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七つのロータス 第57章 パーラIV

 第1章から

 会議の間の壇は謁見の間の壇ほど高くはないから、人々を見下ろしている感じはしない。参議の資格を持つ高官たちが難しい話を続けている間、パーラは兄の姿に視線を注いでいた。オランエとはもう何日も、話すらしていなかった。今も時折視線をパーラに向けることはあるが、すぐに目を逸らしてしまう。パーラは高い壇の上で冷たい空気に包まれて、身の置き所がない心地だった。ほかにもてきにんしゃがあったのではな いのか。誰かの言葉が耳に届くが、何を言っているのかはほとんど理解できない。さいすしょうぐんわ、わかいけれどゆうのうでけいけんほうふなぶしょうだ。 けしてふてきにんというわけではなかろう。
 不意に恐怖が背骨を伝わった。誰かが自分に意見を求めたらどうしよう!なんの話をしているのか、しっかり聞いておかなくちゃ。
「しかしながら自宅にて処分を待つ身であった筈だ」
ええと、今の発言は大法官のウルウ。それで誰のことを話しているの?
「しかしながら、サイス将軍が見事に帝都を守り抜いたのもまた事実。さかのぼれば、確かに多くの犠牲を払ったとは言え、サッラを守り抜いたのも事実。弾劾の動議はありましたが、御前会議で処罰が定まっていたわけでもない」
反論したのは近衛将軍のゴウイイ。サイス将軍の弾劾を言い出したのはウルウだから、あてこすりを言っているのね。そうか今はサイス将軍の話をしているんだ。二人の間に走った殺気が、パーラが思考を手繰る手助けをする。
「近衛将軍。あなただって適任者だった筈だ。あなたは何故、帝都を守る栄誉に与ろうとしなかったのだ」
「精鋭を率いて陛下をお側でお守りする役割がありました」
二人の高官の間で、冷たいやりとりが交わされる。他のひとたちは何を考えているんだろうか。
 論戦のさなか、書記の声がサイス将軍の入室を告げた。人々の視線が集まる入口から、軍装を解いたばかりのサイスが姿を現す。議論が途切れて静まった部屋の中を、サイスは不機嫌な顔で見まわしてから皇帝の向かいの最前列に腰を降ろした。
「議論を続けましょう」
オランエが促すと、ウルウは気まずそうにしながらも言葉を続ける。
「とにかく処分保留となっていた人物を、我々になんのことわりもなく、帝国の命運を賭けた戦いの指揮官に抜擢する。これは我々、長年にわたって帝国を支えてきた者に対する軽視のあらわれです。確かにかつての摂政殿下は、その力量を軍事でも治水でも民政でも縦横に発揮しておられた。だが復帰するまでの八年間、皇宮から、いや帝都からも離れ、宗教的な生活を送っておられたのです。その方に現在のまつりごとがどうなっているのか、わかる筈がない」
ウルウの標的は兄さまだったんだ。そう察すると、パーラの体に震えが走った。兄さま、どうするの?目をやるとオランエは厳しい顔のまま、議場の一人に視線を向けている。今発言しているのは、ジャイヌ派だった参議だ。
「サイス将軍が帝都を護り通したと言われた方があったが、帝都の護りと頼む兵の半分近くを失ったのも事実。その結果、謀反人のスカンダルを追撃することがかなわなかった。謹慎を解いてまで抜擢した結果がこれでは、やはり摂政殿下の判断力を疑われても仕方がないのではないですか」
もう意図を隠そうともしていない。矛先ははっきりとオランエに向けられている。どうしよう。縋るような気持ちでティビュブロスを見るけれど、皇帝の相談役もまた黙って厳しい表情を浮かべているばかり。なにか有効な反論をしようという気配は見せていない。パーラは胸の潰れる思いで、ただ議論の成り行きを見つめるしかない。
