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悲しい曲、泣けてくる歌について。


わたしが、悲しい曲だなと思うのは次の3つです。

①  ピアノ協奏曲 no23 イ長調 K.488 第2楽章(モーツァルト)


この曲を聴いていると、ただただ、悲しみが流れ込んできます。向こうの音楽という建物から、悲しみが廊下を渡ってやってくる。圧倒的な悲しみ。身体の中に、悲しみの通路が張り巡らされるような感じがあります。イ長調の悲しみ。音の配列、順列組み合わせで、感情が動いてしまう音楽の不思議さ。泣いている息づかい、涙が収まる瞬間まで伝わって来ます。

まだ、Eテレじゃなかった頃の番組「ピアノで名曲を ~バッハからプロコフィエフまで~」の楽譜を見ていると、作品の理解のための解説にはこう書かれてあります。

・・・
 そしていつものように、モーツァルトの光に満ち
た悲しみには、幼子のような清らかさがある。ドイ
ツの大詩人リルケの言葉がおのずから思い起こされ
る。「詩人は大人のなかにいる子供」これほどモー
ツァルトにふさわしい言葉はないだろう。
           作品理解のために—ヴェーラ・ゴルノスターエヴァ 

モーツァルトの悲しみを〈疾走する悲しみ〉と表現したのは、文芸評論家の
小林秀雄ですが、幼い子供が泣いて、何かのきっかけですぐ機嫌を直し、涙のことなどすっかり忘れて、元気に笑っているような、切りかえの早い悲しみなのではないかと思います。切りかえが早いから、泣くときは思いっきり全身で泣いている、そういう悲しみの表情が伝わって来ます。

 小さな空 (武満徹 作詞、作曲)


この武満徹さんの曲も、子供の頃の懐かしい思いを歌っていて、なぜか、こころに沁みる曲です。次に歌詞を書いてみます。

青空見たら 綿のような雲
悲しみをのせて 飛んで行った
いたずらが過ぎて 叱られて泣いた
子供の頃を 憶いだした
夕空見たら 教会の窓の
ステンドグラスが 真赫に燃えた
いたずらが過ぎて 叱られて泣いた
子供の頃を 憶いだした
夜空を見たら 小さな星が
涙のように 光っていた
いたずらが過ぎて 叱られて泣いた
子供の頃を 憶いだした

                          

③ みかんの花咲く丘 (作詞・加藤省吾 作曲・海沼實)


みかんの花咲く丘に思い浮かぶイメージには、寒い地方で生産される林檎とは対照的な世界が広がっています。
みかんのなっている、丘陵地帯があって、眼下には海が見えている。しかも、外国に行くお船が行きかいしている。そして、気候は温暖で過ごし易い。お船を見ながらみかんを食べる光景がすぐ目に浮かんでくる。母さんもそばにいて、お昼は過ぎて、ゆったりした時間が流れている。そんなことを想像していました。

また、みかんの花咲く丘の歌詞を、次に書いてみます。

みかんの花が 咲いている
思い出の道 丘の道
はるかに見える 青い海
お船がとおく 霞んでる
黒い煙を はきながら
お船はどこへ 行くのでしょう
波に揺られて 島のかげ
汽笛がぼうと 鳴りました
何時か(いつ)か来た丘 母さんと
一緒に眺めた あの島よ
今日もひとりで 見ていると
やさしい母さん 思われる

しかし、ある時、この3番目の歌詞にギョッとすることになります。

最後の〈思われる〉やさしい母さんは、ここにはいない母さんなのだということに気がついて、動揺してしまう。そして、何時か一緒に来て、島を眺めたここにはいない母さんのことを思い、涙が止まらなくなってしまう。何気なく歌っていた歌も、実は、こんなに悲しい歌だったんだと思うと、長調の明るいメロディが心に沁みて、ますます、イメージの丘陵地帯は明るい午後の光に満ちてキラキラしてくる。と、書いているうちに、また、泣けてきました。

3番目の歌詞の内容を理解して、ギョッとしたのは大人になってからだと思います。子供頃は、そんなことを考えもしないで、みかんのことばかり想像して歌っていたんだと思います。そしてまた、何時だったか、家で定期購読していた『家の光』という月刊誌に、藤原ていさんの巻頭エッセイがあって、同じ思いを綴られているので、共感したことがありました。

3つの悲しい歌や曲について考えていると、3つの共通点が思い浮かびました。どういうわけか、3つとも長調であること、幼い子供の頃の懐かしさが悲しみを増幅させるのではないかと思います。






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