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『代案を出せ』と『歩きスマホ』は、まあまあ似てる。

寒い社会になったと思う

 世の中には憲法や法律、条例に依らない規則めいたものがある。例題はなかなか出しにくい。それが時と場合、場所によって、『ルール』や『モラル』、あるいは『マナー』といった様々な言葉によって表現されるものだからだ。

 野球なら大量リードしている場合に盗塁をしてはいけない、だとか、三国志大戦なら勝ち確の場面で計略を空打ちしてはいけない、だとか、夜遅くにベランダの洗濯機を回してはいけない、だとか、法律では禁止されていないものの、やるべきではない行為は世間にいくらかあった。

 いくらかあった。もうなくなりつつあるが。

 これは社会全体がながらく、効率を追い求めるあまり、「法律に引っかからなきゃセーフ」という風潮をずっと続けてきた結果だろう。それらは法律のとがめるところではない。法律は殺人を禁止していない、という有名な哲学もある。法律に比較すれば、ルールやモラル、あるいはマナーといった行為の数々は当然、より軽視され、軽視され続けた結果、風に乗ってどこか遠くへ行ってしまうことは明々白々だ。

 そしてそれらが毎年、毎月、毎週や毎日、少しずつ積み重ねられていった結果、「言ったもん勝ち」「やったもん勝ち」という精神に取って代わられつつある。危なかったり、うるさかったり、おっかなかったりすることも、法律では罰されないのだから、先制攻撃的に行動した側が得をし、された側が損か、もしくは気分を害することになっても、法律は助けてくれない。

 それらから双方を牽制していたものが、ルールやモラル、あるいはマナーであり、それらの第一条に「言ったもん勝ち、やったもん勝ちはお互いに良くないからやめておこう」と書かれていたのではなかろうか。

 ただあくまでこのページは、言ったもん勝ち、やったもん勝ちをやめようという話だ。社会が最大効率を遮二無二追いかけてるんだから仕方ないじゃん、では済まないのだ。それでは知識や見識、良識に欠く社会人になってしまう。それはどう考えてもけしからんだろう。

 そんな話が以下に続く。

歩きスマホはやったもん勝ちの世界だ

 スマホは便利だ。もうこれなしには生きていけないだろう。

 こう言ったのは昭和生まれの母だ。平成生まれのぼくは、まあそのクチだ。これがないと、ミリシタが出来なくなる。大変に困る。会社からの呼び出しに怯えるリスクと比べても、やはりこれは欠かせない。

 ただそんなスマホにも、欠点はある。

 物理キーがないことだ。

 いわゆるガラケーがガラケーでなかった時代、片手に携帯を持って、前を見たままメールを打つことが出来た。信号を見て、左右から車が来ないかを確認して、横断歩道を渡りながらも、メールを打つことが出来た。『5』のボタンにユニバーサルデザインのポッチがついており、所定の位置のボタンをカチカチ押すことで、いわゆるタッチタイプが出来た。スマホにはこれが出来ない。ゆえに歩きながら画面に目を通すことが増えた。

 視認する情報量が格段に増えたことも、歩きスマホの一因だろう。これが社会問題になって久しい。通行人同士の衝突、車や自転車との事故、駅からの転落など、当事者以外の人間にとってはもはや歩く地雷と言っても良いだろう。

 例えば、だ。

 歩きスマホをしているAさんと、スマホをポケットにしまって歩いているBさんがぶつかった場合、悪いのはどちらだろう。

 Aさんは当然、前を見て歩いてはいない。だがぶつかった。そうすると、Bさんも前を見て歩いてはいないのだ。そうなると、喧嘩両成敗だ。歩きスマホを一方的になじる道理が、はたしてBさんにあるだろうか。

 そしてBさんが前を見て歩いていた場合、悪いのはBさんになる。歩きスマホをしているAさんよりも凶悪だ。こうなるとBさんは、わざとぶつかったことになる。ていのいい当たり屋だ。なぜよけなかったのかと問われた時、その必要がないとBさんが言えば、ぶつかることを甘受したのはBさんであり、これもやはり、Aさんの歩きスマホをなじる道理はなくなる。

 これが、やったもん勝ちだ。お互いが前を見て歩いていない場合、歩きスマホが悪いということはないし、歩きスマホをしていると認識しつつぶつかることは、事故を誘発する厄介な行為だ。悪者にはなにをしても良いのだという考えは、歩きスマホよりもより凶悪であることは明らかだ。

 ただ、これでは社会の筋が通らない。前を見て歩いている側が当たり屋になり、ルールやモラル、マナーに欠けた側が勝つという世界では、まともな人間ほどいきていけなくなる。歩きスマホが良いことか悪いことかの単純な善悪で振り分ければ、当然悪いことだろう。けれども安いロジックの上ですら、歩きスマホをしていない側の分が悪い。