 何人かの旧ジャイヌ派の参議が、オランエを非難する言葉を述べた後で、かつての反ジャイヌ派の領袖、ネ・ピアが発言を求めた。パーラの目には、最高齢の参議であるティビュブロスと変わらない老人に見える。
「この場に居られる皆さんにお聞きしたい。今、この場には帝都とその周辺、そう、この場に参ずることのできる場所にいた、参議の資格を持った者はほとんど揃っている。それではここで周りを見渡してみられたい。サイス将軍に代わって指揮杖を持つことがあったかも知れない人がいたとすれば、必ずこの場にいる筈。ではサイス将軍ではなく自分こそが指揮杖を持つにふさわしかった、と躊躇無く言える方はございますか?任されれば立派にやり遂げた、というのではなく、実績や格から言って自分でなければおかしい、と言いきれる方は」
誰も応える者はない。
「そのような言い様をされて、名乗り出られる者はおるまい」
ウルウが苦々しげに反論する。
「それだけでしょうか」
それを受けて発言したのはハジャルゴだ。
「皆さん、よく考えていただきたい。この場にいる中で、最も多く戦闘を経験しているのが誰か。一軍を越える兵力を指揮したことのあるのは誰か。帝国の統一以来平和が続き、帝国本土が外敵に荒らされることはなかった。唯一の例外はあのエダ戦役だが、あの時総指揮を取ったのは亡きオソリオ征服帝であらせた。そしてあの戦役で一軍を任された方々は、ほとんどこの場にはおられない。帝都を離れた場所で、太守や将軍としての努めを果たしておられる」
何人かの目がオランエに注がれた。戦役の途中で将軍になったオランエが、この場で唯ひとりエダ戦役で一軍を率いた経験の持ち主だった。
「であれば最も危険だと言われる征北軍で、長年五百人隊長を務め、帝国一の武将とも言われるパーバティ将軍の戦い方を学び、サッラでは五千の兵を率いて草原の民と戦ったサイス将軍の経験は飛び抜けているのは明白。若くとも軍事の経験で言えば、摂政殿下や近衛将軍ですら及ばないと言えるでしょう」
雰囲気の変化はパーラにも感じられた。パーラは兄の顔が少し緩むのを目にして、体から力が抜けて行くような安堵を感じた。

 パーラは乳母と真珠を従えて、控えの間に退いていた。今日も兄さまと話すことができなかった。椅子に深くかけ、背の高い銅杯で甘くて冷たい水を一口飲む。爽やかな果物の匂いが、口から鼻へと抜けて行く。それでも気持ちは晴れない。ひとつ小さな溜息が漏れた。
「お疲れですね」
乳母のアムが言いながら、腕を揉んでくれた。体から無駄な力が抜けてゆくのが心地よい。疲れにそっと目を閉じると、またもや兄に顧みられない寂しさがこみ上げて、もう一度深い息を吐いた。
 女官の声が神官長の来訪を告げる。顔を上げると、取次の女官が長い衣を宙に引きながら近づいてきた。
「神官長は私的な訪問なので、謁見の間ではない部屋でお目にかかりたい、と」
「わかりました。こちらにお通しして」
女官が入ってきた時と同じように戻ってゆくと、二人の侍女を従えてスカイアが現れた。
「ごきげんよう。お久しぶりですね」
言いながら近づくスカイアを、パーラは立ちあがって迎える。
「叔母さまもお変わりないようで」
「あなたはずいぶんとお辛そうね」
スカイアは近づく歩みを止めない。あっと思う間に、幾重にも重なる白い衣に包まれていた。
「叔母さま…?」
「あなたの気持ちは分かっています」
スカイアはそう言って、抱擁する腕に力を込めた。
「今だけは我慢をやめてもいいのですよ」
戸惑いから抜け出すと、涙が滲んだ。
「叔母さま…」
涙は止まらず、目から溢れ出してはスカイアの衣を濡らす。こどもがあやされるように優しく揺さぶられながら、パーラは嗚咽した。
