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「クソ」とは何か?

そういえば、最近はちっちゃいスーパーファミコンにはまっていて、FF6のラスボス「ケフカ」をロックのバリアントナイフ×ライトブリンガー8回攻撃で辱めるのもそろそろ飽きてきたので聖剣伝説2へと切り替えた。

聖剣伝説2は小学校の4年生くらいの時にやっていた気がする。

各武器・魔法のレベルをMAXまで上げるのが相当ダルかった記憶が強烈にあるけれど、とにかく音楽がすごい好きだった。ボス戦の「ちゃらら!ちゃらら!ちゃらちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃ!」的なやつとか、いまでも聞けば血湧き肉躍る。

90年代に多くの名作RPGを残してきたことはスクエアであるけれども。聖剣伝説シリーズではプレイステーションの「レジェンド・オブ・マナ」が特に好きだ。

聖剣伝説は2と3とレジェンド・オブ・マナをプレイしたけれど、レジェンド・オブ・マナはファンタジーでありながら世界をリアリズムとして受け止めようとした構成やストーリーがあり、中学生のときは難しかったけれど、いま思えば神ゲーだった。
レジェンド・オブ・マナは「大きな物語」を直接描く王道的な世界の構築でなく、主人公自身が世界をつくりながら「小さな物語」を蓄積することで真に隠された世界に接近するという、非常に高度なことを高い自由度を持たせながら行っているのがほんとすごい。

レジェンド・オブ・マナは世界観(=システム、形式)は用意されているけれども、主人公の明確な人格や、統一的な大きな物語は用意されていない。
ここでは「大きな物語のただなかにある私たち」という立場は取られておらず、「小さな物語(あるいは物語未満の物語)」を発見するという行為にこそ作品としての創意が顕在化する。つまり、物語そのものが世界について自己主張するのではなく、「環境」として世界があるに過ぎない。
こうした「大きな物語に支配されない私たち」が尊重されたゲームはもちろんいまじゃ全然めずらしくないし、さらに自由度を広げながらネトゲのほうで非常に大きく発展した。ぼく自身はネトゲをやらないひとなので、ゲームについての言及はこの程度に止めておく。

変化する「クソ」という評価

ひとことでいうと「クソアニメ」で大丈夫なのだろうけれど、なにをもって「クソ」という呼び名を与えられるのだろうか、ということについて、そろそろ真面目に話されても良い時期になってきたように思う。

「クソ」への考察は「ポプテピピックは本当にクソアニメなのか? - 渡辺曜研究委員会」でもなされているので、こちらも参考にしてもらいたいのだけれど、

「ポプテピピック」は自らクソアニメというレッテルを掲げたことで、従来のクソアニメという字義が地滑り的に移り変わり、ある種のパラダイムシフトを起こしているようにも見えます。少なくとも渡辺総研はその観点において非常に混乱しています。そのため思考を整理する一環として、このような文章を書いているのです。

と言及されている。
また同じくはてなブログ「アニメ「ポプテピピック」に使われる「クソアニメ」という言葉 - たかみめも」でも、

次世代的すぎるこの内容と構成に付いてこれずクソアニメといった人もいれば、原作を知っている身として「やってくれたなポプテピピック」という意味でクソアニメと言った人もいるかと思います。正直TLを見ててもどの感情でクソアニメって言っているかわからないです。だがそこがいい、というのがこのアニメの正直な感想です。

とあったり、また「アニメ「ポプテピピック」は本当にクソアニメなのか - 今日も風に流されて」でも、

簡単にクソアニメの定義を説明しますが、やはりこれは個人の感覚の違いも大きくなります。
個人的に合う合わないで語れるものではないのですが、基本的に「作画や脚本、演出など内容がひどい」というのが評価の基準となってくるでしょう。
そうしてみると、ポプテピピックはクソアニメでしょう。
ただ、個人的に「クソアニメ」と簡単に言うのは違うなあ、という感覚を受けています。

とあるように、「クソアニメ」という呼びかたについていまだ不確定な価値観への戸惑いをあらわにしている。

以上を踏まえると、重要な事実として、『「クソ」と呼ばれることの意味が更新されつつある』という認識を持った方が良さそうだ。
以降、ぼくはこの更新について言及したいわけだけれども、それはアニメ『ポプテピピック』で度々パロディとして使用される「クソゲー」を題材にしてみるとわかりやすい。

