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べてるの家のオンラインマガジン「ホップステップだうん!」 Vol.228

・巻頭写真 「佐々木實さん」(写真・文/江連麻紀)
・佐々木實さん告別式 向谷地生良さんのあいさつ
・佐々木實さんの略歴と足跡
・伊藤知之の「50代も全力疾走」 第25回
・福祉職のための<経営学> 090 向谷地宣明 「地の塩」
・ぱぴぷぺぽ通信 すずきゆうこ 「ありがとう 佐々木社長」



巻頭写真「佐々木實さん」(写真・文/江連麻紀)

1978年、7年間の入院生活ののち浦河赤十字病院精神科病棟を退院され、退院祝いの焼肉屋さんで「これから自分たちはこの町でいったいどうやって生きていったらいいのだろう」という佐々木實さんの言葉をきっかけに回復者クラブ「どんぐりの会」の活動が始まりました。

その後、社会福祉法人浦河べてるの家理事長・有限会社福祉ショップべてるの社長を勤め上げ、先月退任されました。べてるの家の設立から現在までを語るときに欠くことのできない佐々木實さん。

9月10日(金)の朝、ご自宅で静かに息を引き取られました。

佐々木社長とはじめてお会いしたのは2012年でした。

何千人という見学者が訪れる中、どこの誰ともわからない私に最初から丁寧に挨拶してくださったことを覚えています。

それから浦河に行くと「どうも、お久しぶりです。いつまでいられるのですか?」と毎回同じように聞いてくださいました。

写真のことで悩んでいる時期に相談させていただいたら「江連さんの好きに撮ったらいいと思います」と言ってくださいました。それからずっと私の好きを探求しています。

倹約、謙虚、堅実、優しさ、他にも社長の姿から多くのことを学ばせていただきました。

ありがとうございました。心からの感謝を込めて。

【佐々木社長インタビュー 2013】

ー運動を続けるコツはありますか?

自分でやる気を起こさせて、自分を盛り上げて努力をすることですね。クセとか、やらなきゃならないという使命感を身体に刷り込ませる。大したことじゃないんだけどね。20年続けています。合計1時間40分で50分ウォーキングしてあとは運動。港を2周です。前は走っていたけど膝が痛くなってウォーキングに変えました。
あまり自分は快楽を求めない。運動はつらいけどもやってます。徳川家康が「人生は重荷を背負って生きる」と言っていたように苦労するのはあたりまえなので苦労する方を選んでいます。
前は快楽を求めてタバコやお酒もやったけど今はいいものを食べないです。質素倹約。
ガムは3日噛む。汚いんだけどね。でも新しいのに変えたら血糖値があがるから。味もないんだけど噛めるだけ噛む。お昼とかは歯磨きかわりです。

ー私は自分の欲求とつきあうのが苦手で、つきあう工夫があったら教えてください

クセ。しみこませる。若いころは運動するのが楽しかったです。年いくと足も痛いししたくないんだけどしています。でも、人の残したものがもったいなくて食べて食べ過ぎることもあります。
人間って落ちるところまで落ちたらいろいろ考える。そしたら多少考えると思うんだよね。そこから這い上がってきたんだ。統合失調症になって7年間入院したんです。結構楽しかったけど、もう一生出られないんじゃないかと思ったり、人生もうだめなんじゃないかと思ったり、絶望した。昔は精神病は嫌われていた。立ち直れなくて一生病気が続くと思っていました。青春時代で結婚もしたかったし、快楽を求めたんだけど抑えました。お金もなかったし、いろんな、いい意味で苦労しました。

ー社長にとって苦労とはなんですか?

苦労は薬。いい効き目でした。

ー苦労して得したことはありますか?

今現在生きていることです。苦労したから考えられるようになったし、人のことも考えられるようになりました。

ー今はどんな苦労がありますか?

やっぱり、毎日生きていくことが苦労。本は読まない。すべて経験から得たことの言葉。昔本読んだけどそれが頭に残ってます。身に染みている。しぶとく覚えてるんです。

ー社長にとってべてるはどんなところですか?

ぶらぶらして人の顔見たり話したりしたら癒されたり、勇気与えられたり、生きる力を与えられます。弱い立場の人が多いから自分を見つめたり考えさせたりすることも出来るんですよね。自分も弱いし、みんなも弱いからこうゆう生き方もあるという知恵を与えてもらえます。

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佐々木實さん告別式 (9/11) 向谷地生良さんのあいさつ

「和解の使者」

長い間、精神障害を持つ人たちの当事者活動のリーダーとして、さらには社会福祉法人浦河ベてるの家の理事長、有限会社福祉ショップべてるの代表取締役としての務めを果たしてこられた佐々木實さんが、10日(金)の朝、自宅で静かに息を引き取られ天に召された。79年の生涯であった。

年明け、膀胱がんが見つかり、長くて一年の命と伝えられ、佐々木さんは身辺を整理し、在宅での看取りを希望し、最後の最後まで、べてるでの仲間との交流と礼拝をかかさずに続けていた。

