見出し画像

潮風と砂のあるところ 再アップロード版

 「潮風と砂のあるところ」は、20年ほど前に書いた小説で、「一万年物語」と題した、架空の世界の人類の歴史を描くシリーズの一篇です。複葉機と飛行船の物語です。
 現実の歴史の、大戦間、北アフリカ・フランス植民地くらいをイメージして読んでいただければ幸いです。

1・空の灯台守

 砂漠と海、そして岩山。空の青、薄くちぎれちぎれに空を流れる雲。目に映るのはそれだけだった。アンリはゆっくりと滑走路を端から端まで歩いた。固く平らに砂を押し固めただけの滑走路に異常は無い。これで一日の仕事の半分は終わったようなものだ。もう一度空を見上げる。海と砂漠、西にそびえる岩山、空。目に入るものはそれだけだ。
 コーヒーとパンふた切れ、そしてオレンジがひとつ。本を読みながらでも、朝食の仕度から食事を終えるまで三十分とはかからない。アンリは本をつかんで別の部屋に移る。「無線室」と書かれた扉をくぐると、いきなり水平線が目に飛び込んでくる。壁に開けられた大きな窓にはガラスも木の板もはめられてはいない。北に向かってどこまでも続く海と空が見える。一方の壁に向かう机の上には無線機、部屋の逆側には固い木製の長椅子。アンリは長椅子の上に横になると、本のページをめくった。部屋を吹き抜けて行く風には、塩と砂が含まれている。アンリの肌を伝い落ちる汗が、その砂を絡め取る。アンリはじっと時が過ぎるのを待っている。
 午前十時、静かな雑音が機械から流れ出る。
「やあアンリ、いるかい?」
突然、陽気な声がスピーカーからこぼれ出る。この声はフェルナンドだろう。
「ああ、いるよ」
「定時連絡、エンジンはすこぶる快調。天候はなんら問題無し。風は静かだし、雨雲はかけらも見えない。このぶんなら予定より早くそちらを通過できそうだ」
「了解」
一時間後、アンリは無線機から離れ、窓枠に腰を下ろした。どこまでも続く青空、どこまでも続く碧海、明るい青と様々に色を変える濃いブルー。目に見える物はそれだけだ。砂漠の陽射しは本を読むには少し強すぎる。アンリは目を細めて北の空を眺めた。毎日郵便飛行機を見守ってきた目は、爆音が耳に届くよりもはるかに早く飛行機を捕らえた。やがてフェルナンドの飛行機は二枚の翼が見分けられるほど高度を落とすと、滑走路の端でなびいている吹流しの真上で翼を振った。アンリも機上のフェルナンドから見えるかどうかなどお構いなしに、手を振って挨拶する。飛行機がこの小さな建物の上を飛び去ってしまうと、アンリは再び長椅子の上に横になり、本のページを繰る。一時間後、フェルナンドから最後の定時連絡を受ければ、彼の仕事は終わりだ。遠いアラニア・ノヴァ市の郵便航空機会社の事務所へ電話をかけ、報告する。「本日も異常なし、定期便は無事通過した」あとは心ゆくまで本を読み、西日がかすかに色づく頃、自転車で村へ出かけ夕食を摂る。時にはちょっとした買物をして飛行場へ帰る。それがアンリの生活のすべてだ。

 無論、毎日がこのように平穏に過ぎていくわけではない。時にはアンリと滑走路がその存在意義を最大限に発揮する事もある。
 一度、突然の嵐に定期便の飛行機が緊急着陸せねばならなくなったことがあった。あれはいつ頃だったろうか。そう、パイロットがレオンだったから、二年以上前ということになる。朝には晴れていた空が昼前に一変し、突然の風雨に見舞われた。飛行場の西側からこちらを見下ろす岩山の上に黒雲を認めたアンリは、 既に定時連絡を終えこちらまで十キロを切る距離まで近づいていたレオンに無線で呼びかけた。
「どうやら雨雲が近づいてきているようだ。大きく東に迂回した方がいい」
「了解。左に針路変更して、クラダ岬からサン・フェルナンデス方面へ向かう」
レオンは事務的な口調で返答した。外が暗くなったのに気付きアンリが窓際へ歩み寄ると、ちょうど激しい雨が落ち出した。木製の窓扉を閉め、卓上のランプに火を点けると、無線機が騒ぎ立てた。
「ダメだ、嵐に追いつかれた。もう一度進路を変えてそちらに向かう。雨宿りさせてくれ」
アンリは再び窓を開けた。たちまち腕にも顔にも雨が叩きつけられる。滑走路の端に立つ吹流しは、引きちぎれんばかりにはためいている。
「横風が激しい。着陸は無理だ!そのままの進路を維持しろ」
「無理だ!このままじゃ現在位置もわからなくなる。へたすりゃ操縦不能だ」
「くそっ!」
アンリは外へ飛び出すと、岩山を見上げた。雨のカーテンに遮られ、その頂上がはっきりとは見えない。空全体を見渡しても、雲の切れ間など見つかりもしない。上空からは、滑走路の位置も見えないだろう。
「最悪だ!」
そう叫んで室内に駆け戻った。
 激しい雨にもかまわず、窓を大きく開け放して北の方角を見据える。風の唸り声は刻一刻と激しさを増している。双眼鏡を手に持ち、せわしなく視線を移動させるうちに、雨の帳を通してついに小さな影を認めた。双眼鏡で見ると、確かに飛行機だ。ただちに無線で呼びかける。
「こっちからは、そちらの機体を視認した。そちらからは滑走路が見えるか?」
「いや、だめだ。陸地はわかるんだが、滑走路の境界がはっきりしない」
「こちらの建物はわかるか?」
「いや、まだ見えない」
アンリは雨の中必死に目を凝らし、飛行機の進路を見極めようとした。
「よし、高度を落としながら十度右に旋回しろ。風に流されている事を忘れるな」
飛行機は命ぜられたとおり、高度を落としながら右旋回した。
「さらに右に五度旋回、高度も落とせ。今、高度約五百メートルだ」
アンリは必死に飛行機と滑走路を交互に確かめ、タイミングを計った。
「よし!左旋回二十度だ。今、滑走路への進入路上にいる。そのまま高度を落とせ。建物はまだ見えないか?」
「まだだ」
無視界に近い状態のまま、着陸前の微妙な誘導をしなくてはならないのは、アンリにとっても始めての事だった。知らず知らず声も激しく荒々しくなる。
「流されてる!修正しろ!右に二十メートル移動して今の進路に戻せ!」
誘導する側も勘が頼りなら、操縦する側も勘が頼りである。それでもレオンはぴったりと滑走路の先へと機体を戻した。
「見えた。飛行場の建物を確認した!」
「よし!建物の向かって右、十メートルの線が滑走路の中心だ。建物の手前三十メートルから、滑走路は始まっている。わかるな?」
「了解」
アンリは交信を終えると、窓も開け放したまま、外へと駆け出した。滑走路の脇に立って両手を大きく振り、滑走路を示す。
 進入してくる機は、本来のアプローチより若干高度が低い様だ。アンリは不安に顔を歪めた。横風は止もうとはしない。着陸の為に速度を落とせば、きっと横転してしまうだろう。

