【神奈川のこと77】クリエイティビティの爆発だ =後編=(鎌倉市/西鎌倉小学校)

前編からの続き、つまり後編を書く。

昭和55年(1980年)、鎌倉市立西鎌倉小学校4年1組の時。
あの1年間は、忍野八海のごとく、クリエイティビティが湧き出し続けた。

ここでは、そのいくつかを記す。

<漫画家>
「ボク、ザエモン」というキャラクターを編み出して、クラスの新聞に四コマ漫画として掲載。藤子不二雄と長谷川町子から影響を受けた作品だ。
<編曲家>
クラス図書に「おさじさん」という絵本があった。その文章に山口百恵の「美・サイレント」のメロディーを乗せて編曲。相棒のナンリと共に披露。恐らく日本中どこを探しても、当時この発想は無かったはずだ。
<演出家・舞台監督>
クラスのお楽しみ会では、ウルトラマンの劇と歌謡ショーを自作自演、演出、監督として務めた。ゾフィーの役で十字架にはりつけられた。ゾフィーには敗北の美がある。それを表現した。そして、歌謡ショーでは、ヒロくんがせっかく覚えてきた財津和夫の Wake Up をサビしか歌わせない暴挙に出た。ヒロくんには悪いことをした。
<新聞発行者>
クラス新聞の発行主体者となり、四コマ漫画まで提供。ただ、教室内の張り出しは、掲示係を「刑事係」と勘違いしている連中に任せた。
<バスの運行時刻表作成者>
地元を走る京浜急行バスの架空の路線をいくつも考案し、その時刻表を精緻に作成。クラスのみんなの家の前にバスが停まるようにした。
<ゲームクリエイター>
ドラえもんゲームというすごろくを考案。元は、相棒のナンリと一緒に作った同名の歌がきっかけとなっている。歌が先にあって、それをゲーム化する。何て斬新なクリエイティビティだっただろう。今でも、同窓会でナンリと会えば、あいさつ代わりに「♪ドラえもんゲーム、ドラえもんゲーム♪」と一緒に歌うのだ。
<最強のめんこ職人・チェ―リング職人>
一時期、めんこが大流行りした。お気に入りの奴が破れかけたのでテープなどで修正する内に最強となっていった。自宅の畳のへりとの相性抜群で、何枚も勝ち取ったし、ひっくり返されず粘ってくれた。最後は誰かに取られてしまった。また、チェ―リングが大流行した時、休憩時間には男女入り乱れての狂喜乱舞。蛍光緑と無色透明を混ぜて、自分の手の大きさにちょうど合う、これまた最強の奴を製作。無敵を誇った。
<戦史家>
映画二百三高地に度肝を抜かれ、日清日露の大戦にまつわる本や漫画をよく読んだ。あの衝撃を超える映画にはいまだ出逢ってない。私にとっての乃木希典は仲代達矢そのものなのだ。主人公で少尉役のあおい輝彦が、あしたのジョーの声をやっていたことも、この時に知った。
<探検家>
鎌倉山の防空壕にタコ糸と懐中電灯の本格装備で挑んだ。ゲジゲジなんかが出てきてもへっちゃらであった。本当は、白骨化した死体を見つけるはずだった。
<音楽評論家>
モンキーズとザ・ベストテンに夢中であった。父が好きだった50'sの音楽も聴いていたから、当時のガキとしては、かなり広い音楽的趣向を持っていたと言える。もしかすると渋谷陽一も認める音楽評論家になっていたかもしれない。
<キャラクター収集家>
あしたのジョーや宇宙戦艦ヤマトのシールなんかをよく集めていた。師匠のイケムラに教わりながら。普段はイケムラをからかっていたが、実は、あの収集力を秘かに尊敬し、うらやましく思っていたのだ。
<政治家>
いわゆる一つの番長であったが、学級委員もやった。野球チームを作ったがあまりの強引なリーダーシップに、チームは2つに分裂し敵対。お互いのチームメンバーの引き抜き、裏切りなど、さながら政争の如く戦った。最後は力づくで、統治を試みた。あんなことはすべきでなかった。夫婦池より深く反省している。
<神父>
一応、毎週日曜は、夕方のミサに家族で通った。夕方のミサは人数が朝のそれに比べると少ないので、よく、神父の手伝いをした。信仰は厚くはなかったが、間違いなく教会の子であった。あのまま行けば、神学校に進学ということもあり得た。
<漫才師>
相棒のナンリは実に乗りの良い奴であった。3年で同じクラスになった時には、初めて目にするあいつの奇抜で自由な行動に「こんな奴がいるんだ」と興味津々であった。もし、真剣にナンリとのコンビを続けていたら、今頃は東京漫才界の、爆笑問題とナイツの中間に位置する存在になっていたかもしれないのだ。
<ミュージシャン>
そうじの時間は、ほうきをギターやマイク代わりにして、サザンオールスターズやツイストをやった。もちろん、モンキーズも歌った。雅夢の「愛はかげろう」は今でもカラオケのおはこだ。
<思想家>
学年の暴れん坊であったヒロキにケンカを売ってしまった後、友達を通じて謝ることで最悪の事態を避けた。それを見ていた担任の大串 ”石うすの歌” ツヨ子先生が、「びっくん、大人ね」と褒めてくれた。ああ、ウクライナ、香港、ウイグル、そしてミャンマーを救えたら。

どうだろうか。
なかなかのクリエイティビティではないだろうか。

翌年、昭和56年(1981年)、5年5組の一員となった辺りから、クリエイティビティの源泉から水が引き始める。担任の永田正美先生は、「末は博士か大臣か」と見事な毛筆で鼓舞してくれたが、それと反比例するかのように。

今週火曜の朝、いつものように通勤の横須賀線の車中で神奈川新聞を読んでいた。テレビ欄の下にある「きょうの運勢」にこう書かれていた。

創意工夫のしがいある日。新発想で試そう。

あまりの偶然に思わず笑った。

今朝、ラジオからは、セローニアス・マンクのクリエイティビティ溢れるピアノの演奏が聴こえている。朝陽を浴びながら、冷たく澄んだ空気で深呼吸する。気持ちのいい朝だ。

創意工夫、ソーイ・クフー、蒼郁風。

まんざらでもないか。

42年ぶりに一丁、やってみるとするか。
まずは、みなとみらいの kino cinemaで映画を観てから考える。



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