恋愛は相性に尽きるけれど、愛は違うのかもしれない

わたしは自分の人生のテーマは愛だと思って生きてみているのだけれど、これまでは恋愛も愛もどちらも人間と人間の相性に尽きると思っていた。(※このブログは総じてパートナーとの愛に限定するが、わたしの人生のテーマは仲間愛や親子愛も含んでいる)

これだけたくさんの人が自己を主張することを許され、どこにでも行ける時代なのだから、相性の良い人とはきっとどこかで、何かのタイミングで出会うことができて、恋愛を通して愛を生み出していくものなのかなあと思っていたのだけれど、いま読んでいる本によりちょっと価値観が変えられそうだ。(参考文献:『愛するということ』)

それはどのようなことかというと、「成熟した人間のみに愛する能力がある」ということである。この世には愛する能力を手に入れた人間と、手に入れていない人間と2種類存在し、そのうち、愛する能力を手に入れた人間のみこそが愛することができ、ゆえに愛されることも可能になるというのだ。とりわけ成熟の内容についてここで書くことがわたしにはできる気がしないのだけれど、平たく言うと、自立していて自分を愛せる人間のことである。

ちなみに愛は恋のように突然落ちるものではなくて、能動的な行動だとのこと。これは、よく「愛は意志」なんて日本でも良く聞く内容に似ている。


恋愛は、例えばマゾヒズムはサディズムに惹かれ性的欲求を満たし孤独を味わったりして楽しむわけだけれど、どちらにも愛する能力が欠如している結果である。わたしはこれはあくまでも相性、つまり、自分にないもの(厳密に言うとマゾヒズムもサディズムも根本は同じだから同一的とも言えるのだが)を求め、惹かれ合ったに過ぎない。もっと冷たく表現すると、需要と供給が合ったに過ぎないわけである。需要と供給が合うタイミングで出会ったという点で、相性が良かったのではないか、と思う。

この論に基づくと、上記のようなサディズムに惹かれるマゾヒズムたちには、成熟していないということになる。つまり、愛する能力がないということだ。

愛を生み出し育むためには、まずは自分が成熟していないといけない。自分の生を受け入れ、自立し、しっかり歩ける人間でなければ、見返りを求めず愛するという行動ができない。

そしてもちろん、自分だけが成熟していればいいということではない。相手も成熟している必要があるのだ。

恋愛の延長に愛があるというわけではなくて、愛に基づいて恋愛をすれば自ずとそれらは一直線上に並ぶのではないか、とも思う。


人を愛せる人はかっこいい。我もそうなりたいな〜

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