 機体はややオーバースピードで滑走路に接触した。着陸の角度が悪いのは、操縦者が地面の位置を把握しきれていなかったことを示している。それでも機体が滑走路の上に跳ね返される事も、脚を折って擱座することもなく滑走路の端で無事止まった。アンリが長い滑走路の端から端まで夢中で駆け寄るのと、必死の着陸を成功させたレオンが地に降り立つのとが、ほぼ同時だった。
「早く飛行機を格納庫に!」
アンリはそう叫んで、上翼と下翼の間の支柱を掴むと、機体を引っ張った。レオンもそれに倣い、二人がかりで飛行機を格納庫に引いていく。幾度も横風にひっ くり返されそうになりながらも、風を防げる場所に機体を収め扉を閉めた。アンリとレオンはずぶ濡れになった衣服を脱ぐ力もなく、そのまま床にへたり込ん だ。
 嵐が過ぎ去ったのはその日の夕方だった。アンリは町に電話して、滑走路の補修に人を手配するのに忙しかった。電話線が切れなかったのは幸運だった。
 飛行服から乾いた服へと着替えたレオンは、滑走路を端から端まで歩くと、晴れた空を見上げた。もはや雲一つ残ってはいない。
「今からでも飛べそうだな。滑走路もそれほど痛んでないし」
大声で部屋の中のアンリに呼びかけた。
「やめとけよ。今からじゃ夜間着陸になるぞ。それに滑走路の痛みを甘く見ると、飛行機をひっくり返すことになるぞ」
レオンは返事を返さなかった。
「町まで飯を食いに行こう。何もかも、明日の話だよ」
アンリは言いながら、上着を羽織った。

 町の行き付けの食堂で肉と野菜を煮込んだ料理をつつきながら思う。そのレオンもそれから間もなく、いなくなってしまった。定期便の運行中に海の上で消息を断ったのだ。食事から帰ってくるなり、長椅子の上で正体なく眠りこけてしまったレオンの姿が今でもはっきりと思い出される。レオンの遭難と前後して相次いだ事故の多くが、酷使されすぎたパイロットの過労によるものだと噂された。幾度もパイロット達のストライキが発生したが、航空郵便会社は一度たりとも譲歩していない。ストのたびに契約しているパイロット達が入れ換えられて、それでおしまいだ。金を払ってでも空を飛びたいという連中はいくらでもいる。そして使い潰されて、自ら会社を去るか飛行機と運命をともにするか。
 アンリはテーブルの上に金を置いて立ちあがった。レオンのことなど思い出したせいで、今夜は飯がまずかった。早く帰って眠ることにしよう。

2・女パイロット

 砂漠と海、そして岩山。空の青、薄くちぎれちぎれに空を流れる雲。目に見えるのはそれだけだ。アンリは無線室の大窓の前に腰掛け、定期便がやってくるのを待っていた。膝の上に読みかけの本を置き、指をしおり代わりに挟んで、北の空に目を凝らす。今日のパイロットは聞きなれない声だった。また誰かなじみの操縦士が夢破れて会社を去ったか、それとも命を落としたとみえる。やがて空を貫く航路上に一点の影が現れた。今日も無事、定期便は上空を通過。万事異常なし。そう思いかけた時、無線機がわめき出した。
「エンジン不調。エンジン不調。そちらに着陸する」
アンリは首を振って、無線機の前に座りなおした。
「ここまでもつか?」
「たぶん。いや、今、発動機が完全に止まった」
アンリは横目で窓の外を見た。飛行機はまだかなりの距離がある。
「よし、できるだけ陸に近づけて着水しろ。すぐに舟を出して拾ってやる」
「飛行機は?荷物は?」
馬鹿げた質問だった。
「諦めろ。しかたない」
「なんとか飛行場まで辿り着ける様、やってみる」
「やめろ!無理をするな!」
返事はなかった。窓の方に向き直ると、機体は必死で水平を維持しようともがいていた。
「おい!やめるんだ!機体と命とどっちが大事だ?」
返事はない。アンリは思わず滑走路へと駆け出していた。飛行機はじわじわと高度を落としながらも、まだ安定を保っていた。しかし高度を維持しようという無意識の操作なのだろうか。じわじわと機首が持ちあがっていく。
「失速するぞ」
それでも操縦士はきわどい角度を保ちながら、滑走路と砂浜を隔てる砂丘を越えた。高度を落としていた飛行機はここで遂に失速した。バランスを崩しながらも、操縦士は必死に方向舵を操作して滑走路に滑り込もうとしている。アンリが成す術もなく見守っているうちに、飛行機、戦争中のMF‐3型連絡機をベースにした郵便機は、滑走路へと進入してきた。プロペラは既に向かい風を受けて緩慢に回っているだけで、推力を生み出してはいない。機体の水平は不安定で右に傾いたり、左に傾いたりを繰り返している。アンリは祈るような気持ちで、工具箱と救急箱を取りに格納庫の中へと駆けこんだ。郵便飛行機の左翼端が車輪より先に接地し破壊され、同時に機体が滑走路上で左に急旋回するのが格納庫の開け放たれた扉から見えた。
 重い箱を二つも提げながら、外へ走り出る。郵便飛行機は滑走路脇の駐機場で、うずくまって止まっていた。かつてこの飛行場が賑やかだった頃なら、翼を連ねる何機もの飛行機を巻き込まずにはいられなかっただろう。郵便飛行機は何もない空き地の真中で、先の吹き飛んで無くなってしまった上下の左翼を地につけて、斜めに傾いている。アンリは飛行機に駆け寄ると、操縦席を覗きこんだ。操縦士は体をシートに固定されたまま、首だけ前に垂らしている。死んでいるのか、気を失っているだけなのか判然としない。呼吸を確かめるために、頭を持ち上げる。
「女か」
アンリは一瞬動きを止めたが、すぐに仕事に戻った。今は他事を考えているひまはない。確かに呼吸をしていることを確認すると、ナイフで操縦士を座席に固定しているベルトを切断し、機体から引き摺り下ろす。額の左上、髪の生え際に大きな切り傷があって、かなり出血はしているが、深刻な外傷でははない。アンリは小柄な操縦士を抱え上げると、強い陽射しを避けられる室内へと運びこんだ。

