見出し画像

ガンパレードマーチを政争の具として電撃文庫の大バカ野郎にケンカを売らなきゃ気がすまない。

 ガンパレードマーチという作品がある。プレイステーションでゲームが発売され、当時としてはAI群像劇とシミュレーションが組み合わされた独自の世界観がかなりヒットした。ソフトそのものの売り上げは爆発的な人気を得たわけではなかったものの、コミカライズやドラマCD化、アニメ化もされるほどのメディアミックスが展開された。

 ぼくはそのアニメに、偶然触れることが出来た。深夜帯に、サクラ大戦のOVAが放送されていなければ、ガンパレードマーチとの出会いはもっと遅くなっていたか、あるいは、一生縁のない作品だったかもしれない。

 そもそもこのガンパレードマーチ、どういうお話か。

 西暦1945年、第二次大戦の末期、黒い月と呼ばれる謎の衛星が突如として現れ、人類を滅ぼすだけの生物がユーラシア大陸の西端に出現した。人類は人類同士の戦争から、生存をかけた未知の生物『幻獣』との戦いを始めることとなる。

 それから半世紀近くの時が流れ、人類はついにユーラシア大陸から撤退し、残された生存権は日本列島とアフリカの南端。そしてアメリカ大陸のみとなった。ついに幻獣は海を超えて日本に上陸する。熊本が決戦地として設定され、決死の一大攻勢が行われるものの、日本軍はことごとく敗戦。いよいよ後のなくなった戦線を維持するべく、学徒動員がなされることとなった。

 その一方で、『決戦兵器・人型戦車』という名の新兵器が戦場に投入されることが秘密裏に決定された。そのパイロットとして、戦争のせの字も知らない学生となり、人類のために、あるいはクラスメイトのために、黒い月からやってきたとうわさされる未知の生物と戦う……というストーリーだ。

 話の筋としては、かなりベタなストーリーだ。

 ここでいうところの人型戦車とは、いわゆるロボットだ。ロボットというわけにはいかないので、人型戦車という軍隊用語が使われることとなる。この命名も、世界観を彩る妙味の一つた。

 ただこれらは骨子であり、肉付けが独特だった。それがきっかけでニッチなブームに火が付き、カルト的な人気を博することになる。黒き月とはどこから現れたのか。幻獣とはなにものなのか。そして日本が独自に製造開発した人型戦車の謎。個性的な22人のクラスメイト。それらと交わす言葉の端々に見え隠れする世界の陰謀。

 今でいうところのイースターエッグが散りばめられ、その謎たちの考察が、まだまだ黎明期だったインターネットでやり取りされ、そこにガンパードマーチ(以下ガンパレ)の開発もたまに顔を出して、意味深なワードを書き込んで去っていく。そういうマニア心をくすぐる、謎が謎を呼ぶ独自の世界観が、多岐にわたって広がっていった。

 そんな中、ライトノベルの雄『電撃文庫』から、ガンパレの小説版が出版された。第一巻である作品は、当時まだ名残のあった、ゲームの内容をなぞるようなゲームブックに近いもので、それほど強いオリジナリティはなかった。続き柄にあたる第二巻では、榊涼介氏に作者がバトンタッチされ、ここから一大巨編になるとは、あの当時には思いもしなかった。

 電撃文庫についても補足をしておこう。しなければならない。

 今や、やぼったい呼び方になりつつあるライトノベルの出版レーベルで、特にアニメ化を意識した夢の世界、剣と魔法、血と鉄が織りなす小説を世に排出し続けている。もっと昔でいうところのジュブナイル小説や、ゲームブック、リプレイ小説といった、少年向けの小説の流れを受け継ぐレーベルの一つにあたる。

 ここから小説が出版され、アニメ化などのメディアミックスがされた作品は数多くある。電撃文庫、ひいてはライトノベル界において、もっとも重要な作品の一つである『ブギーポップは笑わない』や、歴が長く、多数のアニメ化やスピンオフも刊行されている『とある魔術の禁書目録』、釘宮病を生み出すきっかけの一つともなった『灼眼のシャナ』など。

 撲殺天使ドクロちゃん、アリソンとリリア、境界線上のホライゾン、狼と香辛料、とらドラ……など、枚挙に暇がない。一年のうち、少なくとも半年以上は電撃文庫から出版された小説のアニメが放送されているのではなかろうか、と思わせるほど、今なおその隆盛は衰え知らずだ。

 ガンパレの小説は、そんなライトノベル界の雄、電撃文庫から出版された。最初こそ、ゲームのシナリオをなぞりつつストーリーは進んでいったが、人気に次ぐ人気で続刊が発行されていくと、徐々に作家性からくるオリジナリティが組み込まれていき、ある意味で一つの作品として独立を果たすような形となった。

