何かを「好き」と言うことすら、インターネットのせいで自粛するようになった

この間このツイートに言及して、人は同じ山を登っているのではなくて、一人ひとりが違う道を歩んでいるのだから、上とか下とかないはずなのだ、というブログを書いたのだけれど、また似たようなことを今日思った。

それはちょっとした趣味など、自分が好きだなと思うことに関しても「どのくらい好きか」がインターネットのせいで定義されがちだということだ。

例えば、カラオケが好きなら週にどのくらい行って何点くらい出せるようになるだろうとか、ヨガが好きなら週に何回レッスンに行って体がどのくらい綺麗になっているだろうとか、映画が好きなら週に何本映画を観て監督の名前もスラスラ言えるようになるだろう、とか、世の中に〇〇好きがたくさんいるから「好き」の基準が定量的に客観視できるようになってしまったのだ。

だから、何かを好きだなと思ってもその基準に達していないと「好きだ」と言うことに自信が持てなくなる。このくらいなら好きではないのではないか、好きだなんて言ってはいけないのではないかそう思って「好き」を自粛していくのだ。明らかに基準を上回ったと確信しないと「好き」と堂々と言うことができない。

せっかく抱いた「好き」というプラスの感情をなかったことにしてしまうのはとてももったいないと思う。反対に、それくらいのことで見過ごせるならやはり大して好きではなかったのでは?と言う意見もあると思うけれど、結局その"モノ"に出会ってから、時間をかけたり得意になっていかないと「好き」が大きくなっていかないこともあるだろう。せっかく生まれた小さな芽を伸ばすことなく摘んでしまうのはもったいないと思う。

当たり前だけど「好き」に条件など存在しない。肉じゃがが苦手でも料理が好きだと堂々と言って良いし、月に1本しか書く時間がなくても書くことが好きだと言って良いではないか。好きだと感じたら、それは好きなのだ。

「好き」に結果が求められすぎている世の中な気がして、悲しい哉、そのせいで「好きなこと」にプレッシャーを感じ、「好き」とすら言えなくなっているのではと思う。


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