 操縦士が気を取り戻したのは、アンリが二件目の電話を終えようとしているところだった。
「怪我人が目を覚ましたようだ。また後でな」
電話を切って操縦士に目を向けると、女は寝かされていた木製の固い長椅子の上で上体を起こし、ぼんやりと宙を見ていた。アンリが飛行帽を外した時にあふれるようにこぼれおちた長い髪が、今は背中に垂れている。
「飛行機は?」
女はアンリの姿に気づいて尋ねた。アンリは女の額から膝の上に落ちた濡れハンカチを拾って、未だに血のにじみ出ている傷口に当てる。
「もうしばらく押さえていろ。今、包帯を巻いてやる。」
「ねえ!飛行機は?荷物は?答えて!」
アンリはまっすぐ窓の外を指差した。郵便飛行機は半ばまで砕け散った左主翼と胴体で身を支え、平行する二枚の右主翼を斜めに空へと突き出している。
 女は一、二度かすかに口を動かしたが、言葉にはならなかった。やがて奥歯を噛み締めると、その間から嗚咽をもらした。
「まあ、そう嘆くな。命があっただけよかったじゃないか。後で見てくるけど、荷物だって無事な物も多そうだ」
「うるさいっ!」
女はアンリが肩に置いた手を、はじくように払いのけた。アンリは操縦士の目に浮かんだ涙を見て、安易に慰めの言葉をかけた自分の迂闊さを呪った。
「もうおしまいだ。畜生」
震える唇でそう言うなり黙り込んでしまった女を前に、アンリは町から医者が来るまでの時間を思っていた。早くてもあと半時間はかかるだろう。アンリは暫く女を放っておいてやることにした。
 ささやかなキッチンで、ミルクを温めて持っていってやる頃には、女はいくぶん落ち着いていた。
「飲むか?牛乳じゃなくて、山羊のミルクだが…」
女は黙ってカップを受け取ると、長椅子の上で座り直そうとした。
「あまり動くなよ。あばらが折れてるかもしれないんだから。どこかに突き刺さったら、おおごとだ」
「ありがとう」
女は小さな声で礼を言うと、両手でカップを持ったまま視線を窓の外へ、壊れた飛行機へと移した。飛行機は幾度見なおしても、壊れ果てたままだ。また顔が歪み、言葉にならない声が漏れる。
「やっと…、やっと手に入れた飛行機なのに!ようやく仕事が順調になってきたところだったのに!」
飛行機から顔を背けてうなだれ、吐き捨てるように言う。
「お前さん、フリーランスかね」
相手は小さく頷いた。
「操縦は空軍で?」
「いいえ、空軍では女性パイロットは募集していなかった。女のパイロットは戦争中だけの特例だと言われたわ」
アンリの胸に痛む物があった。小さな小さな棘が、心臓を一刺ししたように。
「民間の飛行学校で習ったのか?高くついたろう?」
「父の遺してくれたお金に借金もして、仕事を始めたの。でもそれももうお終い。何もかも…、お終い」
女の声は徐々に小さくなり、消えていく様に言葉は終わった。
 アンリは言葉無く、首を垂れたまま身動きもしなくなった女を見下ろし、窓の外に目を移した。砂漠の日は、砂やその他目に入るもの全てに照りつけ、反射してもなお目を刺すほどに鋭い。その光の中、飛行機の残骸はまるで遠い過去からそこにあったかのようだ。
 地に繋がれた飛行機。アンリは再び女に視線を移す。その嘆きの意味をアンリははっきりと知っている。女の嘆きが我が事のようで、腹の中を刃物で掻き回される感覚に顔をしかめる。機体の購入に当てた資金も回収していないに違いない。その上期日までに荷物を運べなかった違約金は莫大なものになる。それに比べれば微々たる物とは言え、破損した積荷の賠償金だってばかにはならない。女がもう一度フリーのパイロットとしてやりなおせる可能性は全く無い。残されたのは借金を返すためだけに働く人生。それだけだ。
「結局、俺たちは利用されてるだけなんだ」
突然マーカスの声が耳元で響いた。
「軍隊は俺たちが、空を飛びたい!空を飛びたい!たとえどんな危険を伴おうと、空を飛ばずにはいられないって気持ちを利用して、飛行機を餌に、戦場に追い立てているのさ」
懐かしい声。この声の主もまた、飛行機と運命を共にした。飛行機と空に魅入られた者の末路はいつだって悲惨だった。アンリは幾年にもわたって、幾十人ものパイロットを見てきた。空に別れを告げ立ち去っていく者、それも五体満足なままで立ち去っていくものは僅かだった。

3・空へ

 馬蹄の音がアンリの夢想を破った。医者がやって来たのだ。医者を室内に導くと、屋外に出て壊れた飛行機に歩み寄った。女に遠慮しただけではない。アンリにはやるべきこと、いや、やるべきだと思える事が残っていたのだ。発動機が完全に止まっているのは、女を引っ張り出しながら確認している。見たところ燃料が漏れ出している様子も無い。荷室の鍵は操縦席の物入れに入っていた。
 準備が終わる頃には、陽射しは午後のものになっていた。痛いような感覚こそ和らいだものの、気温はいまだ上がり続けているのだろう。流れる汗は収まる気配を見せない。
 屋内に戻ると、医者は帰り支度をしていた。
「打撲傷や圧迫による内出血は酷いし外傷もあるが、大怪我はしとらんよ。歩き回ったって、特に問題はないくらいだ」
医者は笑った。アンリは礼を言って、医者を送り出した。
 航空郵便会社への電話でカタリナ=ヤハーという名だとわかった女は、長椅子に座ったまま虚ろな目を宙に向けていた。近づいても、アンリには注意をむけようともしない。何種類もの塗り薬の強力な臭いが鼻をついた。
「出かけてくるから、ゆっくりしていてくれ。無線機以外には盗られて困るようなものはないし、ここらへんは戸締りせずに寝ても大丈夫なような土地だから、特に気にしてもらうようなことはない」
 女性パイロットはようやく顔を上げ、アンリの顔を見た。
「明日の昼までには戻る。台所には食べ物も飲み物も充分にある。自由に飲み食いしてくれ」
アンリは言いながら、箪笥の扉を開けた。
「どこへ行くの?」
「せめて荷物の賠償金だけでも払わないで済む様に、な」
取り出した飛行服、ゴーグル、ブーツ、何年も使ってない品物だが手入れに怠りはない。
「飛ぶの?あなたが?」
「意外かい?」
アンリは女に笑いかけたが、答えはなかった。女はただ不思議そうな目をアンリに向けるだけだった。

 格納庫の奥から引き出された大戦中の偵察機は、滑走路の端で静かに陽光をはね返していた。戦争が終わった後で武装を外され、帝国空軍の紋章を始めとする全ての標章を塗り潰された飛行機。アンリが買い上げたものの、この飛行場にやって来る時に乗って以来、いつまでも静かに空を飛ぶ時を待っていた機械は、久しぶりに格納庫の外へ引き出された。
 長い間どうしても飛ぶ気になれなかった。だが整備だけは欠かさなかった。汗だくになりながらクランクを回しエンジンを始動させると、上着をしっかりと着込み操縦席に登る。吹流しで風向きを確認してから時計に目を移す。日が暮れるまでにアラニア・ノヴァの空港に辿り着けるだろう。ゴーグルを目に当て顔を上げると、窓越しにカタリナがこちらを見守っていた。手を振ってみたが、やはり答えはない。あるいは微笑んだり、何か言ったりしたのかもしれないが、この距離ではわからなかった。動力軸を繋ぐと、軽い衝撃があってプロペラが回り始めた。出力を上げる。機体が滑走路を滑るように進みはじめる。轟音とともに加速。タイミング良く操縦桿を引くと、 飛行機は静かに浮かび上がった。何年振りかの感覚に、胸の中が何か液体のような物で満たされていく。
 高度を上げる。いつも見上げている岩山を一息に飛び越す。岩山の頂上に大戦中の高射砲陣地が見えた。何丁もの機銃が朽ち果てるままに打ち捨てられている。
 ところどころ真っ白な雲の塊が浮かび、空はひたすらに青い。

 針路をほぼ南南東、まっすぐアラニア・ノヴァへ向かう方向に取る。海のように砂の広がる地形はやがて岩山の台地に遮られる。断崖の縁、こぼれ落ちそうなぎりぎりの所に、家々が身を寄せ合う様に立つ集落があった。白い石材が照りつける陽光をはね返し、砂漠の中で死んだ動物の骨のようだ。亜熱帯の午後、動いている人影は目に入らない。
 前方に目を向けると、いくつもの真っ白な雲の塊が身を浮かべていた。アンリは雲の端から"クジラ"が姿を現すのではないかと、目を凝らしていた。"クジラ"がこんなところを飛んでいるわけはない。そう思っても、一度身についた習慣は、容易には拭い去る事はできない。アンリは他に何者も飛んでいる筈の無い空の真中で油断無く周囲に目を配り、自分を狙う猛禽を、獲物となるべき"クジラ"を探しているのだった。馬鹿らしい。そう思っても、アンリは周囲に目を配る事は止めなかった。"クジラ"はいつだってこんなふうによく晴れた日に、あんな真っ白な雲から突然現れたのだから。