 ゲームでは幻獣を倒し、九州ひいては日本を守る、というところがクリアのゴール地点だが、それらを過ぎてなお刊行は続いた。速水厚志とその仲間たちの、血のにじむような戦いと、合間に来るなんでもない日常がくりかえされ、みな青春とは別れつつも、少しずつ大人になっていく群像劇が描かれていった。

 ストーリーでは、幻獣との戦争が絶えずくりひろげられている。得たものもあれば、失ったものもある。小説を読みながら、唸り声を上げて拳を握ったこともあるし、絶望して本を閉じたこともある。生き生きとしたキャラクターたちの喜怒哀楽、ゲーム本編には登場しない魅力的なオリジナルキャラクターたち、そして世界の謎と黒い月。

 生き残りをかけた戦いの中で、少しずつ謎に迫っていく日々が、何年にも渡って続いた。何度か、『一旦中締めです』ということもあった。残念だと思いつつも、原作であるゲームの枠を飛び越えて、ストーリーの半分以上はオリジナルで構成された作品を見送るには、まあこれが潮時かもしれない、と感じたこともあった。だがガンパレは、幾度となく帰ってきた。その都度、ぼくは快哉を上げた。やった。またみんなの活躍が見られる。今度こそ、本当の平和を手にする時が来る。

 そしてあしかけ15年の月日が流れ、いよいよ、『完結』と銘打たれた一冊が発売された。もう思い残すことはない。よくやった。これで本当に、だれもかれもが戦いから解放され、本当の人生を取り戻すときが来るんだ。みんなの幸せな顔に、文字の中で、早く会いたい。

 そして読み始めた最終巻。

 小説のよくある話だ。ページをめくる左手の親指が感じる残りのページ数から、作品の盛り上がりを肌で感じることができる。あの感覚が、どうしてか、おかしい、いつまでたってもやってこない。

 それどころか、おいおいおい、ちょっと待て。待て待て待て。親指が知らせる残りのページ数からは、すべての謎が明かされる余地なんてこれっぽっちも残ってないぞ。あと数十ページそこらで、これまで引っ張ってきた謎を解説することなんて、ほぼ不可能だ。よしんばそれが解決したとて、その後はまったく描く余地がない。だれかの幸せな顔にすら会うことが出来そうにないぞ。

 15年かけて読んできた小説のラスト。ページをめくるたびにこみ上げてくる、最終巻にはまったく似つかわしくない絶望感。頭ではすでに、幸せな結末が迎えられないだろうという諦めが。

 そして……未完。

 なんかラスボスっぽいやつが出てきて、よく来たな、と言って、終わる。主人公速水厚志は、これで世界が平和になると確信して、終わる。

 そして我々は、なにをも目撃することなく、完結を、強いられた。

 これが、15年を共に歩んできたファンに対する答えだとするなら、電撃文庫は大バカ野郎だ。

 うそいつわりのない、心からの、忌憚ない意見だ。何度でも言おう。

 電撃文庫は、大バカ野郎だ。

 ドカベンだって、飛ばした白球の行方は追う。スタンドに入ったかどうか、きちんと追う。ワーワー言ってる球場を遠巻きに眺める絵で終わりはしない。勝ち負けはきっちり決める。

 タッチだってそうだ。タッちゃんが南に告白して終わる。電話して、「あのさ、おれ……」では終わらない。電話越しに、きちんと男のけじめをつける。

 名探偵コナンにしたって、そうだ。犯人はきちんと明かされる。探偵と警察だけの秘密には絶対にしない。ならない。なぜか。それでは作品として、まったくの竜頭蛇尾、破綻してしまうからだ。

 何度でも言おう。電撃文庫は、大バカ野郎だ。

 どんな映画にしたってそうだ。目的や目標があり、登場人物たちがどういう決意をし、どのような結末を迎え、そしてなにを得て、なにを感じたかが描かれて、ようやくひとつの作品として完結するのだ。いい感じのところで、「じゃ、あとはみんなの想像に任せるね! ハッピーエンドにしてもよし! バッドエンドにしてもよし!」では、論ずるまでもなく話にならないだろう。

 電撃文庫は、大バカ野郎だ。地上で最も愚かと言っても良い。

 帯には確かに書いてあるのだ。

 幻獣、共生派、そして黒い月。すべての謎が、今明かされる。


 なーーーーーーーーんも、明かされなかった。

 なーーーーーーーーーーーーーんもわからずじまい。

 ハァ???????????


 これが15年目に出した、作品に対する感想だ。

 これまで積み重ねてきたものを、一気に積木くずしにしたのだ。面白かったとも、面白くなかったとも、言わせない結末――結末にすらならない、ろくでもないクズを、電撃文庫はのうのうと『完結!』などとのたまって、送りつけてきやがったのだ。

 ああ腹が立つ!

