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『内臓とこころ』を読む。3

胃感覚について考えていたら、またまた道草をしてしまった。
目的地にはなかなか辿り着けない。
でも、道草は楽しい。
目的地はずーっと遠くにあればいい。
道草にはその方が似合っている。
その間は、道草し放題だから、目的地の概念は頭から外した方がいいのかもしれない。

しかし、目的地は、ここに。
はらわたの復興について書かれてあるページ、
生命記憶が書かれてあるページ、
内蔵された宇宙のリズム
大宇宙の宿された心臓について書かれてあるページ。
ここが目的地。

いままでの、
Ⅰー内臓感覚のなりたちは1楽章。
Ⅱ—内臓とこころは第2楽章で、
ここがこの本の中心部分、この本のまさに内臓だ。
今までの内臓感覚のお話は、体壁系の導入部分です。
果物に例えると皮のところかな。
皮もおいしいけれど。

三木さんは、この2楽章から始まる「心と宇宙の交流」は人類にとっての永遠の課題であって、内臓感覚は、これから始まる内臓と宇宙のリズムにとっての伏線だと強調している。

大事なのはこれから。

*

1  内臓波動---食と性の宇宙のリズム という出だしから気になる箇所が出てきた。

 では、はじめにこの胃袋でおわかりのように『内臓と宇宙』の関係を考えてみようと思います。それはひとことでいえば宇宙が内蔵されることですが、こうした内臓とは、じつは”植物”の姿にほかならないのです。プリントを読みますーーーー。
「すべての生物は太陽系の諸周期と歩調をあわせて『食と性』の位相を交代させる。動物では、この主役を演ずる内臓諸器官のなかに、宇宙リズムと呼応して波を打つ植物の機能が宿されている。原初の生命球が”生きた衛星”といわれ、内臓が体内に封入された小宇宙と呼びならわされるゆえんである。」

『内臓とこころ』三木茂夫著 p.63
ゴシック体太字は感想文の筆者

内蔵された宇宙は植物の姿をしている。。。(三木茂夫さんは、さりげなくそうおっしゃっている。)
その植物の姿をした私の内臓が、宇宙と呼応してる。

また、別のページ(p.76)では、宇宙のリズムがもっとも純粋な形で宿るところがこの内臓だとある。

〈太陽系、宇宙のリズム、生命球、位相の交代、生きた衛星〉という好奇心を刺激する言葉たちの中でも、〈植物の姿をした内臓〉という文字が心にひっかかってくる。

人の中にある〈植物器官=内臓〉という、初めて出会う公式にビックリしている
動物としての人の身体の中に、植物の世界に通じる器官があるという不思議さに捉えられてしまう。


                         『内臓とこころ』三木茂夫著 p.81
十数年の解剖の結果の原形がこの図だそうです。羽織を作ったら、紋を入れたらいい(笑い)とあって、ほんとに紋みたいです。p.82
                           『内臓とこころ』三木茂夫著 p.85


