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私たちは、crime(犯罪)を避けられるかもしれないが、sin(罪)からは逃れられない。

私たちは、crime(犯罪)を避けられるかもしれないが、sin(罪)からは逃れられない。また、私たちは「悪」を避けることはできるかもしれないが、「業」からは逃れられない。中島岳志さんの本を読んでいてそんなことをふと思う。

そもそも、落語(芸事)とは業の肯定であり(立川談志)、文学とは、九十九匹のための政治の言葉では救われぬ逸れた一匹のためのものではなかったか(福田恆存)。

そんなことを前提として、ハラスメントの問題について考えていきたい。ぼんやりとしたイメージでしかないのだけど、稽古場におけるハラスメントの問題、あるいは差別の問題などを「法律」のモデルで考えることにそもそもの限界があるのかもしれないと思う。それを取り締まる側の人間が持つ権力が暴走した場合に、それを止めるシステムを稽古場で作れるだろうか?

もちろん稽古場だって法治国家の内部なのだからそこにも法律は機能している。しかし、法律の権限を越えた集団の内規が厳格に機能する時、集団内部の権力が増大していくことは止められないだろう。かといって稽古場のような小集団の中で三権分立のような権力の暴走を抑止するシステムを構築できるかどうかは疑問だ。

仏教的に考えたら、これは「戒」と「律」の問題のうち「律」(他律的な)/処罰的なイメージで考える限界なのかもしれない。禁止されているからハラスメントをしない、罰があるからしない、というのは現実的な話ではあるが、その限界もある。フーコー的な規律訓練型権力とも繋がっていく話。

結局、そのような思考の背後には「ハラスメント加害者」という「極悪」な者を「正しい」人たちがいかにコントロールするか、というまた別の権力志向、エリート主義が発生しているのではないだろうか。ハラスメントを監視する者こそが権力者になっていくなら、まさにその監視者が全体を抑圧する横暴な権力者になっていく可能性は排除できまい。

イメージとしては「律」より「戒」のようなものでハラスメントを漸減できないものか。「戒」というのは簡単に言えば、仏教者の生活規律のことで、自発的に規律を守ろうとする心のはたらきを指す。wikiを写しただけだけど笑

芸術家なんて道徳や倫理より「美」なんていうものに頭クラクラしてしまう業の深さを抱えた人間たちなのだから、稽古場組織が「善人の集団」たり得る、などと思わないほうがよい。自分たちを「悪と戦う善の集団」なんて考えた日には非常に危ないんじゃないか。

自分たちは、時に「美しい悪」に心底シビレてしまうようなやべえ奴らだと自覚してやっていきたいものだ。その上で、いや、ハラスメントは良くないよね、と。減らしていこうね、と。絶対に起こることだから、その都度気をつけようね、と。「戒」を守るような心持ちで各人注意していけたらな、と思う。

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