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いろんなところに顔を出す「自信のなさ」という厄介者の話

たくさんの方に取材をしてきたにも関わらず、私は取材が苦手だ。意外と誰とでもそつなく会話しているから社交的な人、と思われていることも多いようだけど、本当のところは構えてしまう自分がいる。

取材だけではない。面接や、授賞式、自己紹介など、その場の大小関わらず、人の前で「自分の言葉で話す」のが得意ではない。例えば、PTAの役員になったら、まずはお決まりの「自己紹介」がある。自分のことを手短に話せば良いだけなのに、それがうまく出てこない。定型文に当てはめれば良いのに、って客観視してる自分は思う。すらすらと、周りを見渡しながら一定のトーンで話すお母さんをみていると、あっぱれ、と思う。上質な笑いなんかを取り入れているウイットに富んだ話し方をされているお母さんなんてもう、私の中ではスタンディングオーベーションものだ。

時を遡り、私が一番古い思い出で覚えていることは、小学校一年生の時、人見知りが激しかった私はそれでも知っている顔が一人もいない教室で、ただ縮こまって自分の机にいた。出席番号順に出席をとられることすら、初めての瞬間。苗字を呼ばれ、みんな、「はい!」と大きく返事をして手を挙げる。にこにこと嬉しそうな顔が並ぶ中、私の名前が呼ばれた時に、びくっとして、もじもじ・・・肩をすくめてもじもじ・・・何度か呼ばれた後、返事をするどころか泣き出してしまったのだ。
今でも覚えている、その後の1時間目の授業。一年生のこくごの教科書上の一番最初の物語は「くじらぐも」だったことを。本が好きだったのに、大きな楷書がぼやけて読めなかった。先生が困って母にお便りを書いた。「名前を呼んだだけで泣いてしまうけど、何か困らせてしまっているか心配です。」

三つ子の魂百まで、とはよく言ったもので、馴れ合いの友達ができると調子に乗り始め、ワイワイ騒ぐことが楽しくなったにも関わらず、いざという時には引っ込み思案で、一人だと怖くて話が続かない。途切れる「間」も怖い。
そんな自分を変えたくて、中3の時に思い切って海外留学を決意する。私のことを誰も知らない場所へ飛び込めば、きっと私はなりたい自分になれるはず!(=ものおじしない、社交的な私へ!)引っ込み思案でシャイなくせに、いきなり突拍子もない行動に出るのも私だ。

人間の根本はそうそう環境を変えただけではなかなか変化せず、表面的に頑張っても、空回りするばかり。性格のキツさを強い人と勘違いし、思いやりを持たずにわがままに振る舞うことを自我の強さと勘違いしていたあの頃。結局のところ、自分の中には幼い自分がいつも居座っていて、髪型を変えようと、お化粧をしようと、服の趣味を変えようと、大きく変わらなかった。

でも、歳をとり、人と出会い、別れ、子供を授かり、育て、育てられて、色んな人を取材していくうちに、昔のような凝り固まったコンプレックスのようなものは薄らいでいった。だけど、相反して現れた答えは、「自信のなさ」だった。これがどうにも全ての邪魔をしている。

自分に嘘をついている時は、たいてい自信のなさが現れていて、それを見透かされるのが怖いのだ。ものすごく単純な話、「知らないことは知らない」と言えればそれでいいのに、格好をつけたがる自分がいるからややこしいのだ。そしてそれがやっぱり出ちゃうのだ。大人になっていろんな棘とかプライドとかから少しずつ解放されて、やっと、笑って「え、なにそれ、教えて」って言える。

取材は、事前に下調べをすることはあまりない。用意した質問と回答の答え合わせをするよりも、その時の会話で興味を持ったことを引き出して理解したい。そういう意味ではほとんどアドリブだ。社会的なことや政治の話などという下調べや知識が必要な取材ではないから気楽なものなのかもしれない。お話を聞く方々に興味があって、どんどん知りたい!っていう気持ちのみで取材をしている。
もちろん、気も遣うし(リスペクトという意味で)、たまには知識不足な私にがっかりされたんじゃないかとか、ちゃんと的を得た返しをしているかな、なんて気を揉むことはあるけれど、嘘をつかずに会話をすることが一番「自信」には繋がると感じている。ちゃんとお相手が言いたいことを落とし込んでいい記事を書いて伝えたい!といつも思っている。

状況がどうであれ、「人」と「人」の繋がりは、その人を知りたい、という興味から始まる。好き嫌いは置いておいて、まずはその「人」の心の中に何があるのかな、というのを覗かせていただく「取材」は、今もまだ、少し緊張する。でも「知りたい」気持ちを持って接すると、大抵の人はある程度警戒を緩めてくれる。

言葉を扱うお仕事ゆえに、たくさん考えなくてはいけないこともあるけど、記事にしたためる時には、その方への尊敬の念を込めて、共有いただいた情報をもとに、感じながら言葉を紡ぐ。

2号目のさいとう製パンの記事や、3号目のチーズと紅茶、ときどきアートの取材は、私の中でも思い出深い。どちらも歩んできた人生の深みが滲み出るような芯の強い女性陣で、語られるお話に没頭した。そんな時は、私の緊張も何処へやら、知りたい、知りたい、の気持ちが先走り長居してしまうのだ。
私はこれからもちょっとした苦手を克服しながら、自分の弱さに向き合って言葉にしていきたい。出席点呼で名前を呼ばれただけで泣けてきてしまう自分も内で可愛がりながら。

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