ボロット第二部第一話「交通事故と死」

桜花大学のキャンパスには全部で12棟の建物があったが、大学に通う4年間にすべての校舎に入館する機会はあるだろうか。それぞれの建物には1から18までの番号が振られている。駅を降りた玉神響が向かったのはそのうちの17号館だった。

響は建物の入り口から入って右手にあるエレベータで4階に上がると、左手奥の「17403」と番号が割り振られた教室に入った。今から「計算アルゴリズム(前期)」の講義がある。受講者は30名ほどだろうか。

「現在のコンピュータはとても大量の情報を驚異的なスピードで計算することができますが、本質的なところで、今のコンピュータは、アラン・チューリングが90年前に示した計算可能性の限界からは抜け出せてはいないのです。」

 響は教室の前から3列目の席に座って、講義を聞いていた。彼は経済学部に所属していたが、暇つぶしに、経済学と関係がない講義も受講していた。このコンピュータサイエンスの講義もその一つだ。

 コンピュータの歴史は百年に迫ろうとしている。目の前で教鞭を取っている教授もかなりの高齢だ。

「えー、つまり、問題の解き方が分かっているからと言って、どんな問題でも答えを出せるわけではない、という点に注意する必要があります。
 最新のスーパーコンピュータが1秒間に100京回の計算をできたとしても、1に1を足して2という計算結果を出すには、有限の時間がかかるわけです。
 人間が生きている間に計算が終わらないほど膨大な計算量を必要とする場合、答えは存在しないのと同じです。」

 響はあらかじめ教科書を読んでいたので、受講前から計算機の計算量やら、NP完全問題やらの解説が始まることを期待していた。

 教授は続けた、いやじ准教授だったか。響にとっては名前も含めてどちらでも良かったが。

「例えば、自動車を販売するセールスマンが1日に4箇所の得意先を回るとしましょう。移動には時間もお金もかかるので、経費削減のため、できるだけコストをかけない最短ルートを知りたいときがあります。
 まぁ得意先が4箇所程度であれば、考えられる6通りのルートについてコストを計算して、もっともコストが低いルートを選べば、いわゆる全数探索の方法で解けてしまいます。人間でもこのくらいなら解けます。
 ただ、得意先が4箇所ではなく10箇所、100箇所、さらにもっと多くなるとどうでしょうか。」

 響は少し考えた。この巡回セールスマン問題は数学的にはどのように定式化できるのか。

 得意先iから得意先jの移動にかかるコストをcij、営業が得意先iから得意先jに行くかどうかをxijで表せば、ΣiΣjcij x xijを最小にするようなxijの組み合わせを求めれば良い。xijには、一度訪問した得意先に二度目は訪問しないなどの制約を課せば、定式化はできないこともないだろう。

「得意先の数Nに対して、考えられるルートの数は(N−1)!通り存在するので、おっとこの「!」は覚えていますね?、高校で習った階乗です、それで、100箇所回るとすると、考えうるルートの数は933,262,154,439,442,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000通り存在することになります。
 1秒間に100京回計算できたとしても、1ルートのコストの計算がわずかであったとしても、たった100箇所の問題を解くことも、今のコンピュータにはできないのです。」

 まぬけだな。

 響がこの説明を聞いた時の最初の感想だ。

 いくら科学技術が発達しても、やっていることは指を折り曲げて足し算している子供と変わらない。原始的だ。あの教授だか准教授が言っているように、人類は時間を超えられない。物理的制約も超えられない。2を求めるには1と1を足すしかないんだ。

 講義が終わると響はカフェGOPASに向かった。

 GOPASは中里優人に請われて入った大学のサークルだ。サークルと称しているが、単に発起人の藤浦悠実香が趣味で運営している大学構内の喫茶店だ。サークル活動という建前上、店員として働く響や優人にバイト代は支払われていない。悠実香は調達品の原価回収がやっとで、利益は出ていないと言っているが果たして本当か疑問は残る。

「あら、優人くんと一緒じゃないの?」

 エプロン姿の悠実香は、店内に入った響にテーブル吹きを任せると、自分は配達された食材を確認しながら、冷蔵庫に収納した。

「いや、講義が別だったから。
 今日は早いんですね、先輩」

「そうなんだ。いつも一緒かと思ってた。
 私は講義が午前中だけだったから。午後はボードを描いてたのよ。」

 店内の入り口近くに置かれた立て看板には本日のコーヒーとデザートが手書きで描かれていた。そうか、今日からデザートがクリームブリュレに変わるんだった。新しいメニューで店が忙しくなるのは困るのであるが。