私と佐々木實さんの最初の出会いは1977年12月だった。唯一、就職先が定まらない私に大学の先生からかかってきた「就職が決まってなかったら、浦河赤十字病院を受けてみないか、受けるだけでいいから」という一本の電話からだった。

難病患者運動や特養での住み込み経験、死刑囚との文通を通じた交流、ハンセン氏病の啓発活動などに関わることで生まれたさまざまな問いを前にして「就職」に踏み切れないままに、卒論に没頭していた矢先だった。何度となく就職コーナーに掲示されながら、応募者がいなくて期限切れとなっていた就職先であった。それもそのはずで、まず、「精神科」「田舎」「ひとり職場」「日高管内最初のソーシャルワーカー」という条件を聞いただけで、尻込みをしてしまう。そんな時代だった。

当時から、好条件には関心がわかず、悪条件に食いつく習性がある私は、「練習のつもり」で受けることにし、浦河赤十字病院で数日間の採用試験に臨んだ。そこで出会ったのが、7年間の入院中で、来春に退院を予定している佐々木實さんであった。

そして、精神科専属のソーシャルワーカーとして採用になってはじめて行った仕事が佐々木さんの退院支援であった。写真は、1978年7月に退院となった佐々木さん(当時36歳)を囲んで仲間と共に開催した焼肉屋でおこなった“退院祝い”のスナップである。これが、べてるの家につながる当事者活動の記念すべきはじまりだった。

1979年4月に、私は病院の寮を出て浦河伝道所の一室を借りて住み込むことになった。それは、無牧師の教会で空き部屋が多かったこともあり、有効活用と財政的な一助になればと考えたからである。そのイメージの背景には、学生時代に学んだソーシャルワークのルーツである1800年代の半ばに、英国における産業革命による繁栄のもとでロンドンの郊外に広がるスラム街に移住(セツルメント)し、寝食を共にしながら貧困問題を考えようとしたセツラ―と呼ばれる若者たちの姿があった。私のソーシャルワーカーとしての第一歩は文字通り「セツラ―」としてのはじまりであった。

この「セツルメント」にはもう一つの吟意がある。それは「和解」である。つまり、ソーシャルワーカーとは、「和解」をもたらすことを期待されているのである。

端的に言ってソーシャルワークというのは、「腹が立つ」ことが多い仕事である。というのも、心の病は、「苛立ちの病」といってもいいくらい、当事者自身の苛立ちと周りの苛立ちが渦をまき、事態を複雑にし、関係を壊し、人の命と暮らしを蝕んでいく。私は、その「苛立ち」の渦に巻き込まれる中で生じる自分の苛立ちと自己嫌悪によって、何度となく自分の立ち位置を見失いかけたことがあった。ロンドンのイーストエンドに広がったスラム街も、そのような現実であったに違いない。そこで私は、古い会堂で、セツルメントを再現してみようと考えた。そして、与えられた最初の入居者が佐々木實さん(1980年)であった。

以来、1988年に下請けを脱し、自前での昆布の買い付け、1993年の会社設立(佐々木さんの社長就任)、さらには2002年の社会福祉法人(理事長就任)の設立など節目節目で、物心両面で私たちを支えていただき、特に来月(10月)完成が予定されている浦河教会の新会堂と地階の納骨堂は、佐々木實さんがいなくては実現しなかっただろう。

11日の午前3時過ぎに病床に臥す佐々木さんに付き添っているスタッフから、容態の変化を知らせる緊急の電話が入り、私は原稿書きの仕事を中断して妻と一緒に佐々木さんの部屋を訪ねた。私は、佐々木さんを囲み、つかの間の時間を共有し、43年間の佐々木さんと過ごした時間を思い起こし、若いスタッフとも語り合った。ベッドに横になり、時折、酸素吸入をしているマスクに手をやりながら、苦しい息の中で、静かにたたずむ佐々木さんの枕元には愛用のラジオが置かれ、懐かしい昭和の音楽が流れていた。

私は一時間程滞在し、佐々木さんの安静を確認し、自宅に戻り、仕事を続けた。その時、私は、ふと佐々木さんが枕元で聴いていたNHKラジオ「ラジオ深夜便」を一緒に聴きたいという思いにかられて、スイッチを入れた。ラジオは音楽の時間が終わり、「人生の道しるべ・アンコール」の時間になり、村上里和アナウンサーがノンフィクション作家の柳田邦男氏にインタビューをしていた。

その中で柳田氏は「人は“物語”を生きている」と語り、その人が亡くなった後も、残されたちの記憶の中に残り、生き続け成長を続ける人生、つまり「死後生」について話していた。まさしく、佐々木實さんの人生を象徴するような言葉だと思った。そして、この同じ時間に柳田邦男の言葉を枕元で聴いているであろう佐々木さんに思いを馳せ胸が熱くなった。

