あなたはあなたの人生を
私たち人間は、自分の人生や境遇を人と比べがちで、それはたいがい、不満や妬み、劣等感などを生み出すものです。
私にとって、人と比べることなく、神が私だけに与えてくださった人生を感謝して生きる助けになったのは、ヨハネの福音書でイエス・キリストが最後に語った言葉でした。
「わたしに従ってきなさい」
少し背景を説明します。イエスの復活後、何人かの弟子たちがガリラヤ湖で漁をしていると、イエスが彼らに現れ、一緒に食事をした後、ペテロと話をされました。
イエスが捕らえられた時には、3度もイエスを否認して裏切ったペテロでしたが、イエスはそんな彼を赦し、「わたしの羊を養いなさい」と言って、教会を牧する任務を彼に与えられました。何という愛、何という信頼でしょうか。
続けて、イエスはこう言われました。
「従う」という言葉は、「誰かの後をついて行く」、「その人と一緒に行く」という意味で、この場合は、「弟子として、イエスについて行く」ということです。
3年前、同じガリラヤ湖で漁をしていた時のように(マタイ4:18-20)、ふたたび、「わたしに従ってきなさい」と呼びかけられたわけです。これもまた、ペテロに対する信頼のしるしです。
ただ、「ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすか」とあるように、イエスはまずペテロの殉教を示唆されました。伝承によれば、ペテロは皇帝ネロの迫害によって、ローマで十字架刑に処せられています。
そこまで具体的にはわからなくても、イエスに従っていくことには大きな代価がかかることが、ペテロにも十分伝わったことでしょう。
そこで彼は、他の人たちはどうなのかと気になり、イエスから目を離して、後ろを見ました。なんとも人間らしい行動であり、偉大な使徒ペテロも私たちと同じ弱さを持っていたことがよくわかります。
「あなたは、わたしに従ってきなさい」
ヨハネの福音書でイエス・キリストが最後に語ったというのは、「あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」というこの言葉です。
聖書のエピソードは簡潔に書かれているので、一見冷たそうに思えますが、実際には、ペテロを他の人との比較から解放し、ペテロにしか生きられない人生を生きて、ペテロにしかできない方法でイエスに従うことの喜びに目を留めさせる、愛に満ちた言葉だと私は思います。
イエスに従うというのは、私たちとイエスとの個人的な関係です。イエスだけに目を留めているなら、「あの人はあまり奉仕をしていない」とか、「この人は自分よりも楽な人生を送っている」とかいった思いに囚われて、悩み苦しむ必要はありません。
先ほどはただ「わたしに従ってきなさい」でしたが、今回は「あなたは」という言葉が付け加えられることによって、他の人のことは気にせず、ただ「あなた」の人生、「あなた」のすべきことだけに心を向けることが強調されています。
イエスに従うとは、イエスが常に私たちの前を歩んでいてくださるということでもあり、それは、マタイの福音書でイエスが最後に言われた、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」という約束を思い起こさせます。(マタイ28:20)
人生を生きていく上で、さまざまな困難や問題に遭遇しますが、イエスは常に私たちとともにおり、進むべき道へと導いてくださいます。
ペテロとヨハネ、それぞれの人生
ペテロが気になった「イエスの愛しておられた弟子」とは、使徒ヨハネのことだと言われています。(諸説ありますが)
ヨハネは、他の使徒たちが殉教の死を遂げていく中、最後まで生き残ったので、「この弟子は死ぬことがないといううわさ」が広まったのかもしれません。(ヨハネ21:23) もしかすると、ヨハネは、なぜ自分だけが生き延びているのだろうと、心苦しく感じることもあったのではないかと思います。
でも、ヨハネにはヨハネの生き方、従い方があり、たとえば黙示録や、イエスの言葉が多く記されたこの福音書を書くことによって神の栄光を現すという大切な役割がありました。
きっと、ヨハネ自身も、「あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」という言葉を何度も思い出して、慰められたのではないでしょうか。
そして、この慰めは、すべての人のためのものです。ペテロにはペテロにしか生きられない人生があり、ヨハネにはヨハネにしか生きられない人生がありました。私たちにも、自分にしか生きられない人生があります。他人と比べる必要はありません。
振り返ったり、あたりを見渡したりして、他の人と比べながら生きると、人生の喜びを失ってしまいます。私たちの道を導く主に目を留めて、自分にしか生きられない人生を生きて行くことができますように。
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