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能登半島地震の現状

わたしは新聞・テレビ・ネットニュースの記事を一切信じないのですが、能登半島に行く機会があったので、今回はそのことを書いてみたいと思います。



※ここに書かれていることは、能登半島の中部、石川県穴水町のことなのでこれで全部だとは思わないでください。

※地震から2ヶ月経った平成6年3月2日現在の情報です。

※わたしが感じたことですが間違えている点があればぜひご指摘ください。



2月11日の精神薬や精神医療の危険性に警告を鳴らしている小倉謙さんの講演会の時に、うちの無農薬・無肥料の野菜を大量に買ってくださったお客さんがいて、「何に使うのですか?」と訊くと「能登半島地震の被災者の支援をしていて、そこに持っていくんです」と言われたので、大変感銘を受けて、PEAK(人と動物と地球)に優しいマルシェを主宰しているNEKOちゃんに誘われて、その支援の方に同行し炊き出しをすることにした。共同オーナーである鍼灸治療院常若さんからも寄付をいただき、食材費と調理器具代に充てた。



3月2日(土)朝4:30に起きて、岐阜羽島のJAに集合。そこから支援物資と炊き出しの食材や道具を積み込み、4トントラックとキッチンカー、10人乗りのハイエースの総勢16名で被災地へ向かった。



すでに、ソース焼きそばと豚汁はやることになっていたので、NEKOちゃんと相談してマルシェの特性からビーガンシチューを提供することにした。現地で野菜を切っている時間がないと思われるので、前日に野菜を100食分を想定してカットし、持って行った。



今回の行き先は石川県穴水町。震災では中程度の被害を受けた地域だ。支援の方はそこの出身ではないが若い時に大変お世話になった所なので、今回の支援をしているとのこと。北陸道と能登道路を使っても片道7時間はかかる。金沢市まで来て被害らしきものは一切ないので大したことないと思っていたら、能登道路を進んでいくと谷の部分が道路ごと陥没や崖崩れを起こしていて、突貫工事で断続した道路をつないで応急処置をしている所がたくさんあった。金沢市を過ぎるくらいから屋根にブルーシートを張っている家が目立つようになったが倒壊しているような建物はなかった。ところが能登半島の真ん中にある穴水町の市街に降りていくと建物が倒壊しているのが目につくようになった。完全倒壊しているのは古い納屋や造りの粗雑な家であり、ほとんどの家はしっかり立っていた。ただし内部までは見えないので、そこに住めるかは別。住居などの建物は赤青黄色の紙が貼られていて、青は住んでもいい建物、黄色は調査中、赤は取り壊しが決まった建物だそうだ。一見住めそうでも赤い紙が貼られている住居も結構あった。



実は東日本大震災でもそうだったのだけど、完全倒壊よりも部分倒壊のほうがやっかいで、完全倒壊なら立て直すか手放すしかなく保険も満額降りるかもしれないが、部分倒壊だと修理するか、壊れたまま無理矢理住むしかなく、保険も満額出ない。修理には結構なお金がかかるので、東日本の時は浸水した住居の2階に無理矢理住んだり、一部壊れている住居に無理矢理住んでいる人も多かった。行政などの支援は被害の大きいところから行くので、被害が少ないと見られるそういう地域は取り残されることもあった。



今回は、東日本ほど範囲も広くなく被害人口も少ないと思われるが、とにかく完全倒壊ではなく、建物は立っているが住めない、修理しなければ住めないという家が圧倒的なので、政府など公的支援がどこまでなされるか? もしこれが数十万円程度の中途半端な支援なら住んでいる人は非常に困ることが想像された。しかし、逆に修理に必要な費用を惜しまず住んでいる人に渡せば、各自そこから業者を通じて直すことができるので、お金を配るだけのシンプルな支援(ただし十分な額)でいいのではなかろうか?と思った。



ただ、夜になって実感したのだが、どの家も電気がつかず真っ暗。ほとんどの人はそこに住まず親戚の家や避難所に避難しているという。見た感じは、たいした被害ないな的に見えても、実際の様子を聴くと多くの困難を抱えている感じを受けた。