 * * * 

 アンリは必死に上昇を続けていた。なんとしても"クジラ"の上へ出なくてはいけないのだ。薄い空気の中で酷使された発動機があえいでいる。ここでエンジンが止まったら、すべてはお終いだ。それでもアンリはスロットルを緩める事はなかった。後にはマーカス・イェール曹長とエラ・ゼフィル上等兵の機が続く。 充分な高度を確保すると、アンリは"クジラ"の群への緩降下へと入った。長く引き伸ばされた砲弾の形をした船体が、幾つも宙に浮かんでいる。アンリはそのうちのひとつに狙いを定めた。充分近づいたところで、機銃を叩きこむ。続いて敵の船体上の銃座からも、ガトリング砲が応射された。アンリは航路を一定させぬようにして、敵の射線を避けてゆく。敵の頭上を飛び越しざま、機体の下に吊り下げた焼夷弾を切り離した。焼夷弾と言っても、壊れやすい陶の容器に可燃性の液体を入れただけのものだ。タイミング良く投下された焼夷弾は、次々と巨大な船体に吸いこまれていく。
「くそっ!発火しなかったか!」
アンリは振り向いて、狙った敵が悠々と飛行を続けているのを確認すると毒づいた。まあいい、自分の仕事は終わりだ。あの飛行船は機銃の一掃射、一発の曳光弾で燃えあがることになる。それは"飛蝗"の仕事だ。アンリは翼を振って僚機に合図すると、基地へと機首を向けた。
 アンリの背後で、強い光が閃いた。振り返ると"クジラ"の船首が火の玉に包まれていた。誰かの放った焼夷弾が、敵の銃座に命中して弾薬が誘爆したのだ。
「やった!」
アンリは腕を振り上げたが、次の瞬間には興奮は消え去っていた。せっかくの大爆発はうまく燃え広がらなかった。船首の上部を吹き飛ばされた"クジラ"は、 細かい気室に仕切られた内部の構造を露わにしながらも、まったく浮力を衰えさせた様子はなかった。大破した飛行船はさすがにゆっくりと旋回して、帝都への 爆撃行からは脱落していく。しかし逃げ返ろうとするその姿には、なおも見るものを圧倒するような力が備わっていたのだ。
「化物め」
アンリは敵の爆撃隊がわずか一機を欠いただけで、なおも進撃を続けているのを見届けると、もう二度と振り返らなかった。

 帝都マクシミリアンポリスの上空に無数の"クジラ"が舞ったのは、大戦が始まって半年が過ぎた頃だった。アンリの属す第三飛行団の制空戦闘隊は、念願の新型機への装備転換のため、ちょうどマクシミリアンポリス近郊の基地で、慣熟訓練中だった。
「新型機を飛行船の迎撃に使うなんて、馬鹿げている!」
 飛行隊にそのまま首都に留まるよう命令が出たとき、アンリは戦闘隊長に食って掛かった。新型機はそのような任務にはおよそ不向きな代物であり、まして前線にはこの対戦闘機戦闘に特化した機体を必要としている戦場があった。
「プロペラ同調式の機銃を装備した機体は我々の悲願でした。だが"クジラ狩り"のために、新型機が必要だったんじゃない!やっと、敵の戦闘機とまともに勝負ができるというのに!」
戦闘隊長は下手をすれば軍法会議ということにもなりかねない発言を、じっと聞きつづけた。
「貴様の気持ちはよくわかる。私だっておなじ気持ちだ」
男爵家の次男に生まれ、機体にも自分の紋章を描き入れている隊長は、常に「現代の騎士」という自らの出自を意識している様に思われる。もはや演出とすら言えないほど染みついてしまった「貴族的」な立ち居振舞い、言葉遣いは周囲にも無言のうちに強い影響を与える。彼の周りでは空気さえもが、襟を正さざるを得 ないようだ。
「空軍上層部の意向なんだ。開戦の直前に発足したばかりの空軍の名誉にかけて、これ以上帝都が空襲されるのを黙って見ているわけにはいかない、ということさ」
「最新鋭機があれば、北部戦線で制空権を奪取できるかもしれないんですよ」
「そして陸軍に手柄を立てさせてやっても、空軍は帝都をむざむざ爆撃されたことで肩身の狭い思いをすることになるんだ。北部戦線で陸軍が総崩れになれば、空軍の失態は目立たなくなるさ」
飛行隊長が本心から言っているのではない、ということはよくわかっていた。隊長自身も怒りで胸のうちが煮えたぎっていることは、いつもと変わらず冷静な言葉のうちにも表れていた。
「まあ、暫くのしんぼうだ。帝都を直接空襲だなんて、実効のあがらない作戦が長く続く筈が無い。心理面、それと外交面での成果を狙った短期的な作戦だよ。本来の任務に戻れる日も遠くはないさ」
 しかし戦闘隊長の観測は楽観的すぎた。その後半年以上たっても、散発的な帝都空襲は続いていた。水素ではなくヘリウムガスを使った飛行船を量産する敵の工業力、そして神聖不可侵である皇宮カステル・マクスミリアノが直撃弾をすら受けているという驚愕から立ち直った帝国側も、有効な反撃手段は無いままだった。

4・仲間

 兵舎に戻り一直線に食堂へ向かうと、すでに食事の仕度が出来ていた。人数分の食事が用意はされているが 必ず幾つか、時には半数も空席ができる。直属のマーカスとエラ、それに同じ中隊のパイロット達は、帰還後の点呼で人数を確認している。十五人いる部下のうち三人が未帰還となっていた。
「おい、今日の一番手柄は第一中隊だな。あの爆発は誰がやった?」
マーカスが食堂に入ってきた第一中隊のパイロット達に声をかけた。
「キャラ伍長だ」
「ドラゴンレディーか、やるなぁ。祝杯をあげさせてくれよ」
返ってきた返事は、マーカスの陽気な言葉にまるで不釣合いな重たい口調だった。
「伍長は未帰還だ」
結局、祝杯は弔いの杯になった。アンリは葡萄酒を一杯だけつきあうと、騒乱の兆候を見せている食堂を抜け出した。

