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『内臓とこころ』を読む・1

『内臓とこころ』は、保育大学(「さくら・さくらんぼ保育園」(斎藤公子氏創設)での講演シリーズのこと)での講演が書籍化されたもので、解剖学者三木茂夫さんのはじめての著作だそうです。講演でのお話なので、本の中には、三木さんが語りかける聴衆(たぶん、保育園児のお母さんたち)がいて、その人たちの中に混じって、お話を聞いている感じがします。


膀胱感覚、口腔感覚


なにしろ、最初が、 膀胱感覚です。
     次に、 口腔感覚
     3番目は胃袋感覚で、
文章の中に混じっている(笑声)が、1ページ毎にあって、本の中から笑い声が聞こえてきます。「オシッコ」から導き出される「快」と「不快」の話(この、誰しも無関係ではない話!)に、内臓感覚が浮き彫りになってきます。
その、導き出されるお話はいろいろあるのですが、その中で、夢の中の禁尿感についてのページ(p.18)が面白い。(最初から最後までずーっと面白いのだけれど)

なんと、(笑声)を調べると4つもある。

ところで、禁尿感と書いたのは、今初めてだと驚いています。もちろん、禁尿感の意味は分かりますが、したらいけないとがまんする時の感覚(p.17)を、禁尿感という言葉で表現されると、なぜか、内臓感覚が整理整頓されて、ちゃんと浮かび上がってくるしかけになっている。言葉の凄さがそこにある!と感心してしまいます。

例えば、昔風の汲み取りトイレ(とは言わなくて、汲み取り便所)の夢について書かれていているところでは、

・・・・・(笑声)。それでやっと目がさめる。考えてみれば、膀胱の充満感が、ここまでデフォルメされるのです。つまり内臓感覚というのは全部これなんですね......。

『内臓とこころ』三木茂夫著 p.18
ゴシック体太字は筆者

とか、口腔感覚のところで、唇と舌について

この入口こそ、食物を取り込む、つまり毒物と栄養物とを選択する”触覚”に相当する場所だからです。いってみれば大切な秘密工場の厳重な守衛所ですね。プリントに、「これら突端部の構造は食物を選択する精巧無比の内臓触覚となる」とかいてあります。

『内臓とこころ』三木茂夫著 p.32
ゴシック体太字は筆者
  

など、言葉が縦横無尽に紙面を行ったり来たりしている。ほんとに、この辺り大好き。
唇と舌が触覚!、
しかも、精巧無比の!
本当にそうだな~と、三木さんの編み出す言葉にうなずいています。


内臓感覚のアウトラインが、三木さんの言葉で生き生きとデッサンされていく。


ただ、舌の筋肉だけは、さずがに鰓の筋肉。すなわち内蔵系ではなくて、体壁系の筋肉です。・・・・・われわれはよく「ノドからから手が出る」というでしょう。舌といえば、ノドの奥にはえた腕だと思えばいい。ただし感覚のほうは、体壁系の皮膚感覚とは違って、あくまでも内臓系の鰓の感覚ですよ。ですから舌というものは、内臓感覚が体壁運動で支えられたものだと思えばよいのです。

『内臓とこころ』三木茂夫著 p.34
ゴシック体太字は筆者

この、〈ノドの奥にはえた腕〉っていうのに、さらに驚いて。。。舌は腕だったんですね。そして、内臓系と体壁系のハイブリッドが舌だということですか?

皮膚感覚というと、『虫の墓場』という赤瀬川源平さんの小説を思い出します。自転車で街を走っていると、よく目に虫が入るので、目は虫にとって墓場であるというストーリーなのですが、これは体壁系の小説のような気がします。

私の場合、よく、胸のあいだに髪の毛が一本(2本ではなく1本)入って、靴の中の小石のように気になることが度々あります。胸と頭は近距離なので、入ってもおかしくはないのですが、なぜ、髪の毛一本くらいに動揺するんだと、不思議です。これは、体壁系の動揺でしょうか?

