見出し画像

大阪市廃止案に反対する理由1『デマ編』

 大阪市のホットなニュースについては、今さら書くまでもないので割愛することにする。それに対してぼくは反対したという証を、後世から糾弾されないように、このサービスが続く限りは残しておくことにする。

 デマという言葉がある。その意味は以下の通りだ。

〔デマゴギーの略〕
① 政治的効果をねらって、意図的に流される虚偽の情報。悪宣伝。
② 根拠・確証のないうわさ話。流言蜚語りゆうげんひご。
出典 三省堂大辞林 第三版について

 このデマという言葉を一番使っている人はだれか。

 吉村大阪府知事、松井大阪市長(訂正)だ。

 両氏は自身や所属するおおさか維新の会、並びに大阪市廃止案に対して、このデマという言葉を常に使い続けている。あれはデマ、それもデマ、これもデマ、みんなデマ。

 これがどれだけ危険であるかを、みなあまり理解していないようでちょっと悲しい。教育の敗北を感じる。

 なぜ危険か。

 それは、『言ったもん勝ち』だからだ。

 少し立ち返ってみよう。デマという言葉は、良い言葉か、それとも悪い言葉か。多くの人が、悪い言葉、ネガティブな意味があると考えるだろう。これを質問の解答としてしまっているところに、政治家としてのかなりの悪意を感じるのだ。

 質問者をネガティブな存在として認定し、そういう相手にはかかわらない、相手にしないというスタンスを、あろうことか政治家が取っているのだ。

 これがどれだけ危険なことか、メディアでさえあまり理解していないようなのだ。デマだから答えません、という映像を放送し、まるでそれが毅然とした態度であるかのように報道してさえいる。

 悪い人なんだから相手をしなくても良いのでは? と思われるかもしれない。

 ただ、それを、政治でしてはいけないのだ。

 なんのために政治というシステムが誕生したかと問われれば、それは利害の調整役を立てるためだ。

 政治……あるいは国家や政府という複数人からなる組織を通して、互いの都合を勘案し、最終的に双方の納得するところに軟着陸させるための調停役が、国家や政府、あるいは各地方自治体に所属する政治家の役割なのだ。

 その調整役、調停者のトップである両氏が、自身や自身の所属会派、政策に寄せられる疑問や質問などに対し、「デマ」と言い切ってしまうことは、考えるまでもなく過激な発言だろう。

 少し想像してみてほしい。

 もし菅総理が、「あなたの問いはデマなので解答を拒否します」と言ったらどうなるか。あらゆるメディアは発狂して総理を責め立てるだろう。

 彼は政治家だ。そして吉村府知事、松井市長(訂正)も政治家だ。

 そこに違いはない。

 一方が許されて、もう一方が許されないというのは、はたして正しいことだろうか?

 大阪市廃止案に関わる投票日が近づくにつれ、その運動もますます熱を帯びている。昨日もおとといも、駅前では街宣が行われていた。そのたびに緑のジャケットを着た人たちは、「デマに騙されないでください。大阪市はなくなりません(向こう5年間に限り)」と疑問や質問に答えることなく、相手を一方的に悪だと声高に叫んでいた。

 先に相手方をデマを垂れ流す危険分子だと言い切ってしまえさえすれば、以降の言葉を聞かなくても問題がないという姿勢を、政治家が取ってはいけないのだ。

 くりかえし言うが、政治家は調停者であり、右と左、上と下、老若男女を問わないありとあらゆる人間の言葉に耳を傾ける必要がある。

 なにが一番アレ(関西弁)かと言えば、こういう言い方を吉村府知事、松井市長にすると、彼らは必ずこう言うだろう。

「いや、話は聞きますよ。デマじゃなかったらナンボでも聞きますよ」と。

 そのデマを認定する・しないは、彼らの胸先三寸なのだ。

 自身が気に入ったもの、痛くないところをデマでない、気に入らない、痛いところをデマと言い切る決定権を、彼らは所有していると思い込んでいるのだ。

 しかし、そんなものははなから存在しないのだ。

 それを決めるのは裁判であり、彼らは彼らの繁栄が続く限り、半永久的に都合の悪いことについてはデマだと言い続けるだろう。

 ありていに言えば、都構想自体はわりとどうでもよい。

 経済政策は、やってみないとわからないというのが通説だ。特に新しいことについてはなおさらだ。ノーベル経済学賞を受賞するような著名な経済学者でさえ、そう言ってはばからない。

 ほななんでもええやん、と思うかもしれない。

 だが、そういう人たちに、大阪市という大きな権利を差し出すことに、ぼくは納得がいかない。耳に入れたくないことをデマだと言う人たちの権力を、よりいっそう大きくすることには、はなはだ疑問だ。

 あなたの問いかけが、明日のデマと断言されたら、その場では覆しようがなくなる。デマではないことを証明するための労力や時間は、あなたが支払わなければならなくなるのだ。

 その必要量は、想像もつかないほどだろう。

 仮に証拠をそろえたとしよう。

 その証明がデマでないことの証明を求められるだろう。

 証明がデマでないことの証明が、デマでないことの証明を求められるだろう。

 そしてこういう言い方を吉村府知事、松井市長にすると、彼らは必ずこう言うだろう。

「いや、話は聞きますよ。デマじゃなかったらナンボでも聞きますよ。デマじゃない証拠さえ揃ってたら、時間の許す限りはナンボでも聞きますよ」と。

 デマとはなにか。

 その言葉をつかって相手を非難し続ける限り、それを解消するための労力までも一方的に相手に押し付けることが出来る言葉の暴力なのだ。

 これを率先して使っているのが、調停者たる政治家である両氏なのだ。

 そういう物言いをする彼らの権力をより強大にしてしまうことに対して、危険ではないと言えるだろうか。

 デマを言わなければよい、とは単純な考えだ。ではデマでないことの論拠とはなにか、という話になり、デマを言わなければよい、という考えは、水掛け論の最初の一杯だ。デマを言わなければよいという言葉もまた、言ったもん勝ちなのだ。

 改めて言うが、維新の会の経済政策それそのものは、わりとどうでもいい。

 そもそも都構想は経済政策ではない。

 あくまで大阪市を廃止し、その財政と決定権力を大阪府の物にしようといいう政治闘争なのだ。

 これに加担するかどうかは、みなの自由だ。

 ぼくは反対する。

 言葉の暴力には遭いたくないから。


訂正(10/29日)
大阪府知事、大阪市長が逆になっていました。訂正しました。ご本人様におかれましては、大変申し訳ございませんでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?