 騒々しい雰囲気は嫌いだ。アンリは兵舎の間の草地に寝転び、夜空を見上げていた。雲一つ無い夜空には、数限りない星がまたたいている。
「こんなところで、何してるんですか?」
聞こえたのはエラ・ゼフィル上等兵の声だった。アンリは彼女には顔を向けずに、あいまいな返事を返した。
「キャラ伍長が未帰還になるなんて、ショックですね…」
エラはアンリと並んで腰を下ろした。気持ちは良くわかる。このところ皆すっかり"クジラ狩り"にも馴れて、未帰還になるパイロットはほとんどが出撃三回未満のパイロットばかりだった。クジラを討ち取ろうなんて色気を出しさえしなければ、生きて帰れる。ベテランパイロット達は、そう思いかけていた。しかし キャラ伍長は開戦直後に志願し、出撃回数は五十回を越え、飛行時間も千時間に迫っている古参兵中の古参兵だったのだ。
「エリノアは有名人だからな。明日の新聞は派手に書くだろう。ドラゴンレディー・エリノア・キャラ伍長、名誉の戦死って」
帝国空軍初の女性戦闘機パイロット。圧倒的な性能を誇るエラント王国側の戦闘機に対して、幾度も勝利を収めた第三飛行団の至宝。今夜は全てのパイロットが自らの死を思うだろう。ここは戦場であり、死は常に隣にある。当たり前のことだ。
「エリノアは最初、俺の中隊にいたんだ」
「ええ、本人から聞きました」
「中隊の数が増えるまで一緒に戦った。戦争が始まった時、帝国空軍にとって戦闘機ってのは敵と並んで飛んで、後席の銃手が撃ち合いをするものだったんだ。 ところがエラント軍の戦闘機は、操縦席の前に固定式の機銃を装備していた。奴等の弾は、機首で回転しているプロペラの間をすり抜けて飛んできたんだ。性能差は決定的だった。俺たちはただ撃ち落されるために飛んでいるようなものだった」
「でもキャラ伍長も、中隊長もその時代に敵を撃墜してるじゃないですか」
「爆撃機や偵察機は、な。戦闘機については、撃墜したなんてもんじゃない。身を守るためにやたらに撃った弾があたっただけのことだ」
アンリは上体を起こし、エラと並んで座った。自分が何を話そうとしているのか、まるでわからなかった。ただ、心の中に浮かんでくる言葉をそのまま口にしているだけだ。
「エラ、なんで空軍に志願した?」
「空を飛びたかったんです」
迷いのない答えが返ってきた。まっすぐ自分に向けられた視線を受け止める。小柄で痩せた身体。大きな目。歩兵のように短く刈り込んだ髪、航空団のどの男性パイロットよりも短く刈り込んだ髪。アンリはエラの視線から目をそらした。
「エリノアもそうだった。戦争が始まって空軍が男女不問でパイロットの募集を始めると、すぐに志願したんだ」
エラはまっすぐにアンリを見ていた。アンリは首を振って、言葉を続けた。
「それを言ったら、みんなそうか。ここにいる人間みんな、戦争がしたいんじゃない。空が飛びたいだけなんだな」
「中隊長は戦争が始まる前から飛んでいたんですよね」
「ああ、陸軍航空隊が発足して、最初に編成された航空隊に志願した。士官学校を卒業した直後だったから、もう十年も前の話だ。空軍が独立した時、俺も陸軍から移ってきた。最初空軍は飛行船の運用を中心に考えられていたから、航空隊は肩身が狭い思いをしたよ」
話が続かなくなったので、アンリは黙った。エラもアンリから視線を外し、茫漠と広がる夜空を眺めた。
 皮肉な事に飛行機の価値を空軍上層部に知らしめたのは、敵の航空隊の活躍だった。浮力を得るために船体に水素を詰めた帝国の飛行艦隊は、機動力に勝る敵戦闘機の攻撃に次々と空中で炎上し、開戦後数日で壊滅したのだ。ヘリウムを充填した飛行船、プロペラ同調式機銃を装備した戦闘機、兵士三人で扱える軽量歩兵砲、塹壕を乗り越えて突破する無限軌道式装甲車。味方の想像を絶するようなエラント軍の新兵器は、陸海空で帝国軍を圧倒していた。帝国側で空軍無用論が巻きあがらなかったのは、陸軍と海軍も同様に負け続けていたからに過ぎない。
 エラが口を開いたので、アンリの物思いは破れた。
「すまん、何と言った?」
アンリは慌てて尋ねた。
「中隊長はキャラ伍長のこと、好きだったんですか?」
「女学生のようなことを聞くね」
エラはこちらを見ていなかった。その目はまっすぐ、遠くに向けられている。アンリはエラと同じ方を向き、静かに亡くした戦友のことを思った。
「惚れていた、というのとは違うな。そうじゃない。エリノアは仲間だ。そう、その言葉が一番ぴったりくる。男だろうが女だろうが、関係ない」
「一緒に空を飛んだ仲間」
静かな口調で、アンリの言葉が繰り返された。「そうだ」
一緒に空を飛んだ仲間、同じ望みを懐いた仲間。そう言えばエリノアに対して上官として振舞ったことがあっただろうか?
「そろそろ休みます」
エラが立ちあがった。アンリは座ったままその顔を見上げてから、ゆっくりと立ちあがった。兵舎まで、アンリはエラの少し後ろについて歩いた。髪を短く刈り込んでいるせいで、空中での急旋回に耐えられるのか心配になるほど細い首が露わになっている。
「中隊長、わたしも『仲間』なんでしょうか?」
別れ際、エラはアンリに向き直って問いかけた。口元には微かな笑いが浮かんでいる。
「勿論だ」
アンリは笑顔で答えた。エラも笑い返し、おやすみと言って、立ち去ろうとする。
「だから、死ぬなよ」
我知らず言葉が漏れた。エラは足を止め、もう一度アンリを見る。アンリは思わず言ってしまった言葉の続きを捜した。
「戦争が終われば、きっと自由に飛べるようになる。命令も任務も関係なく、敵に邪魔される事もなく、だ」
「わたしは今でも充分、素敵な毎日だと思ってますよ」
アンリは言うべき言葉を見失って、口をつぐんだ。
「平和な空なんて、想像つかない」
エラはそう言って笑うと、兵舎へ入っていった。アンリはなんだか胸の中に重たい異物を飲みこんだような感覚に戸惑いながら、星明りに照らされた基地の中を歩いた。士官用の宿舎までの道がばかに遠く感じた。

5・支社長

 いつしか日は西に傾き、周囲の雲に赤みを帯びた光を投げかけ始めていた。航空郵便を積んだ複葉機は、赤い光の中を一線に飛びつづける。アンリはゴーグルごしに周囲を見まわし、美しいと思った。前後左右、そして上も下も、赤い光に包まれて飛ぶ。夕焼けを満たした球体の中を泳いでいるような気分。何かが自らの中に染みこんでいく。それでもアンリは飛行に酔いしれる事はなかった。果てしのない空にただ一人。ここはかつて望んだ平和な空だ。それを思うと苦い思いがこみ上げてくる。
 空から赤い光が抜けていき藍色が忍びこむ頃、アンリは飛行機の高度を下げていった。宵闇の中に白く浮かび上がる、アラニア・ノヴァのいくつもの建物。天に向けて鋭く尖った鐘楼を持つ中央教会。列柱に飾られた重厚な正面を、日の出から日没まで人々で埋め尽くされる広場に向ける駅舎。同じ広場に面して、大きなドーム屋根を誇るのは市会議事堂。それらの建物を左手に見ながら、小麦の畑の上で更に高度を落とす。ただ広い空き地が広がっている、としか見えない飛行場は上空から見つけ易い施設ではない。それでもやがて、畑と滑走路の境が見分けられる様になる。無線も無電も積んでいないアンリの飛行機は、一度滑走路の上を飛び越し、その上で二回旋回して見せた。滑走路の傍らには幾つかの低い建物、そして真新しい高翼単葉式の旅客機が並んでいる。やがて滑走路の端で、着陸許可を伝える旗が振られた。
 軽い衝撃が、長いブランクで操縦の勘が鈍っている事を物語る。久しぶりの大地に降り立ち、飛行帽と飛行服を脱ぎ捨てると操縦席に叩きこんだ。風が、汗のこもった頭髪を軽やかに撫でいく。日は既に落ち、残光の中を何人もの作業員が言葉少なに立ち働いている。
 郵便飛行機会社の事務所には、まだ数人の社員が残っていた。並べられた机の数からすると、日中はその数倍の人間がいるのだろう。
「中継飛行場のアンリ・ルアーブルだ。事情はさっき連絡したとおりだ」
一番手近にいた若い男に書類を手渡す。男は顔もあげずに、幾つか書きこみをすると控えを返してよこした。これで責任は果たした。あとは空港の事務所に行き、そこでも幾つかの手続きをすれば休むことができる。会社の事務所を出ようとすると、呼びとめる者があった。振り返ると事務所の奥の「支社長室」と記さ れた扉が開かれ、戸口にオリビエが立っていた。
「ルアーブル大尉!黙って行こうとするなんて、水臭いじゃないですか」
満面の笑みを浮かべながら近寄ってくるオリビエから反射的に目をそらしてしまったことを、アンリは恥じた。杖は突いているけれど、二本の足でしっかりと床を踏みしめてやってくるその姿には、右足が義足であることを示すものはなかった。それでもオリビエは、飛行機乗りの一つの末路、その典型的な姿であるの だ。
「大尉はやめろよ。退役して何年経つと思ってるんだ」
「戦争が終わってすぐ。ですからもう五年ですか」
アンリがようやくひとつの言葉を搾り出したのも一向に意に介さないように、相手は笑顔を崩さなかった。
「さあ、仕事は終わりでしょう?食事でもしましょうよ。後の手続きは、ウチの事務員にやらせておきますから」

