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二桁背番号の夏

夏の甲子園の地方大会が始まりましたね。

何年も前に書いた記事をこんな時期なのでノートにアップしてみました



もう成人したうちのふたりの息子たちも中学、高校と6年間、野球部におったんです。
3つ違いで、それ以前に地域のソフトボールも行ってたから結局わしら10年ぐらい球児の親をやってたわけですわ。
ま、大変なんは、ユニホームの洗濯、弁当作り、水筒の準備に明け暮れる母親の方なんやけどね。

ソフトボール時代は、たまに観に行っても活躍してくれて、けっこうおもしろかったですね。

なんちゅうても可愛いしね。

でも、中学、高校時代は厳しいですもんね、とうとうふたりとも1度もレギュラーにはなれんかったなぁ。チームの秘密兵器として、ベンチに控える事が多かった。

もともと、どーんクサイ上にキャッチボールとか始める年齢が遅かったもんなぁ。

92年に亀山、新庄の大活躍で、阪神が優勝争いを久しぶりにした年にワタクシが初めて一生懸命テレビなんか見たもんやから、その影響で野球に興味を持ったんやけど、お兄ちゃんはもう、5年生、弟くんは2年生やったもんなぁ。(言い訳?)
そうか、阪神がもうちょい前から強かったら、うちの子の野球人生も、もうちょっと輝かしいもんになっとったっちゅう事か・・・・・・・・んな訳ないわ!

練習試合にはチラホラ出番があるものの、公式戦となると、やっぱりなかなかお呼びがかかりません。たまーに観に行った時に代打なんかで登場したらわたしゃ超ドキドキやったですもんね。レギュラーで出てる子の親は毎回こんなしんどいドキドキを経験せなあかんのかいな・・・と同情してしまったほどです。

お兄ちゃんの高三最後の試合、その日も二桁の背番号つけて、1塁のランナーコーチボックスに立ち続けてました。

ほとんど試合の結果が決まりかけた9回最後の攻撃も2アウトランナーなし。

なんと代打に「じんぼくん」が場内アナウンスで告げられた。またまた、始
まる親の超ドキドキ。たぶん、本人以上。

緊張の中、相手投手の第一球。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんとワンバウンドして息子の足にデッドボール!。あっちゃぁー・・・(ピッチャー、なにビビっとんねん?)


1回もバットを振る事なく終わった最後の試合やったけど、あとで聞いたら、やっぱりあそこは「アウトにならんかった」という事が嬉しかったらしい。

・・・そういうもんなんか・・・と
納得したり、ほっとしたり、ちょっと残念やったり・・・。



弟くんの方の最後の試合は仕事で観に行けんかったけど、なんと地元のケーブルTVが生中継したので(野球っちゅうスポーツはこういうところ恵まれとるね)店でお客さんの相手をしながらチラチラとテレビ観戦。

こいつもやはり、二桁背番号つけて、ランナーコーチに立ち続けてる。

兄弟仲良くおんなじ仕事任されとる。

試合も終盤に差し掛かった頃
こいつはどういう訳かランナーサードというけっこうなチャンスで代打に使うてもろた。

初球(またかいっ!ええ場面ひっぱるっちゅうことのできん子らやな。)
おもいきりバットを振った打球はなんと、どん詰まりのサードゴロ。

万事休す・・・の場面で相手の三塁手が何をあせったかホームに悪送球して、バッターはホイホイと三塁まで進んでしもた。もちろん記録はエラーやけど、形の上ではタイムリー三塁打!

アナウンサーが「じんぼくんはラッキーボーイ、ラッキーボーイ」いうて何回言うたやろ。ラッキーも実力のうちじゃいっ!・・・・い、いや実力はぼてぼてのサードゴロ・・・・


・・・ということでチームの秘密兵器は二人とも、とうとう最後までその実力を秘密にされたまま、野球少年を卒業したのでありました。

ふたりともこの時期を思い出す時、きっと苦ーいもんがこみ上げて来るんやろけど、・・・
こんな経験、大人になってからでは、なんぼお金出しても絶対できひんからね。


最後までやり抜いたっちゅう事実が「宝物」・・・やで。
野球部で苦労した時代を「ええ思い出」にできた頃、こいつらもちょっとオトナになるんやろなーとオトンは思っておりますねん。


テレビで高校野球やってたら是非、二桁の背番号をつけた選手たちにも注目して、応援してやってくださいね。

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