ラジオでの柳田邦男の語りが終わると同時に、再びスタッフから緊急の電話が入った。それは、佐々木實さんの安らかな旅立ちを知らせる訃報であった。

佐々木實さんが亡くなり、それを伝え聞いた古くからの仲間が駆け付けてくれた。いつも安倍総理から振り込まれているはずだと言って「3000億円」の預金を引き出すために銀行の窓口に足を運ぶ幻覚妄想大会の常連のたかしさんが、泣きじゃくりながら走ってきた。玄関に入ると同時に、泣きながら「佐々木さんは、いい人だった。絶対、死んでない。俺の母さんも、兄貴も、みんな星になって生きてるよ。夜道を歩くと、星が“タッか、元気か”って話してくるし、あれは生きてる証拠だよ。佐々木さんも、星になったんだよ」と言って泣き、横たわる佐々木實さんの手に優しく触れた。

その後、一人のスタッフが目を泣きはらしながら話してくれた。それは、数日前のことだった。病床に横たわる佐々木さんに思わず話したくなり、自分がいまだに受け入れられない人の存在と出来事を話し、聴いてもらったというのである。すると苦しい息の中で、それを聴いていた佐々木さんが一言「きっと和解できる時が来ますよ」と言葉をかけてくれたのだと言う。仕事の帰りに不思議なことが起きた。店に買い物に寄ると、久しく会うことのなかったその人と偶然に遭遇したというのである。そして、今までのように目をそらしてやり過ごそうとした瞬間、佐々木さんの言葉「きっと和解できますよ」という言葉が蘇り、自然にその相手に挨拶をし、和解が出来たというのである。

それを聴いた時、私は自分に起きた駆け出しのころの出来事を思い出していた。当時は、すべての業務がまさに神のような存在であった精神科医の判断と指示によって成り立ち、その領域は絶対不可侵の時代の中で、私が主治医の“患者さん”であった佐々木實さん達と一緒に暮らしはじめるということは、一番やってはいけないことだった。それ以外のさまざまな場面でも、当時の医師からすると自分の立場を脅かす行為を繰り返す私は許し難い存在だったのだろう。その頃、若き研修医として大学の医局から派遣されていた川村敏明先生が私に時折、「〇〇先生が、向谷地君と上手くいってないってこぼしているよ」と、それもニコニコしながら教えてくれた。「上手くいってない」と聴いて、そんな自覚が全くなく、その先生を嫌いでもなかった私は驚いた記憶があるが、その自覚の無さが、相手を不快な気分にさせるといういつものパターンだった。

忘れもしない1984年4月、「浦河ベてるの家」が発足したと同時に、「君とは仕事をしたくない。ぼくが院長だったら君はクビだから」とその先生に廊下で告げられ、精神科への出入りと、患者さんとの接触の禁止を申し渡されて医事課の窓際に配置換えとなった。ちょうど結婚をし、生まれた子どもも一歳に満たない時期だった。私は人生の重大な岐路に立たされ、追い込まれ絶望的な心境になった時、沸々と湧き上がったのがさまざまな困難や自分以上の絶望を生きてきた佐々木實さんや潔さん達の経験に少しだけ近づけたかもしれないという不思議な高揚感だった。

私は、誰よりも一人の“クライエント”であった。そう思った時、私は、自然に「佐々木實さんに相談してみよう」と思いたち、素直に気持ちを打ち明け、聴いてもらった。佐々木さんは「向谷地さんも大変ですね。でも、何とかなりますよ」と言ってくれた。当然、これも当時は一番やってはいけないことだった。しかし、私には、それがもっとも自然なことだった。ここから生まれたのが、人の相談を受ける以上に「相談するソーシャルワーカー」という立ち位置であった。その結果、私は“窓際”という見通しの無い苦労の中に居ながらも、落ち着きと、大切な経験がはじまっている手ごたえを感じることができた。

佐々木さんに相談した後、自分がとったのは、自分を追い出した「先生の悪口を言わない」「自分を浦河に呼んでくれた先生のいいところを陰で言う」作戦だった。朝、病院の長い廊下の向こうから、先生が歩いてくる場面に遭遇した時は、ドキドキしながら、いつものように挨拶を続けた。勿論、先生は無言のまま通り過ぎ、挨拶はなかった。それから、5年目が経過した年の師走、忘年会を前にして、その先生が私と話したがっているということを固定医として浦河に赴任したての川村敏明先生が私に伝えてくれた。そこで私は忘年会の会場で、先生に恐る恐る声をかけた。すると返ってきたのは、「君には負けたよ・・・」という短い言葉と握手だった。5年目の和解だった。

佐々木實さんこそ、私たちにとっての「和解の使者」だったのだと思う。この町で生きてもっとも惨めなことの象徴であった「第7病棟」で7年を過ごし、和解の種を蒔き続けた佐々木實さんの人生は、いま、終わると同時に、再び残された一人一人の中で始まったような気がする。

佐々木實さん、本当にありがとうございました。新しい教会の地階にできる共同住居のような「誰でも利用できるオープンな納骨堂」の最初の入居者として、歓迎いたします。佐々木さんの隣には、私も、川村敏明先生、そして早坂潔さん達仲間も「生前入居」を予定しています。そこで、また、楽しく語り、人生を研究し合いましょう。

2021.09.11
向谷地 生良

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