 七時になろうかというのに、夕暮れの光が残るアラニア・ノヴァの街。湿り気の多い熱い空気が、ずっしりと体にのしかかってくるようだ。石畳の狭い街路の両側は様々な商店が道にまで品物を並べ、食料品や香料の臭気があたりを満たしている。頭の上に大きな荷物をのせ、歌うような売り口上を途切れなく風にのせて歩く物売りの女達。素足でゆったりとした民族衣装姿の女達とは対照的な、背広姿の男たち。無論、男でも民族衣装を着ている者は少なくない。彼等は勤め人ではなく、商店主や行商人だ。物乞いする子供たちが彼等の足元を駆け回る。中には大人達に蹴飛ばされるものもある。水売りがロバを引く横を、騎馬警官が威圧的に通り過ぎる。それらの雑踏を蹴散らす様に、アンリたちの自動車が進んでいく。
「暑いですけど、もうすぐですから」
オリビエは赤い顔に幾筋も汗をしたたらせていた。アンリは車のドアの上に肘をかけた姿勢で、微かな風を顔に受けようとしていた。

 白い巨石を組み上げた建物の中は涼しかった。
「また組合はストライキをやってるのかい?」
白いクロスをかけたテーブルにつくと、アンリは尋ねた。
「ええ、パイロットと整備員を増員しろと言ってます」
「正当な要求だな」
アンリがそっけなく言うと、オリビエは気色ばんだ。
「そうでしょうか?会社にはこれ以上人を増やす余裕はないですよ」
「過労が原因の事故が減れば、お釣が来るさ」
「組合の連中と同じようなことを言いますね。言っておきますが、全飛行機に無線を、無電でなく無線ですよ!装備させている飛行機会社が他にありますか?その上、非常用の飛行場まで用意しているんですよ」
アンリは苦笑した。「お前こそいつから会社の広報担当になったんだよ」その言葉をかろうじて飲みこんだ。
「人里離れた所にいるからって、新聞も読んでないと思ってるのかい?ウチの会社の事故率は、他の会社と比べても酷いものじゃないか」
お仕着せを着たボーイが、スープと羊肉の料理、雉肉の料理を運んできた。
「無線にしたところで、パイロットを三人、整備員を五人増やす事に比べれば、決して高くはないだろう。事故が多いからってうるさい役人に対するポーズでやってる気がするがね」
「そんなこと…」
オリビエは吐き捨てる様に言って、料理を口に運んだ。視線は皿に向けられている。
「ストライキでフリーランスに荷物を運んでもらう羽目になっちゃ、かえって高くつくだろうに」
「その上、事故られちゃあ、ね。俺が本社の人間だったら、女のパイロットなんか使わなかったのに」
テーブルの向うまで駆けて行って殴りつけたい衝動を押さえつけ、雉肉を一切れ口の中で噛み下す。味がまるで感じられない。
「着水すれば安全だったのに、命がけで荷物を守ったんだ。英雄だぞ」
オリビエは鋭い口調に、たじろいだようだった。もう充分だ。この男だって会社に雇われているだけのこと。会社そのものじゃない。アンリは表情を緩めた。
「やめよう。なにもここで喧嘩を始める事はない。もうちょっと愉快な話題を探そうじゃないか」
ボーイがシナモンの香りのするパイ菓子と、熱いコーヒーを持ってきた。ふたりともしばし無言で、パイを引き裂き口に運んだ。やがて大戦中の武勇伝について、互いに語り始めた。アンリはにこやかな顔を作り、時には大声で笑ってみせさえした。しかし胸の奥に重く居座る何者かを忘れる事はなかった。
「ところで、マクシミリアンポリスの航空学校で教官を探しているんですが、どうです?やってみませんか?知った顔が何人もいますよ」
オリビエが話題を変えたのは、散々話して話題が尽きかけた頃だった。
「素人の飛行機に同乗するのか?ごめんだね!」
アンリは首を振った。
「ルアーブルさん。あなた、まだ四十にもなってないんでしょ。あの飛行場でこのまま埋もれているつもりですか?」
「給料と軍人恩給で、充分暮らしていけるからね」
そっけない言葉に、オリビエは身を乗り出してきた。
「何故?もう飛行機に乗る気はないんですか?」
「ああ」
アンリは椅子の背もたれに体を押し付けるようにして、両手は力なく脚の上に置いていた。視線は空になった皿の上を遊んでいる。
「もう一度、自由に大空を飛ぼうとは思わないんですか?」
「今、空のどこに自由があると言うんだ?」
精一杯皮肉な口調を作って応える。本当はその言葉を、金切り声で叫びたいくらいだったが。
 オリビエは無言でコーヒーを口に運んだ。

6・追憶

 走っている。エラの名を呼びながら走っている。地面は乾いているが起伏が激しく、ひとつ間違えば捻挫してしまいそうだ。大地は見渡すばかりの緑である。アンリの腰の高さに揃った秋小麦。その穂を掻き分け踏みつけながら急ぐ。雲一つ無い明るい青空が、地平線で緑の大地と接している。コントラストすらない、たった二色に染め分けられた世界の中で、ただ一つだけ小さな染みのような色彩。アンリはそれが、墜落した飛行機だと知っている。主翼に張られた帆布のベージュ色。翼に描かれた帝国空軍の紋章。アンリはエラの名を叫びながら走っている。戦闘機は大きく傾いで、上下の右主翼を空へ突き上げたままの姿勢で動こうともしない。
 アンリはエラの名を呼びながら、飛行機にたどり着く。左の主翼は上下とも無残に壊れ果て、地面にも深い傷跡を残している。コクピットに回る途中も、エラの名を呼びつづけるが返事は無い。ベルトで座席に固定された体は、力なく重力の引き寄せるに任せて、上体を地に向けて垂れ下がらせている。必死で操縦席からエラの体を引きずり出す。その間にも、生命を感じさせる兆候は何一つ無い。両腕に抱きかかえると、女の首が大きくのけぞった。はずみで地に落ちていく飛行帽から滑り出す長い髪。熟れた小麦の穂の色をした髪。切れた額から流れ落ちる血が、赤黒く髪の根本にこびりついている。
「カタリナ!」
 自分の叫び声で目が覚めた。しばらくそのまま、天井を見つめる。心臓が鼓動を数える事もできないほど早く打っている。アンリは深い呼吸を続け、気分が落ちつくのを待った。まだ日は昇っていなかったが東の空は明るく、かすかな光が窓から差しこんでいた。
 何故、エラがカテリナと入れ替わっていたのだろう。実際にはエラの遺体など見ていない。あの風景もどこのものだとも知れない。助け出したのがカタリナだったのは、別に不思議ではない。昨日、実際に同じ事をしているのだから。とは言え、飛行機に駆け寄りながら叫んでいたのはエラの名だった。心臓は落ち着いてきたが、まだ苦しいほど早く打ちつづけている。エラのことを忘れかけているのだろうか?あの痛みが過去の物になろうとしているのだろうか?