またコンビニもスーパーもホームセンターも普通に商品がいっぱい並んでいるが、住民の人は、どの人も買出し的にカゴいっぱいにたくさん買っている。お金があるうちはいいが、建物の修繕や収入がない問題が続くと、欲しくても買えないという根源的な問題が発生する。



今回の地震は、命や怪我など医療の問題よりも、金銭的な問題が大きいように感じた。



※能登半島北部で外海に面している輪島市、珠洲市はもっと被害が甚大だと聴いた。

※穴水町の手前、七尾市でも自衛隊も行政も入っていない孤立した集落があると聴いた。



話を炊き出しにもどす。



今回の場所は穴水町にあるB&G海洋センターという所で、行政の支援物資の配布拠点となっている所だ。もちろんそこにも事前に許可を取ってその脇で出店した。まず体育館に支援物資を降ろしていった。佐川急便の人が支援に加わっていて協力して体育館に入れた。日用品、水、お米(岐阜の名産はつしも)で量はそんなに多くはなかった。そうこうしているうちに調理開始するのが14:00をまわってしまった。



今回の支援内容は、キッチンカーや露天をやっているプロが焼きそばを焼き、豚汁を作り、そこにうちがシチューという新ジャンルで参加し、焙煎コーヒーも提供し、コーヒーの人が名古屋の中学生がお金を出し合って用意した新品の靴下をサイズ別に欲しい人に配る。その横で、元徳間ジャパン所属の歌手の人が新旧ナツメロの歌謡ショーをやるというラインナップだ。



おりしも、途中晴れていた天候も、現地に着くと雪に変わり、さらにはこの日はあられになりひょうにまでなった。幸いなのは風は吹かなかったので吹雪とまではならなかったが悪天候には違いない。ただ、そういう日だったからこそ、支援物資を取りに来た被災者の方は明るい気持ちになれただろうし、豚汁だけでなくシチューのような身体が温まるいつもと違うのがあるだけで喜んでくれたと思う。もちろん全て無償提供で、使い捨ての容器などで渡していくのだが、家からタッパーや鍋を持ってきてくれる人も多く(事前案内はある程度告知はしています)、どの人も欲張って持っていくのではなく、3人分、4人分と家族の分だけ言って持っていく。シチューは豆乳と米粉と塩で作ったけど、牛乳を使うシチューより美味しくできた。米粉は玉になりにくくとろみまでつくので勉強になった。その横で男女の歌手が交代でほぼ途切れることなく音響システムで歌を歌っていて、われわれまで楽しめた。出店者同士でも食事を提供しあってお金を使うことなく業務を遂行できた。



そして一番不思議だったのは、なぜか仕事で出店しているよりも楽しいのだ。以前介護施設で働いている時に、大晦日に道に迷っている認知症のお年寄りを自宅まで送っていったことがあってなぜか介護の仕事よりも楽しく不思議だった感覚に通ずるのだけど、売り込もうとしなくていいし、量もきっちり測る必要もない。アバウトでいい。大抵はたっぷり盛る。お金のやり取りもないからギクシャクしない。お金のいらない世界はこんな風かもしれない。



コーヒー屋さんのコーヒーを飲んだ人が「こんな美味しいコーヒーを飲んだのは久しぶり」と言っていた。



また「どこから来たの?」と言われ、愛知とか岐阜と言うと非常にびっくりされ、ありがとうありがとうと言ってくれる。遠方から行く意味が実感として体得できた。片道7時間往復14時間かけて一回だけの食事提供することに何の意味がある?と思われるかもしれないが、支援拠点から配る物資は加工品ばかりの冷たい物資なので、その前で雪にまみれながら暖かい食事を無償提供するということは多くの感動を与えると思った。逆を言えば、自分の住む街に何か大災害が起こった時、絶望の中、遠方からそういう人が来てくれたらどれほど嬉しいだろうか?ということだと思った。



人はパンのみに生きるにあらず。生きながらえるだけなら、加工品やお金だけを配ればいい。でもそこにいろいろな人の想いや情熱を丁寧に伝えられたら、理屈を超えた奇跡が生まれるのではないか?そんなことが学べた短くも長い1日でした。

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