過去の自分は、他人と同じ

時間は未来から流れている、と大学生の時にある大人に言われて衝撃を受けたことがある。どういうことかというと、過去があるからいまがあるというよりも、未来を想像して動いていくからいまを生きられる、という具合だ。もう少し噛み砕くと、わたしは昨日もブログを書いたからいまブログを書いているのではなくて、ブログを書きたいと思ったからブログを書いているのである。ちょっと宗教的だし、わたしが大学生当時に読み漁っていた苫米地さんの本に書いてあったことだった気がする。いまはもう読んでいないよ。

そしてわたしが新卒で入社したリクルートでは、いまの自分は必ず過去に起因しているという考え方の人材開発をされていた(と思う)。いまわたしはどういうことに喜びや哀しみを覚え、それは過去のどういう経験からなのか、それをひたすら掘り下げられるのだ。つまり、過去の自分なくしていまの自分は有り得ないという考え方だと思う。

そして最近読んだ本には、他者と比較するのは自信形成にとってマイナス要素であり、過去の自分と今の自分と比較するのもまた同じである、と書かれていた。

これはつまり、過去の自分といまの自分は違うということとほとんど同義なのではないかと思う。

なんとなく納得がいく。どんなに昔は、自信満々でひとつのことを長くコツコツ続けて成果を出す人間であったとしても、生きていくうちに色々な価値感に触れ、考え方が変わり、価値感が変わり、感情が変わり、行動が変わると、どんどん昔の自分といまの自分との辻褄がいつの間にか合わなくなるのではないかと思うのだ。それは自然なことだと思う。いまのわたしは昔のように大きな欲を持たず、コツコツと自分のスキルアップに励むことができず、1年も同じ会社を続けられなくなってしまった。

過去の自分のどこに原因を見つけようとも、それが真実であるかどうかは誰にも分かるはずはないことで、ストーリーに辻褄がない不快感を排除する気休めにしかならないのだ。

過去は大事だ。過去のわたしのおかげで、一抹の自信は心の底では保てているわけである。いままでの人生で一番気持ちよく生きてこれたのはいまではなくて過去かもしれない。

だけれど、過去の自分は「自分」というよりも、単なるわたしの「記憶」に過ぎない。あの時はもうやってこないわけなので、あの時の自分は、あの時にしか生きていないのである。

過去の宮坂よ、どうもありがとう。未来の宮坂を、我は考えることにする。


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