 * * * *

 クジラ約三十、前線を通過、の報を受け第三飛行団戦闘隊はただちに出撃した。いつもどおり敵のやや上空から緩降下しながら、アンリは無数の飛行船が密集した方陣を形作っている、その威容を確認した。巨大な船体に描かれた鹿の枝角の紋章がはっきりと見て取れる。
「新型だ」
アンリは呟いた。敵の中には今まで戦ってきた飛行船もあったが、あきらかに銃座を増やし武装を強化した飛行船が半数以上を占めている。
「やばいな」
今までクジラを攻撃する時に利用できた機銃の死角が無くなっていた。今までの攻撃法が危険になってしまったことをはっきり意識しながら、なおも決然と飛行船に接近してゆく。機銃が船体の真上だけでなく、船体左右に設けられた張り出しの上にも据えられている。いつもと違って、敵はこちらよりも先に発砲してきた。アンリはランダムな回避運動をしながら、一番外側の飛行船の横腹に同高度から近づく。こちらにも新兵器があるのだ。機銃とガトリング砲の嵐の中、アンリも機銃を発射する。飛行船の銃手への威嚇以上の効果は期待できないが、それでもやらないよりはましだ。振り返って、味方が全機ついてきていることを確認すると、アンリは機体を急上昇させた。敵の船体を飛び越しざま、焼夷弾を投下する。今までの可燃性の液体を入れただけで、発火するかどうかは運任せの焼夷弾ではない。弾の中が二つに仕切られ、混合すると発火する性質のある二種類の薬品がそれぞれに収められている。容器が壊れれば、確実に発火するしくみだ。
 突然、激しい衝撃に体を揺さぶられた。敵の機銃弾が、アンリの機体を貫いたのだ。慌てて振り返ると、アンリの目は燃えあがる飛行船の姿に吸い寄せられた。被弾による損傷の確認も忘れるほど壮大なページェント。クジラはいかなる攻撃にもたじろがず、悠々と空を飛びつづけているように見える。しかし、その船体は炎をあげて燃えている。アンリだけでなく後続機も焼夷弾を命中させ、いまやその炎は船体の上部全体を覆っている。攻撃は完全に成功し、あの飛行船がもはや墜落するしかない事は明らかだ。それでも飛行船は浮力を失わない。攻撃される前とまったく同じように飛びつづけている。アンリの目に飛行船の炎は、 それ自体の内から噴き出す怒りの炎のように見えた。神話の時代の荒ぶる神。末期にあって、なおその力を誇示する巨鯨。アンリはいつまでも目を離すことができなかった。

 本来の基地ではなく、手近な基地に着陸した途端、操縦士たちは戦闘隊長に呼び集められた。基地の整備員に飛行機を任せ、駆け出す。馴染みのない整備員に機体を預ける事に、かすかな不安と不快感を覚えた。
 自ら第一中隊を率いて出撃した戦闘隊長の日焼けした顔は、汗と砂埃にまみれている。パイロットを前に整列させた隊長は、滑走路の端で再度の出撃命令を伝えた。
「我々はこれより、敵飛行船隊に対し反復攻撃を加える。各員、機体の損害状況を把握し報告せよ。出撃可能か否かの判断は、各自に任せる」
 アンリは再び自分の戦闘機のもとへ駆けもどる。
「被弾の状況はどうだ?」
「機体胴部に二発。大穴が開いてたんで、塞いでおきました。応急処置ですが強度に問題はない筈です」
整備員の指差す所を見ると、木製の胴体に内側から板が当ててある。ただ釘打ちしてあるだけだが、構造的に負担のかかっている部分ではない。整備員の言う通り問題はないだろう。この整備員は優秀だ。アンリは整備員の適切な処置と、明確な返答に満足した。
「よし、第二中隊・一番機、出撃可能!」

 朝の約三分の二に兵力を減らした部隊は、もう一度焼夷弾を積んで飛び立った。会敵地点はマクシミリアンポリスの上空になるだろう。兵力が減っていても、 熟練のパイロット達はスムーズに編隊を組み終えた。アンリは後方にマーカスとエラがついて来ているのを確認した。彼等と一緒なら死なずにすむような気が する。
 離陸して間もなく、攻撃を終えて帰投する飛蝗部隊とすれ違った。対飛行船用の戦闘機は、敵と並んで飛びながら後席の機銃で敵を攻撃する昔ながらの戦法を追及した機体だ。射角を広く取るため胴体は長く、後席は主翼よりかなり後ろに位置している。しかし水素ではなくヘリウムを使い、重武装しているエラントの飛行船に対しては、飛行船には最適と思われていたこの戦法の優越性は失われてしまっていた。そして鈍重なこの機体では、アンリ達のような焼夷弾攻撃も不可能である。彼ら旧式機を与えられた部隊は、ひたすら古い戦法を続けていくしかない。アンリは遠くを過ぎ去っていく飛蝗部隊を見送った。編隊の組み方は雑で、編隊の周辺や後方に位置する機体は、まっすぐに飛ぶ事さえもままならぬようだ。彼等のほとんどは被弾しているだろう。中には銃手が死亡していたり、操縦士が負傷しているものもあるかもしれない。彼等のうちには、基地に辿り着くまでに力尽きる者もあるだろう。

 アンリたちの部隊は、マクシミリアンポリスの爆撃を終えた飛行船に追撃をかけるかたちになった。いつもの攻撃パターン通り、緩降下で敵を捕らえられる位置に上昇し、そこから速度を上げながら敵に向かう。飛行船の一つが視界の中で、その姿を膨らませてゆく。 船体の横に設けられた張り出しの機銃座と、船体上部にあるガトリング砲塔、更に船体下に吊られたゴンドラの機銃や砲が次々に炎を放った。アンリたちはランダムな回避運動を繰り返しながら、飛行船に肉迫する。アンリは正面に見える機銃座に銃撃を加えた。機銃を発射する振動が全身に伝わってくる。エンジンが絶えず機体に与え続けている振動や、大気が機体を揺さぶる感覚とはまた異質な感覚だ。エンジンの爆音と機銃の発射音だけが聴覚を支配している。いつもどおり敵の船体を飛び越しざま、焼夷弾を切り離した。既に隣の飛行船が前方の視野いっぱいに立ちふさがっている。二隻の飛行船からの銃撃を受けながら、機体を旋回させ戦場からの離脱をはかった。アンリが攻撃した飛行船は、何事もなかったかのように浮かんだままだ。どうやら焼夷弾は命中しなかったらしい。まあいい、また死なずにすんだ。
 自分が奇妙に無感動なのは、一日に二度も出撃した疲労のせいだろうか。攻撃を終えた飛行機を集め、編隊を組みなおす間、アンリはそんな事を考えていた。 脳髄に薄紙がかかったように思考がまとまらない。おそらく注意力も相当に落ちているだろう。アンリは後方を振り返った。直属のエラとマーカスはアンリのすぐ後をついてきている。彼らを死なせずに済んでよかった。アンリは固い座席に身を押しつけた。
 あと十分も飛べば、力のみなぎるような熱いスープにありつける。後方の編隊の様子を確認しようとした時、アンリが考えていたのは、兵員食堂のチキンスー プのことだった。飯を食ったら、冷たい水で汗と体に残る熱気を洗い流し、横になって寝てしまおう。西の空は既にうっすら赤く染まりはじめている。