最近、図書館で何気なく取って読んだ本の中に、交差する動物と植物について書かれた、印象深くて、美しい文章を見つけた。

その、スペインの小説家の書いた『ビルバオ—ニューヨーク―ビルバオ』(キルメン・ウリベ著、金子奈美訳 白水社)の冒頭部分は、このように始まっている。

 1 ビルバオ
 
 魚と樹は似ている。
 どちらも輪をもっている。樹のもつ輪は幹のなかにできる。樹を水平に切ってみれば、そこに年輪が現われる。一つの輪は一年の経過を表し、それを数えていくと樹齢を知ることができる。魚も輪をもっているが、それは鱗にある。樹と同じように、それを数えることで魚が何年生きたかがわかるのだ。
 魚はつねに成長し続ける。僕らは違う、僕らは成熟してから小さくなっていく。僕らの成長は止まり。骨は繋がり始める。身体は縮んでいく。けれども、魚は死ぬまで成長し続ける。幼い頃は急速に、年を経るごとにだんだんゆっくりと、だが成長が止まることはない。だから、鱗に輪ができるのだ。
 魚のもつ輪は冬にできる。冬は魚があまりものを食べなくなる季節で、成長の速度も落ちるので、その時期の飢えが鱗に黒い徴を残すのだ。魚は飢えることがないので、鱗には何も跡が残らない。
 魚のもつ輪は、肉眼ではみえないけれども、たしかにそこにある。あたかも傷跡のように。きれいに閉じなかった傷跡だ。
 そして魚がもつ輪のように、つらい出来事は僕らの記憶のなかの留まって、僕らの人生に徴を残していき、ついには僕らにとっての時間の尺度となる。逆に幸せだった日々は、足早に、あまりにも足早に過ぎ去り、すぐに記憶から消え去ってしまう。
 魚にとっての冬は、人にとっての喪失だ。喪失は僕らの時間に区切りをもたらす。ある関係の終わり、愛する人の死。
 一つひとつの喪失は、僕らの内面に残された黒い輪だ。 

『ビルバオ—ニューヨーク―ビルバオ』キルメン・ウリベ著 金子奈美訳 白水社


魚と樹は似ている。
この短い最初の一行にくぎ付けになった。
後は、読まずにはいられない。
見事な書き出しと、一つひとつの喪失は、僕らの内面に残された黒い輪だ、という見事な締めくくり。

閉じられた本という身体に内蔵された文字は、文字という臓器だ。
文字という感覚の臓器だ。

植物と動物が交わるところに年輪がある。
うろこがある。
魚_____動物
樹_____植物
という図式だけでは測ることが出来ないものがこの冒頭の文章から溢れている。
溢れ出てくるものを拾い集めると、
その中に宇宙のリズムも見つかるだろうか。

『ビルバオ—ニューヨークービルバオ』
キルメン・ウリベ著
金子奈美訳
白水社

以前、百日草の花のガクの部分が、きれいな青海波になっているのに目を見張ったことがある。青海波はまるでうろこだ。デザインされた2重3重になっている青海波の波はうろこの年輪だ。

                     百日草の花


この『ビルバオ—ニューヨークービルバオ』の一行目ように、似ているものを探してみると面白いので、いろいろと考えてみた時期がある。それで、この本を手に取った時、一行目にハッとし、読みだしてまた、文章の美しさに惹かれ、ハッとした。


わたしの〈似ているもの〉の一覧

・ 百日草の花とうろこ 

花にもうろこがある。百日草に限らず、花びらは、うろこが幾通りにも変形して現れたもののようだ。菊の花びら、マーガレット、裏の庭に咲く青いポンポン花だってそうだ。うろこは生命の記号のようだし、生命の皮膚だ。

・ 桃と鯖 (桃の果皮にある模様と鯖の体の模様)

桃の細胞と鯖の細胞の記憶。それぞれの生命の記憶が交差しているところに、よく似た模様が現われているのだろうか。。。

・ トマトの果肉と人の口腔内
・ アロエと恐竜

           台所で簡単にできるアロエの恐竜


・ アロエとタコ
・ 波と肉(スーパーで売っている)

地球の身体の一部でもある、あるいは表皮でもある波とスーパーの白い容器に入っている肉。何か似ている。打ち寄せる波の姿に太古の記憶が眠っているとしたら、あちらこちらにその痕跡が残されているとしたら、この組み合わせが似ていても不思議ではない。

そう思えば、サルの腎臓がヒマラヤ山脈に似ているというのも、どの本だったか思い出せないけど、読んだ記憶がある。これも気になる類似する組み合わせだ。

・ 下顎に力を入れるとできる皮膚の感じと梅干しの種
・ 人のおでことカメの甲羅
・ カメムシのような甲虫と人の後ろ姿

こうなってくると、組み合わせはどんどん暴走してくる。
頭の中で、色々なモノたちがすれ違っていくのが面白いけど、また、目的地が遠のいていく。追いかけよう。


        

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