 だからやったもん勝ちはやめよう、という話だ。

 法律で禁止すればいいじゃない、となると、誰もスマホを持たなくなるはずだ。往来でスマホを手にした瞬間、歩きスマホ相手だからとぶつかっていくような人が、歩きスマホをしていただろうとぶつかりにかかるような社会になるだろう。

 この程度のことを法律に頼るような貧弱な社会にしてはいけないのだ。これらの防波堤として、ルールやモラル、あるいはマナーがあったのだ。それらは古いしきたりではない。無駄に争わずに済む生きる方便だ。やったもん勝ちでは、いつか痛い目を見るだろう。

対案を出せは言ったもん勝ちの世界だ

 ここ最近、このワードを聞かない日はないかもしれない。反対をするなら対案を出せ。テレビからも聞こえてくる日がある。こんな低俗な言葉が、テレビから流れてくるとは思いもよらなかった。

 この、『対案を出せ』というワードは、主に議会で使われる。案に対する反対意見を受けた側が、わりと積極的に使っている。議会としてはそれがある種の健全なあり方なのだが、どちらかと言えば言ってはいけないたぐいのワードだ。自民党が共産党や社民党を相手に、「それでキミたち何議席持ってるの?」と言えば、議会は紛糾してワイドショーは大爆発するだろう。

 ぼくからすればこの対案を出せは、それに匹敵するたぐいのものだ。

 例えば、だ。

 年金をなくします。掛け金も返します。その分税金も安くします。あとは自由資本主義の中で好きにしてください、という話になったとしよう。あるいはそれらに類推することでもいい。健康保険料をなくすので、ついでに公立の病院もなくします。医療費は払うはずだった保険料で賄ってください、でもいい。

 サザエさんが突然、人間は洞窟で住んでいたんだから、明日から橋の下で暮らそう。コンビニが冷蔵庫、川が水道、地球が大きな布団。これで固定費が浮くから来年には一家全員で北海道や沖縄へ行けるぞ、という話が三谷幸喜によって作られたとする。

 トレードオフの議案が提出された時、「やらないほうがマシ」といった選択肢は大いにありうる。議会に限らず、家庭内でも起きなくはない。こっちのスーパーではたまごが200円、4キロ先にあるスーパーでは150円だった時、是が非でも4キロ先の安いたまごを買う! という話になる人は少なくないそうだ。4キロ先のスーパーに行けば確実に50円得する。行きがけの4キロと、帰り道の4キロにかかる時間や労力に目を瞑ればの話だが。

 こうして年金はもらえなくなるが、天引きがなくなるので給料は増える。病院はなくなるが、保険料を払う必要もなくなるでやはり給料は増える。けれどもなにかを失うことの選択をまず迫られた場合、現状維持を図るのは当然の考えだろう。

 一得一失の考えに対して待ったをかけた時、「反対するなら対案を出せ」という話になると、対案は当然、ないのだ。現状維持は対案ではない。無為無策にほかならない。なにもしない、という行動に、意味はないのだ。だからといって現状維持が、対案を出せという安い発想に劣るかといえば、決してそうではない。

 なにもかもが現状維持のまま、可処分所得だけを上げることは不可能だろう。それとも反対者は社会全体の給料を上げたくはないのか。嫌なら対案を出せ……とは、まさしく言ったもん勝ちの世界だろう。

 残念ながらこれらが昨今、なぜかまかり通っているのだ。

 人生経験と含蓄のある人々が集まっているはずの議会でも、このありさまなのだ。当然社会がどうなるかは、自明の理だろう。

前を見て歩こう、目一杯考えよう

 話を膨らませて、どんなバカな議案であっても、先に出しさえすれば、この「嫌なら対案を出せ」のカードが切れてしまう。考えるまでもなくバカバカしいことだろう。本当は歩きスマホが悪いはずなのに、バカな議案が悪いはずなのに、相手より先にそうするだけで、相手をより悪者にしてしまえるのだ。

 言ったもん勝ちだし、やったもん勝ちなのだ。

 憲法や法律、あるいは条例は、これらを禁止してはいない。法律が殺人を禁止していないかのごとく、だ。だがはたして本当にそれで良いのだろうか。いいや、良くない。

 人間は前を見て歩くべきだし、前からよそ見をして歩いている人が来たら、避けてやるのがルールやモラル、あるいはマナーだろう。

 反対という意見は、個人や組織を嫌ったり妬んだりして行われるものではない。耳の痛い話であったとしても、最後まで聞いてやるのが議会人としてのルールやモラル、あるいはマナーだろう。

 法律に違反していないからセーフ、では子供の理論だ。

 中馬庚がベースボールを野球と訳したように、夏目漱石がメタボリズムを新陳代謝と訳したように、ルールやモラル、あるいはマナーといったものは、不文律ではなく、『寄り添い』なのではなかろうか。

 我々は効率化社会を求めるあまりに、他者に寄り添う精神に熱がこもらなくなっているのではなかろうか。

 前を見るくらい、深く考えるくらい、出来るようになろうよ、大人なんだから。

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