 振り返った途端、違和感があった。その理由はすぐにわかった。エラが、いない。一瞬のうちに心臓が激しく打ち出し、息が詰まった。どこだ?激しく頭をめぐらし、エラの飛行機を探す。いた!エラは先頭に立つアンリのすぐ後ろから、編隊の最後尾に位置を移していた。何があった?アンリは翼を振って、編隊の先導をマーカスに委ねると、大きく旋回して機をエラと併行させた。
 エラの機は編隊の巡航速度を保つ事ができず、じわじわと脱落しつつあった。アンリは危険を承知でエラの右、ぎりぎりのところまで機体を寄せた。エラの機体に被弾した様子は見られない。発動機の不調だろうか。操縦席のエラが、アンリを見てゆっくりと首を振った。
「あきらめるんじゃない!」
叫んでも相手に届かないのはわかっている。それでも叫ばずにはいられなかった。同行して飛ぶうちに、エラの機体は目に見えて速度を落としていった。それでもかろうじて揚力を保っている。このまま、だましだましでも、なんとか近くの飛行場まで辿りつけないだろうか?アンリは必死で、最短距離にある着陸可能な基地はどこか考え、もう一度エラを見た。彼女の視線はじっと前方に注がれ、瀕死の飛行機のコントロールに全神経を集中している様子だ。アンリは自分の機をエラの視線の先へ、エラの機の前方へと滑りこませた。基地まで帰る事は、もう考えてはいなかった。アンリは翼を振ってエラの注意を促し、ゆっくりと高度を下げ始めた。下は岩の多い山地で、とても不時着できそうにはない。だが、ここを過ぎてしまえば…。後を振り返り振り返りエラがいることを確認し、また前方に視線を戻す。すぐ先には、地平線まで広がる緑の農地が、平らな大地がある。なんとか、あそこまで…。
 幾度目か後を振り向いた時、アンリは瀕死の飛行機が遂に推力を失っていくのを見た。発動機は完全に止まり、プロペラはただ向かい風と惰性で回っているに過ぎなかった。一瞬、飛行機はそれでも、何事もなかったかのように飛び続けるように思えた。だが次の瞬間、力を失った飛行機はそれ自体息絶えるかのように、機首を沈みこませた。もはやエラの傍でアンリにできる事は何もない。アンリはスロットルレバーを引き絞ると、一気に加速して基地への航路に戻った。巡航速度に達しても、レバーを緩めることはない。ひたすら機体に最大速力を強いた。エンジンが焼けつく怖れも、燃料が乏しいことも気にならない。万が一にも彼女が命を取りとめた時の為に、一刻も早く墜落地点に人を遣ること。それ以外は何も考えてはいなかった。何度も何度も、声に出してエラの名を呼びながら。仲間たちから遅れること数分で、基地の滑走路に滑りこむ。ひょっとしたらエラもこうやって、神業のような不時着をきめて、怪我一つせずに戻ってくるかもしれない。アンリはそんな考えにすがりついていた。
 だけど、そんな奇跡はおこらなかった。

7・決別

 砂漠と海、そして岩山。空の青、薄くちぎれちぎれに空を流れる雲。滑走路の端には、飛行機。帝国があらゆるものを犠牲にして大戦に勝利した後で、余剰物資として払い下げられた偵察機。アンリはこの機体で、やっと手に入れた平和な大空を思う存分飛びまわった。空中戦でも使ったアクロバット飛行の技術を次々、思いつくままに繰りだし、地上で見守る人々、友人たちや見知らぬ人達を大いに驚かせた。アンリは滑走路に降り立つと、曲芸飛行の間、両目から溢れ出してやまなかった涙を右腕で拭い、興奮する人々から逃げるようにその場を立ち去った。
 それ以来、アンリが楽しみの為に空を飛ぶことはなかった。

 砂漠の、全ての物を燃えあがらせてしまおうとでも思っているような日差しの中、アンリはその日差しのまともに当たる滑走路の傍らに立っている。隣にはカタリナ。女性飛行士の傷は、この数日間ですっかり良くなっていた。
「本当に、いいの?」
カタリナは言いながら、飛行機に歩み寄った。
「ああ、それは会社の備品じゃなくて、私物だからな」
鍍金仕上げの部品が、日光を反射して鋭い光を放っている。風は全くふかず、汗が滴をなして首を伝わっていく。カタリナは飛行機に手を触れ、発動機、機体、翼を念入りに調べてから操縦席へ滑りこんだ。
「金はいつでもいいが、余裕ができたらちゃんと払うんだぞ。二十万ダラッドだ、忘れるなよ」
アンリもゆっくりとした足取りで飛行機に近づく。操縦席のカタリナは、視線をまっすぐ滑走路の先へと向けている。アンリは彼女が自分の方に向き直る前に、人差し指で目を拭ったのを見逃さなかった。女から目をそらし、機首の巨大な発動機、その先のプロペラへと視線を移してゆく。その先には無限に続く青空。 飛行機はその空に挑むように斜め上を見上げている。アンリは我知らず口元がほころぶのを感じた。
 カタリナは軽やかな身のこなしで、操縦席から飛び出すと、跳ぶように梯子を踏んで地面に降り立った。昨夜、飛行機を譲る話をした時から浮かべていた戸惑いの表情が消えて、胸のうちから溢れ出したような笑顔が取って代わっている。
「気に入ったか?」
自分の顔を下から見上げるカタリナに、笑顔を返しながら問う。彼女は一度だけ肯いて答える。額や鼻の頭に浮かぶ汗の粒まではっきり見えるような距離に耐えられなくなって、もう一度飛行機を見た。目を痛めるほどの陽光の中、忠実な機械はじっと旅立ちの時を待っている。

 エンジンに直結したクランクを必死で回すと、眩暈がして倒れそうになった。あっという間に顔も背中も腕も脚も汗だらけだ。プロペラが回りだすと、クランクを手に滑走路の脇へと退く。何度も何度も礼を言って操縦席に乗りこんだカタリナが、今はこちらを見て片手を上げている。ゴーグルの下には、今も満面の笑みがあるのだろう。大きく手を振って応えると、パイロットはひとつ頷いて顔を前に向けた。もはや彼女の頭には、空の事以外何もあるまい。飛行機はゆっくりと動き出し、やがて疾走に移る。滑走路の先へ向かって小さくなり、いつのまにか宙に浮かんでいる。カタリナはそのまま飛び去らずに、二度三度と滑走路の上を旋回した。アンリは目を細めながらも、彼女が遂に旋回をやめて飛び去っていくまで、飛行機が完全に見えなくなってしまうまで、手を振って見守り続けた。

 なんだか静かな疲れが、体の上にのしかかってきていた。重い足取りで部屋に戻る途中、もう一度空を見上げる。
「二十万ダラッドだぜ、忘れるなよ」
そう呟きながらも、金のことはどうでもいいことはわかっていた。
 誰もいない静かな部屋は、明る過ぎる屋外になれた目には暗く感じた。キッチンに行きナイフでパンとチーズを薄く切り、ミルクをカップに注ぐ。開け放たれた窓から、どこまでも広がる空を見上げる。食事を済ませたら、風の通る部屋で涼しくなるまで仮眠する事にしよう。できれば夢など見ずに、ぐっすりと。

 了


noteに最初にアップした版


この記事が参加している募集

スキしてみて

もしサポートいただけたら、創作のモチベーションになります。 よろしくお願いいたします。