「味見、したんですね。」

 ペーパータオルと消毒液を用具入れに片付ける時に、クリームブリュレの容器がゴミ箱に捨てられてたのを響は見逃さなかった。

「え?
  もちろんよ。お客様に美味しくないもの出せないでしょう?」

「悠実香先輩!
 デザート選びの時に散々味見はしたじゃないっすかー!」

 中里優人が喫茶店のドアを大きく開けて入ってきた。開店10分前だ。

「ちょっと優人くん!
 開店準備があるんだから、いつも30分前には来てって言ってるでしょう?」

 悠実香はクリームブリュレの盗み食いを指摘されたことなど意に介せず、優人に詰め寄ると遅刻をさらに咎めると思いきや、立て看板を指差して、店の前に運ぶよう優人に命じた。悠実香は言っても聞かない人間に時間をかけるより、実を取るタイプなのである。

「みんな、いいかしら?
 今日はサークルの勉強会があるから営業は18時半までよ。」

「了解です。楽しみっすねー!」

 サークルの勉強会とは、桜花大学にあるサークル間の友好や親睦を目的としたコンパであり、ほぼ毎日どこかのサークルで開催されている。

 響も勉強会に誘われたが、大学では優人と悠実香以外と接点を持つ気は無かった。このサークルも二回生に上がる時には辞めるつもりでいた。

「響くん、本当に後片付けを頼んじゃっていいのかな?
 一緒に来ればいいのに?」

 床のモップがけを終えた響は、店の前で開店を待っている学生を見て気が重くなったものの、気を取り直して悠実香に答えた。

「特に興味ないので。
 後片付けはやっておきます。」

「そっか。悪いわね。」

「おい、響ちゃん。
 今日は一緒に帰ってあげれないけど、夜道には気をつけてね(笑」

 実際、優人の警告は二つの理由で冗談にはならなかった。

 その日の19時。店を閉めた響は、いつもと同じ道を辿って学校の西門を出た。右手に向かうと最寄り駅だ。当然、響は右に曲がった。

 人通りはまばらだ。通りに面した店の灯や駅まで続く街灯で暗くは感じない。

 向かう先に一人女性が立っていた。子供を大学に入れたくらいの見た目で、若くはない。勧誘か。チラシを行き交う人に渡しているが誰も受け取らない。役にも立たない、歩くときの邪魔になるだけの単なる紙を受け取る者などいないだろう。

 近づくと、その女性は無言でチラシを渡しているのではなく、何かを訴えているようだ。まだ距離があるため、ここからでは声が良く聞こえない。

 ちょっと待て。通りを挟んだ向こう側に、小さい子供が歩いている。小学生か。男の子だ。塾にでも行くのか。19時とは中途半端な時間だ。なぜここにいる。いてはいけない気がする。

 チラシを配る女性の声が聞こえる距離まで来た。

「・・・世界を創った・・・
 ・・・・・・この世界の外と中は・・・
 マルチバース・・時間・・・・です。
 ・・・」

 言っている内容は分からない。「無限」がどうしたとかも聞こえる。宗教の勧誘でもないようだ。どういうことだ。配っているチラシが黒い。いや、あのチラシは紙ではない。何だ?紙のようなツヤや張りがない。ん?皮?皮?皮を配っているのか?あれは配っているのか?それとも・・・。

 !眩しい。車のヘッドライトが目に入った。しかし光が顔に当たる角度がおかしい。響は車道の右側の歩道を駅に向かって歩いている。対向車ならヘッドライトは顔の正面から少し左にずれた方向から当たるはずだ。車が響のいる歩道をものすごいスピードで走行し、こちらに向かっているのだ。おいおい、人が轢かれているぞ。暴走?今ここでやっと逃げ惑う人々の声を脳で認識することができた。

 ん?小学生?!いつの間に同じ歩道にいる?なぜ響の正面を歩いている?信号も横断歩道もなかったぞ。車道を横切ったのか。

 小学生はランドセルを背負っている。これも黒色だ。もちろんあの女性が配っている黒いチラシ状の皮の色とは全く関係ない。あの小学生は手に何かを持っている。小学生が持つには似つかわしくない。お店?どこかのお店の紙袋だ。大きい。小学生の足の長さから推測すると直径40センチくらいの球形のものが入ってるようだ。

