのデザートだからやれるでしょう?」
 冷蔵庫から二本目のビールを取り出してプルトップを開くと、スピーカーからはジャンゴ・ラインハルトの軽快なジプシージャズが流れ始めた。火事と止めようとして大火傷を負い、左手の薬指と小指に障害をあり、ギターを弾く左手はほぼ二本指で演奏されている。それをまったく感じさせない軽快なギターの音色が夕方のキッチンに鳴り響いている。ジプシーの生まれで、ナチスドイツによる迫害などけして多幸な人生を送ったとは思えないが、この人の音楽は明るく、多幸感に満たされているので不思議だ。
 「店舗は今風かな?僕がイメージするフレンチとは違って、シンプルという言葉を無理やり修飾語にしたような、平成からの不景気を象徴しているインテリア。ただし壁の色が薄いグレーで間接照明は良かったよ。凪人のチャラさが気にならないなら行ってもいいんじゃない? そのうち連れて行ってあげるよ」
 「そっか、そのときはよろしく。こんど冷凍のマグレ鴨をネット通販で買ってやってみるか?そのときはオレンジソースのヘルプよろしく。なんか腹減ってきた。美穂を呼んでくるから、サンマを焼いていいよ」
 そう言うと、父はグラスのビールを飲み干して、階段を上って美穂を呼びに行った。
 
 
 

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