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イスラエル建国前のパレスタイン、1880年から1948年までの土地所有事情

イスラエルはユダヤ人移民が武力でアラブ人の土地を奪って出来た国という嘘を暴く

先日Xでどなたかに紹介されたこの論文LAND OWNERSHIP IN PALESTINE, 1880–1948。ここではイスラエル建国前、パレスタインという土地における土地所有事情に関する情報が詳しく説明されているのでこちらでかいつまんでご紹介したいと思う。

イスラエルは第二次世界大戦前後に欧州から大量に移住してきたシオニストがパレスチナ国民を武力で追い出してイスラエル国をアラブ諸国の真ん中に力づくで建設してしまったと言う説があるが、これはすべての面で真実ではない。

ユダヤ人がパレスタインで得た土地はすべて合法に購入したものか国連によって授与されたものである。イスラエルは地元アラブ人の土地を武力で奪ったことはない。ではここで次の点をはっきりさせておこう。

  • パレスチナ国もパレスチナ民族も存在したことがない。

  • シオニストのパレスタイン大量移住が始まったのは第一次世界大戦以前、19世紀後期のことである。

  • イスラエル建国当時のパレスタイン在住アラブ人の殆どは先祖代々そこに居た人々ではなく、20世紀になってから近隣アラブ諸国からの移住者かその子供達だった。

  • ユダヤ人による土地獲得はすべて合法に行われた。

  • 独立国創設は国連によってイスラエルとパレスチナ双方に授与されたが、パレスチナは拒否した。

読者諸氏もご存じのようにパレスタインという地域は18世紀オスマントルコの領土だった。トルコ土地登記法が出来る1865年以前は土地の所有権は公式ではなく伝統的な取り決めでされており、その線引きを巡って部族間での争いは絶えなかった。

平民の生活は貧しく税金も高かったため、農民は安定を求めて自分らの土地所有権を裕福な大地主に譲渡し小作人になるか、イスラム教基金に譲渡し安全の確保を得るかしていた。つまり、パレスタインの土地所有者はほとんどがパレスタイン外に住む大地主たちか、政府所有の公有地だったのだ。

パレスタインの殆どの土地は未開拓の荒れ地であり、人々の暮らしは貧しかった。小作人への年貢は高く、しかも収穫時には遊牧民のベドウィン族やシークらの賊に襲撃され収穫物をごっそり持っていかれるという繰り返し。誤った灌漑のせいでマラリアが発生。衛生上に非常に汚い場所だった。なのでパレスタインは人口も希薄でほぼ過疎状態だった。

それが変わったのがユダヤ人の移住である。もともとパレスタインにはユダヤ人も多少は暮らしていたが、大量にユダヤ人が入ってきたのは19世紀後期から20世紀初期である。しかも最初のユダヤ人移民は欧州人ではなく人口が過密になってきた旧エルサレムから来たユダヤ人だった。1910年当時のブリタニカ百科事典によるとエルサレムの総人口は6万人でなんとその4万人がユダヤ人だったとある。

1878年、Petah Tikvaという村がパレスタイン最初のユダヤ人集落と言われている。四年後ロシアからの移民が集団で移住してきて、その後立て続けに多くのユダヤ人が移住してきた。ユダヤ人は主に圏外の大地主から土地を購入。また小作人も住んでいない荒れ地などを購入した。

圏外アラブ地主にしてみれば、どうしようもない荒れ地をユダヤ人が買うというのだからこんなおいしい話に乗らないてはない。

ユダヤ人が購入した土地は未開拓の荒れ地だったが、ユダヤ人の持ち込んだ高度な技術のため肥沃な土地へと変化。地元のアラブ農家もその技術を取り入れてパレスタインは豊かな土地へと変わっていった。ユダヤ人は1880年から1935年までパレスタインの土地を買い続けた。あまりにも多くのユダヤ人が土地購入を始めたため、パレスタインではある種の不動産ブームが起き、パレスタインの経済が豊かになっていった。

もちろん地主が土地を売った場合にはアラブ小作人は立ち退きを余儀なくされた。しかしその場合1922の開拓法により一年間の猶予を与え立退料の支払いが義務付けられていた。しかしユダヤ人は規定より高い金額を払っていた。

ユダヤ人の土地購買や開拓によりパレスタインの経済は繁栄する。それと共に近隣アラブ諸国からの移民が殺到する。パレスタインに関するイギリス王室審査会調査書によると、それまでは外に移住する率が多かったパレスタインに移入民が増え始めた。 特に第一次世界大戦後1920から1936年まで違法移民も増える。この間違法合法を含め6万から10万人が移住してきたと思われる。

もうひとつアラブ人口が激増した理由は自然な出生である。これはユダヤ人によってもたらされた衛生向上のため幼児の死亡率が減ったことが原因だ。これによりユダヤ人の人口が多い地域ほどアラブ人が増えるという面白い現象が生まれた。1922年から1929年だけでなんとアラブ人口は75%も増加した。

さて、これもよく言われることなのだが、イスラエル建国当時1948年、パレスタインの土地の95%の所有権をアラブ人が持っていたという説だが、これも非常に疑わしい。

イスラエル建国に際してリーグオブネイション(国連の前衛)によってイスラエル国に割り当てられた土地の8.6%がユダヤ人が、3.3%はイスラエルアラブ人が所有していた。そのうちの16.9%はアラブ人が第一次中東戦争直前に戦争に巻き込まれるのを恐れて捨てて行った土地である。そして残りの70%はイスラエル国の公有地となった。しかもこの70%の大部分が無人かほぼ無人の土地であり、元々はトルコ政府からイスラエル政府へと引き継がれたものだ。

これらの土地はアラブ人農家の所有地だったことはなく、イギリス領でもなかったのだ。だからアラブ人が95%の土地を所有していたというのは全くの嘘だと言うことがわかる。

実をいうと私はこの95%というのを別な解釈をしていた。もともとパレスタインには私有地が少なかった。パレスタインの私有地のほとんどは圏外アラブ人地主が所有していた。だから非常に少ない私有地の95%をもしアラブ人が所有していたとしても、全体から言ったら大した広さではない。なんにしろアラブ連合軍が戦争に勝ったら帰ってこれる思って自発的に土地を捨てた以上、帰ってこれなくなったからと言って文句を言っても今更遅い。

ところでパレスチナ難民がよく言う「帰還の権利」だが、そんなものをイスラエルが認められるはずがない。イスラエル国民となることを受け入れず勝手に出ていった人々を何故イスラエルが受け入れる義理があるだろうか?しかも彼らはイスラエルに対する敵対心丸出しである。こんな人々を受け入れた国内で何をされるか解ったものではない。

というわけで、イスラエル建国前のパレスタインの状況がどんなものだったのか、多少はご理解いただけたと思う。元の論文はもっと詳細にわたり非常に長いので、ここでは重要な点だけを選りすぐってご紹介した。





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