「あたし、皇帝になんかなりたくなかった。まつりごとなんかなにもわからないのに、無理やり皇帝にさせられて。もう駄目です。おかしくなってしまいそうです」
一度口を開けば、言葉は思いがけぬほど激しくほとばしり出る。
「お兄様が助けてくれているでしょう?」
「兄さまは政治のことで手一杯で、何日も会って話をしていません」
「すべてあなたを護る為よ。それに、いくさが始まってしまったから」
「違うんです!その前から、兄さまはあたしのことなんか、気にもとめてくれてなかったんです。それどころか、あたしのこと避けて……」
涙が喉の奥に詰まって、言葉が途切れた。
「そんなことはないでしょう?」
パーラは激しく首を振る。
「だって、だってわかるんです。あたしが会いに行くと迷惑そうにするし、それに…、それに…」
「それに?」
言葉をつまらせたパーラを、スカイアが促す。
「あたしのことうるさがって邪険にするくせに、夜には毎日遊女を部屋に呼んでるんです。兄さま、そんなひとじゃなかったのに」
パーラはいっそう激しく泣き喚き、膝から床に崩れ落ちた。スカイアは姪をかばうように、抱きしめたまま座りこんだ。
「誰か女官からでも聞いたの?」
パーラはひとつ頷く。
「あなたが一番傷ついているのは、そのことね」
パーラは身を震わせながら、激しく頷く。
「でも仕方ないのよ。男の人には慰めが必要なの。一生懸命働けば働くほどね」
スカイアは胸に顔をうずめるパーラの頭を、優しく撫で続ける。
「なんで…、なんでそんなこと言うんですか?それじゃ黙ってみてろって言うんですか」
「ううん、そうじゃないの。お兄様にね、素敵なお嫁さんを見つけてあげればいいのよ。根が真面目なひとだから、そうすれば遊女なんかには目もくれなくなるわ」
 皇帝はいつしか床にうつぶせに身を横たえるようにして、神官長の膝に頭を預けていた。神官長は皇帝を静かにゆすりあるいは撫でて、気を鎮めようとしていた。あらかじめスカイアは人払いをさせていたのだろう。部屋の中には誰もおらず、ただ虫の声だけが部屋を満たしている。
「叔母さま」
黙って長い間ただそうしていた後で、パーラが口を開いた。
「あたしじゃ駄目なんでしょうか」
「何が?」
「兄さまをお慰めするの」
スカイアの手が止まる。ひとつふたつ数えることのできるほどの間の後で、スカイアは軽い笑い声をあげた。
「言葉の使い方を考えなさい。驚くじゃない」
パーラにはその言葉の意味がわからなかった。ただ黙って見返す表情で、スカイアもそれを悟ったのだろう。
「純なのね」
そう言って、もう一度笑った。
 スカイアの手が、またパーラの髪を撫ではじめる。
「あなたはお兄様に優しくしてほしいんでしょう。それじゃ無理よ。自分が辛い時に人に優しくするのは難しいものなの。かえってお兄様を苦しめることになるわ」
一語一語を選ぶような口調。
「あたしは兄さまに会わないほうがいいんですか?」
「会うのはいいわ。でもあなたが落ち着いている時にね。あなたの苦しみを、お兄様のところへ持ちこんでは駄目よ」
「じゃあ、あたしの苦しみはどうしたらいいんですか!」
スカイアはパーラの上体を引き起こすと、鼻先が触れ合うほど顔を近づけて目をのぞきこんだ。
「辛いことはわたしが聞いてあげる。できるだけ顔を出すようにするから、その時に吐き出してしまいなさい」
スカイアは言いながら、姪を力いっぱい抱きしめた。
「わたしはあなたの味方。なにがあってもね」
パーラは叔母の腕に抱かれながら、大きく頷いた。

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