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今日の70歳#39 羽二重団子を食べて、芋坂てくてく

日暮里での講評会に参加したあと、小雨降る中を、漱石の「吾輩は猫である」にも登場する羽二重団子を食べに行きました。

店のホームページによると、その由来は・・・

文政二年、小店の初代庄五郎が、ここ音無川のほとり芋坂の現在地に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しました。この団子が、きめ細かく羽二重のようだと賞され、それがそのまま菓名となって、いつしか商号も「羽二重団子」となりました。こうして創業以来六代百八十年、今も江戸の風味と面影をうけ継いでいるのでございます。

さて、美味しくいただいた後は、店の横の「芋坂」を歩いてみることにしました。

おっと、行き止まりです。谷中方面へ延びる芋坂は、現在、JRに分断されています。

でも、大丈夫。ご覧のとおり、跨線橋ができています。

跨線橋の下には、児童公園がありました。

すぐ横は線路。電車好きな子供が喜びそうな公園です。

山手線?
京浜東北線?

この日はあいにくのお天気で、誰もいなかったので、私ひとり。のんびり、ひと回りしました。

おっと、こんなところに、オオタニ!?が(笑)

ブランコと滑り台もあります。

さきほど羽二重団子をいただいた店のホームページには、次のように書かれ、彰義隊士の残した小刀の画像も載っています。少しだけ、歴史に思いを馳せてみましょう。

慶應4年、戊辰戦争で敗走した彼らは、芋坂を駆け下り、当店に闖入。刀、槍を縁の下に投げ入れ、百姓の野良着に変装して、日光奥羽方面へ落ち延びた。

芋坂は荒川区と台東区にまたがっていますが、さて、ここからは台東区。

坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺へ通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が「芋坂跨線橋」と名付られて,わずかにその名を残している。
 坂名は 伝承によると,この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石,田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。
    芋坂も団子も月のゆかりかな  子規

墓地を通って、谷中方面へてくてくと・・・。

歩いた距離はさほどではありませんでしたが、ものすごく蒸し暑く、最後は冷たいものでひと休みしてから家路へ向かいました。


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