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【神奈川のこと91】ファミリーヒストリー(相州鎌倉御用邸前通り&横浜市中区山手町)

あれから150年が経った。

よって、これを書く。

明治5年(1872年)3月下旬。
一人の男が当時の英国領アイルランドから、日本にやってきた。
愛する家族を祖国に残し、35歳での単身赴任。
彼は、時の明治政府からの招きに応じて、電信技術者として来日したいわゆる「お雇い外国人」の一人である。
その後、逓信省(現在の郵政省)の電政顧問として、日清日露の両戦役における軍事通信の確保や日米海底線敷設など、日本国の電気通信技術発展に45年に亘り貢献。「日本電信事業発展の恩人」と呼ばれた。
大正6年(1917年)6月、東京市芝区田町の寓居にて81歳で死去。臨終に際して旭日大綬章を授けられ、葬儀において大正天皇は花環を供進、儀仗兵1個大隊を特派された。その男の名は、ウィリアム・ヘンリー・ストーン(以下WHS)。
私の高祖父、つまり「ひいひい爺ちゃん」だ。

WHSは小林シンという女性との間に3人を男子をもうけた。名はジョン、ヘンリー、そしてエドワード。長男のジョンは若くして早世するが、学習院に通う少年時代、皇太子(後の大正天皇)を相撲で投げ飛ばして停学をくらったという逸話の持ち主。次男のヘンリーは横浜で日本茶の貿易商を営み、三男エドワードは明治30年(1897年)ごろ渡米し結婚するも子は無く、昭和35年(1960年)客死。この次男ヘンリーが私の曽祖父、つまり「ひい爺ちゃん」だ。

ヘンリーはキクという女性と結婚し、2人の女子をもうけた。長女の茂子はピアニストであったが、昭和5年(1930年)、25歳の時に山元町から乗った横浜の市電で事故に遭い片腕を骨折。その後はピアノ教師として横浜や鎌倉の子供たちにピアノを教えた。次女の実枝子は、若くして誓願を立て、函館トラピスチヌ修道院の修道女、シスターレティシアとしてその身を主に捧げた。この長女の茂子が私の祖母、つまり「婆ちゃん」だ。まあ、家族や親せきは皆、愛情を込めて「ピンバ」と呼んだが。

茂子は、シロウという男性を婿に迎え、3人の子を産んだ。その末っ子が私の父、つまり「親父」である。

ざっと、これが父方のファミリーヒストリーだ。

これは【神奈川のこと】だから、ゆかりについて記すと、大正時代、祖母茂子とひい爺さんのヘンリー一家は、鎌倉に住んでいたようだ。WHSが大正6年(1917年)、その死の直前に次男のヘンリー宛てに送った手紙の宛先はこう記してある。

「相州鎌倉御用邸前通り小町144 小林編理殿」

現在、もうこの住所は鎌倉に存在しない。鎌倉御用邸は現在の御成小学校のはずだから、きっとそれは今、紀ノ国屋鎌倉店のある辺りだったのではないかと想像している。尚、編理とはヘンリーのことである。

そしてその後、仕事の関係で一家は静岡に引っ越し、数年後に再び神奈川に戻ってくる。昭和初期のその頃に住んでいた場所は、

「横浜市中区山手町206番地」である。

親類縁者はもうここに誰も住んではいないが、今でも当時をしのばせる「番六百弐」と書かれた石柱が残っている。

ざっと、これが神奈川にゆかりのファミリーヒストリー。

高祖父であるWHSは、今も東京の青山墓地に眠っている。
年に1~2回、ちょっとした節目に訪れる。
今年は、仕事納めの翌日、新宿のかかりつけ医で4回目のコロナワクチン接種を終えたその足で、乃木坂の駅まで山手線と千代田線を乗り継いで、訪れた。

墓石には、こう記してある。

IN LOVING MEMORY OF WILLIAM HENRY STONE

BORN AT SLIGO IRELAND. 18TH JUNE. 1837.
ENTERED INTO REST AT TOKYO THE 3RD JUNE. 1917.
DEEPLY MOURNED.

FOR FORTY-FIVE YEARS A LOYAL AND HORNOURED SERVANT OF HIS IMPERIAL JAPANESE MAJESTY'S GORVERNMENT.
REST IN PEACE.

WHSの残した功績について記されている書物はいくつかあるが、実は、今から4年半前の平成30年(2018年)の夏、とある記事を発見した。それは、昭和45年(1970年)発行の逓信協会雑誌の中にあった。「続・青い目の実力者」という2ページ余りのコラムで、WHSの私生活について書かれていた。
以下に一部抜粋で引用する。

「明治五年に来日したストーンは、その翌年ごろ、小林シンという婦人と密かに結ばれていた。シンの生まれは安政年間ということだから、そのころ芳紀ニ十歳前後、父の半五郎は徳川家お出入りの本屋であった。当時、維新の名残りで攘夷の気風が強く、異人の妻になることなどとんでもないとされたので、この結婚は公表されず、むろん入籍もしていないが、シンは明治十年前後に、ジョーン、ヘンリー、エドワードの三子をもうけ、いずれも小林姓を名のった」(逓信協会雑誌第710号 1970年7月5日発行より)。

現在、目下の興味はこの高祖母のシンにある。ずっとWHSと結婚をしていたと考えていたがそうではなかった。そして、その父の小林半五郎は徳川家お出入りの本屋であったとは…それ以上のことは全く判っていない。いやはや、できることならNHKのファミリーヒストリーに調査を依頼してみたい。あの凄まじき調査力であれば、この謎をきっと解き明かしてくれるはずだ。

いつか、いつの日にか、WHSと出逢えたなら、尊敬を込めて握手をするだろう。そして、シンと出逢えたら、最大の慈しみと愛をもって、彼女を抱きしめるのだ。

ざっと、これがファミリーヒストリー。


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