 しかし今は、そんな思考に頭を使っている場合ではない。暴走する車と小学生の距離、車の走行速度から判断すると衝突まで2秒もない。助けなければ。周りの大人たちはパニックだ。彼らに小学生を助ける余裕はない。

 交差点に立ち尽くす、あれは桜花の学生か?スマホで動画を撮っている。不謹慎だが動画はあとで証拠に使える。

 ここからじゃ走っても小学生に追いつけない。小学生の左側には街灯がある。街灯の影に隠れれば車が衝突してもショックを緩和できるのではないか。いや、逆に街灯が倒れて下敷きになるか。しかし響がいる場所からでは声しか届かない。これ以上、思考に時間を使うわけには・・、叫ぶしかない。

「おい!左に避けろ!」

響が叫ぶ。

小学生が足を止めた。

バカ、止まるんじゃない。左に移動するんだ。まだ1.5秒ある。左だ。止まるな!

『生と死は同時だよ。』

「?!(なにを言っている?!)」

女?

手に持った黒い羊の皮をヒラヒラさせている女性。彼女は響に話しかけたのか?響が正義感に駆られてあの小学生を助けようとしているところを見て、あの小学生がもう助からないと考えて、それに対してその言葉を響に向けて言ったのか?

この女が持っているもの、そう、あれは羊の皮だ。羊皮紙だ。黒く染色され、白い文字で何かが書かれている。

BOROT?英語ではない言語で書かれており、映像は目に焼きついたものの、意味は分からない。唯一読み取れたのは5文字のアルファベットとして認識したものだ。

あと1秒。

小学生は立ちすくんでいる。

響の声で足が止まった。響が叫ばなければ、自分で逃げられたのではないか?すぐ左の街灯に隠れることなど、小学生なら判断できる。しかし響が声を発したことで、彼に残されたわずかな思考時間が響の叫びを理解するために使われたのだ。計算のための時間は有限なんだ。

死。

絶望的な気持ちになった。

1秒後に訪れるのは人の死だ。

まだ生きてはいるが、自動車の質量と速度の二乗から定義される運動量があの身体にぶつかっては助からない。

「左だー!」

言い終わるまで1秒かかった。しかし最初の音が小学生の耳に届くのは、音の速度が秒速340mなら0.03秒。

小学生が振り向いた。

まずい。そんなことのために叫んだんじゃない。避けろ!

顔が、小学生の顔が見えない。振り向いたときに見たはずだが、空白だ。ここだけ記憶がない。小学生の顔を思い出せない。

車は小学生を轢き飛ばした後、ガードレールにぶつかって停車した。

あたりは騒然としている。

響はまず救急車に電話をかけた。次に小学生に駆け寄ったが、その小さい身体はもう手の施しようがない状態になっていた。一瞬足から力が抜け、立っていられないようになったが、気力を振り絞り、動画を撮影していた学生に、その映像を警察に提出するよう伝えた。程なくして警察が到着し、現場検証が始まった。暴走した車の運転席では、初老の男性だろうか、エアバックに頭を埋め、手を合わせて念仏か何かを唱えていた。

轢かれた人は小学生だけではなかったが、皆、間髪避けて、軽傷で済んだ。この事故で死んだのは小学生だけだ。

響が殺したのか?

あの2秒間。響の叫びで確かに小学生の足は止まった。それは響の声とともに動画に残っているだろう。それが罪に問われることはないだろうが、響の罪の意識は彼の心を支配した。

もしあの時、何もしなければ結果は変わっていたのか。別の未来があの小学生にはあったのか。生きる未来が。

あの瞬間、非常に限られた選択肢、可能性、しかし考えうるあらゆる可能性、それに対して響が取った行動とそれによる結果。

計算結果が出なければ、答えは存在しないのか。コンピュータでは計算できない、それはいい。計算機は単なる人間の道具だ。限界はある。人間の思考、つまりコンピュータで言うところの演算装置に当たる脳、その脳にも物理的な制約があると考えることは妥当だろう。ニューロンの数もシナプスの数もそこを伝わる電気信号も全て物理的な現象だ。

しかしだ。一番良い未来を選択するための答えがなかったのかと問うなら、それは正しいと言えるのか。答えはあったはずだ。計算できなかっただけなんだ。脳が判断できなかっただけなんだ。しかし正しい答えはあったはずなんだ。

響の自責の念はその後も無限と零の期間中に渡って存在し続けた。

つづく

ボロット物語 もくじ
https://note.com/bettergin/n/n7e1f02347fba

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