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イェリネクをやり続けること 三浦基

イェリネク戯曲を初めて演出したのは、震災の翌年、2012年の『光のない。』だった。あれからもう10年が経ったことになる。その間に、同じくイェリネクが書いた『スポーツ劇』、『汝、気にすることなかれ』を演出した。今回は『光のない。』のマルチリンガル上演としての『ノー・ライト』、さらに最新戯曲である『騒音。見ているのに見えない。見えなくても見ている!』を演出するので、気がつけばイェリネク戯曲の上演は私のライフワークになろうとしている。

チェーホフやドストエフスキー、ブレヒトなどの古典を演出するのとは圧倒的に違う感覚がイェリネク戯曲にはある。なんだかとても苦しいのだ。すぐにテンパってしまう私がいる。つまり台詞の一行一行の意味を逐一判断していかないと、「何がどうした?」といつも混乱してしまうのだ。演劇をやることの意味や、見ることの意味についても考えさせられてしまう。言葉が難解だとか文化の違いがあるとか、その種の苦労ではない。イェリネクの言葉自体はいたってシンプルだ。例えばこのように。

腹いっぱい食うことはいつだって人生という格安バス旅行に含まれてるんだ。そのことはちゃんとパンフレットに書いてあった。海岸での自由行動日を含みますてな具合にな。俺たちだけはそれにどんな意味が含まれてるのかを理解してなかった。

『ノー・ライト』津崎正行訳

例えば、この台詞は何を言っているのか。文章自体そんなに難しくはない。『ノー・ライト』は震災と原発をテーマにした作品ということだから、津波という言葉も原発という言葉も見当たらない中で、それらについて考えることになる。ところが被災者の代弁として読もうとすると少し違うような気がする。「格安バス旅行」の「パンフレット」を手にする〈私〉は、「自由行動」があることによってその不自由を思い知る。いつだって私もあの「海岸」にいられる、ツーリズムのことを言っている。津波による被害と、パッケージ化された資本主義の寂しさが並走している。私が演出するとき上記の台詞で強調するのは「人生」「理解してなかった」の二つだ。それは叫びになる。

「何がどうした?」の「何が」を、例えば原発、例えばオリンピック、例えばキリスト、例えばコロナという言葉に置き換えて考えてみる。何をあてはめても、半分は当たっていて、半分は外れている。二元論に陥りやすいトピックこそ、むしろわかりにくい問題を孕んでいるからだ。原発やオリンピックはともかくとしても、キリスト教やコロナウィルスについては、タブーと常識の境界が見えづらいのである。大文字の社会問題というのは実はこのように複雑だ。

この戯曲に書かれている文字たちとどう距離を取ったらよいのか、常に気を張っていないと、すぐにわかった気分になって、最終的にはやはりわからなくなる。この「何が」を「わたし/あなた/わたしたち/あなたたち」に絞ってみる。つまり、「原発がどうした?」と書かれているらしきところを「わたしがどうした?」と読み解く。同様に「キリストがどうした?」を「わたしたちがどうした?」と。ここでわかることは、私にとっては、キリストよりも原発の方が身近に感じているということであり、しかし5分後には、それは本当なのかと自問をしているということである。キリスト問題も原発問題も私にとっては、実はあまり考えてこなかった事柄であるし、身近ではないな、と。ましてや、この私は「わたしたち」という感覚を一体いつになったら持てるのだろうか、と。

イェリネク戯曲は、驚くほどわかりやすく語りかけてくれる。そこで苦しむことを放棄すると、「わからない」の迷宮入りをするが、粘っているとときどき「わかる」という快感を得ることになる。そのご褒美はやはり欲しいので一行一行にアタックしてゆくことになる。ご褒美の中身は、端的に言えば世界がクリアに見えるということ。今まで気がつかなかったことや、うっすら疑問に思っていたことが鮮明に見えるということ。見えるということがあんなにも感動するということ。それが演劇をやる意味であり見る意味だというシンプルなことをイェリネク戯曲は教えてくれる。なので、なかなかやめられない。この作家によって世界は新しい視界を手にすることになる。

さて、最新作の『騒音。見ているのに見えない。見えなくても見ている!』の主題はコロナです。当然、「コロナがどうした?」では、足りない。半分足りない。ですので、今のところ、俳優はウィルスのつもりでこの戯曲にアタックしています。

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