 何度でも言ってやる!

 電撃文庫は、史上最も愚劣で愚鈍な決断をした、救いがたい会社だ!! 脳みそをダン・クエールのそれと入れ替えても、まだマシな改善が行われるだろうよ!!

 なに一つとして謎は明かされないし、だれも幸せにならなかったし、結局平和は訪れもせず、ただぼんやりと、黒い月へ行く速水厚志を見守るだけの立場のまま、小説世界から放り出されてしまったのだ。

 これがライトノベルの旗振り役を自称する企業のやることか。15年付き合ってきたファンに対する答えか。文庫の巻末には、電撃文庫の社訓のようなものが書いてある。曰く、こうだ。

新しい世紀を迎えるにあたって、既成の枠を超える新鮮で強烈な、アイ・オープナーたりたい。(中略)時を重ねる中で、精神の糧として、心の日一隅を占めるものとして、次なる文化の担い手の若者たちに、確かな評価を得られると信じて、ここに電撃文庫を出版する。(引用)』

 アイ・オープナーとは、読んで字のごとく、目を開くもの、という文学的表現だろう。目を開けて、さまざまのものを見聞きし、確たるものを残す草分けになりたい。そういう志だろう。

 それが、どうして、こうなった。

 飛んだ白球の行方は知らされぬままゲームセットが宣告され、好きの結末をのぞき見しようなんてヤボなことを言うなよと原作者の似顔絵がこちらに向かって説教を垂れ、探偵は犯人をつきとめたが、それが誰なのかと問われると鼻歌でごまかされてページが尽きる。

 これが、アイ・オープナーのやることか。これで確かな評価を得られると、本当に信じるのか。

 何度でも何度でも言ってやる。

 電撃文庫は大バカ野郎だ。もし電撃文庫が大バカ野郎でないとするなら、ぼくを含め、世界があまりにも賢すぎるのだろう。だから彼らの考えていることが到底理解できないし、電撃文庫の口から説明されてなお、理解し得ないだろう。

 これをして詐欺だ、とはさすがに言えない。そこまでバカは晒したくない。完結します、謎、解明されます、というウソでもって、本体価格600円と消費税当時48円を、詐取されてなお、詐欺だとは言わない。立ち読みして完結というワードの真贋を確かめられた可能性も、法廷闘争では大いに論ずられることだろう。

 そうなったら、ぼくはきっと負けるだろう。立ち読みして、ラストをサラッと読んで、ああちゃんと、帯に書いてあるとおりに、すべて謎が完結されたな、よし、買いだ! と判断しなかった、消費者が悪いのだろう。

 だが何度でも、いつかガンパレについて興味が薄れ、あああんな馬鹿げた話もあったね、なんて言えるほど、ほとほと愛想が尽きるまで、言ってやろう。


 電撃文庫は、大バカ野郎だ。


 もっとも、もっともである。

 完結を煽る寒々しい帯のウラには、こうも書いてある。

 あと少しだけでも、なんとかしたかった。

 これはおそらく、作者榊涼介と、編集の本音だろう。

 電撃文庫はあと少しだけでもなんとかできる立場にある。こんなことを言う立場にはない。

 そもそもが、連載15年の長編だ。原作となったゲームも、知る人ぞ知るマイナーメジャーな作品だ。最初こそ購読していたファンも、途中で卒業することもあるだろう。発行部数や販売総数は、我々ファンの知るところではない。厳密で恐ろしい数字は電撃文庫の知るところであり、数字はウソをつかないし、ファンの気持ちなど知ったこっちゃない。

 だが、あと一巻。せめてあと一巻。文庫化する気がないのであれば、電子書籍のみでも良い。その許可がほしい。

 ぼくは、公式が出す、みんなの幸せな結末が見たい。

 アイ・オープナーとして、ライトノベルの旗振り役として、15年目の結末を、出す義務があると、思っている。これではあまりに、お粗末がすぎる。

 作者である榊涼介氏はSNSやツイッターのアカウントを持っていない。その動向は最終巻を持って行方知れずであるし、その本音も当然、だれが知るはずもない。

 だがこの、あと少しだけでも、なんとかしたかった。という一文に、電撃文庫は応えてほしかった。応える気がなかったから、未完なのだろうが、これが15年目の結末では、あまりに甲斐がなさすぎる。

 せめてあと少しだけでも、なんとかしてくれないだろうか。

 終生、電撃文庫は大バカ野郎だとは思いたくないから。


補足……2015年に刊行された小説のグチをどうして今さらになって言うのかって? やっと傷が癒えてきたからだよ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?