そう考えていくと、もう一つ、赤瀬川さんの小説に『出口』という面白い作品があります。これこそ内蔵系文学のような気がします。今、本を探し出して読んでみたら、やっぱり面白いので、少し書きだします。

 口を開ける。
 食物を入れる。
 口を閉じて、食物を飲み込む。
 食物は体内でゆっくりと渦を巻きながら、体内を少しずつ下降していく。
 いちばん下まで下降すると、そこにある穴から出ようとする。
 それが問題である。
 出ようとするのは自然のなりゆきだけれど、自然ではなく、
 ムリをして出ようとする場合が
ある。
 。。。。。

『出口』赤瀬川源平著 p.7


                              『出口』 尾辻克彦著 講談社

膀胱の不快な感覚


膀胱感覚の最後に、膀胱の不快な感覚について書かれています。
 

赤ちゃんを見ていますと、むずかる時はちゃんときまっている。おっぱいが足りない時、おしめが汚れた時、眠りが足りない時。じつにはっきりしています。・・・

『内臓とこころ』三木茂夫著 p.26

以前は、健康本ばかり読んでいて、友人からは夢がないなと言われていた時があるのですが、よく読んでいた岡嶋瑞徳さんの本の中にも、小さい子どもが、デパートの中などでやんちゃをして、床で寝て、ワンワン泣いている時は、まずトイレへ行っておしっこをするとおさまる、というようなことが書いてあって、やんちゃの原因が、〈おしっこ〉と無関係ではないという回答に、新鮮さを感じたのを思い出します。。

生育過程にある子どもは、赤ちゃんの時からおしっこで内臓の感受性を訓練はしているものの、まだ、未成熟だから、そんなときに、横から入るいろいろな雑音の方が、肝腎の正規の回路を塞いでしまって問題なんだと、三木さんは語りかけます。

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埴谷雄高の『臓器感覚』


何日か前に、兄の本を整理していた時、埴谷雄高作品集『随想集6』(河出書房新社)が、どういうわけか、2冊あるのに気がついた。配本される本には、本屋さんが間違ったのか、別の全集にも、同じ本が2冊ならんでいたりする。

随想集は読みやすそうだったので見ると、なんと、「臓器感覚」という文章がある。

結核で、大気療法という、窓を昼夜半分ほど開け放して療養生活を送っている時のことが書かれている。プルーストは喘息で、コルク部屋に閉じこもって、例の『失われた時を求めて』を書きつづけていたとある。開け放たれた病室密室としての病室を比較して、思いを綴られている。

息のしにくさと胃の不快な重さについての、落ち着いた静かな文章を読むと、不快と向き合うのは、苦痛だけじゃないような気がする。寝台の凹みと安楽のお話は、ほっとする。


                 『埴谷雄高作品集・随想集6』 埴谷雄高著 河出書房新社



不快はイキイキしている。
不快は新しい不安を連れてくるものの、
不快があるから、
不快が存在感を増強する。
信頼のおける不快。
内臓はこころ、そのもの。


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内臓感覚を鍛える

本日のテーマ= 内臓感覚を鍛える。そして、
体壁系は二の次で、まず植物器官と呼ばれてきた内臓に宿る宇宙のリズムと、全身に取り込まれた生命の記憶についてのお話は続いていく。

例として、卵巣が挙げられていて、


。。。まっ暗闇の腹腔の中に居ながら月齢だけはちゃんと知っている。。。こうなれば、もう卵巣そのものが一個の”天体”というよりない。小宇宙が内蔵される、とはこのことをいったのでしょう

『内臓とこころ』三木茂夫著 p.78
ゴシック体太字は筆者

とある。

えっ!私の身体の中には天体が!
三木さんの言葉がうぁんうぁんと唸っている。

この辺りで、本はボールペンやら、赤マジックやら、赤鉛筆やらで、ぐしゃぐしゃになってきました。。。

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