「クソ」への偏愛

ひとまずアニメでなく、ゲームにおける「クソ」を見てみることにする。
ニコニコ大百科という怪しいソースをあえて採用するのだけれど、そこでは、

クソゲーとは「うんこのようなゲーム」という最低の評価を受けたゲームのこと。著名人であるみうらじゅんが言い始めたことで広がった単語である。元々業界では「バカゲーム」などと呼んでいたが、「金払っているんだから馬鹿じゃすまねーだろ」ということで「クソゲー(糞ゲー)」と名付けたと彼は語っている。だいたいこの単語が誕生したのは1980年代後半である。
引用:クソゲーとは (クソゲーとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

となされていて、クソゲーと認定される作品の特徴は以下のように指摘されている。

バグが多い。開発スタッフのミスでゲームが続行不能となる。
ストーリーの難易度が高すぎてクリア出来る人間がほとんど存在しない。
ストーリー内容が支離滅裂、多数のプレイヤーから共感不能、遊んでいて不快にしか感じない。
定価価格に対して映像や音楽が低クオリティ。遊ぶ気が起きないほど酷い。
ゲームシステムが難解。攻略本が無いとまともにクリアできない。
ゲームとして成り立っていない。遊びとしての最低限の基準すら満たしていない。
 引用:クソゲーとは (クソゲーとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

なにをもって「クソ」であるかは、個人によって評価が揺らぐものではあるけれども、しかしその判断基準は大きく分けて2つあるように思われる。

1:作品としての世界観が支離滅裂
2:ゲーム攻略の際に「ゲームバランスの崩壊」、「極端に低いクオリティ」、「バグなど」、システム面での問題がある

上記について1は「ソフト的クソ」、2は「ハード的クソ」といえる。

ともあれ、こういった「破綻」はゲーム内部そのものを離れ、他の多くのゲームたちとの相対的な立ち位置を検討するというメタ的な視点によって評価される。つまり、
「本来ならば○○であるべきなのに、このゲームは××である」
というような、理不尽さがユーモアとして回収されて初めて「おもしろさ」が見出されるという構造を持っていて、「外部世界とのリンク」が駆動力という点で一種のパロディ的性質を持っている。

「クソへの偏愛」についてここで断定的な物言いをするのは早計であるけれど、暫定的な結論らしきものをするならば、
「『ある領域を相対的に評価しうる数のサンプルを有することで構築された環境』のなかで相対的に見出される価値観」
なのではないかと思う。つまり、「クソ」とは「自発的に存在を主張するわたし」ではなく、「環境により受動的にもたらされるわたし」として与えられる自我だ。

アニメ『ポプテピピック』の「わたし性」の喪失

ここで「クソアニメ」という評価を受けている『ポプテピピック』についての言及をはじめたい。
が、その前に前章で指摘した「クソ」という概念が孕む構造的二重性について、少し一般的な話をしたい。ここで郡司ペギオ幸夫『生命、微動だにせず 人工知能を凌駕する生命(2018)』で、漫画「おそ松くん」に登場する六つ子に顕在化する二重性を指摘し以下のように言及されている。

「みずから」制御する身体と、「おのずから」形成され所有される身体。この身体の二重性は、分人的部分と、他者との関係によって形成される全体、の二重性に一致する。前者は、肉体の部分、一つの側面を表す身体であり、後者は、外部との関係を包摂し、肉体の外部にまで拡張された身体と考えられる。
引用:郡司ペギオ幸夫『生命、微動だにせず 人工知能を凌駕する生命』より「第8章『おそ松くん』と二重の身体」

郡司が指摘する二重性は、なにも人間やその他の知的生物だけに止まらず、非生物である創作物にも適応できるのではないか、とぼくは思う。統計力学を専門のひとつにしている郡司ペギオ幸夫にとって、「個(=わたし)」と「集団(=全体)」の問題は、非常にクリティカルなものだと想像でき、彼の言う二重性とはまさにこの「個」と「全体」が共在するという感覚に基づいている。前章に関連づけるならば、「個」はソフト的なものに相当し「全体」はハード的な性質をもっているような印象をぼくはもっている。

そしてこの共在の感覚についていえば、ゲーム、アニメ、文学などなんでもいいのだけれど、「個(作品)が相互に作用し、ひとつの全体(ジャンル)を形成する」というさえ環境があれば、どんなものでも成立する。
 アニメ『ポプテピピック』の特異性とは、こうした環境に対して極めて自覚的で「ありすぎる」という点にある。 

ポプ子とピピ美って「誰」なのか?

みずからを「クソ」と作中でも言及する『ポプテピピック』は、「どういう作品なのか」の説明が容易ではない。この作品説明の難しさは、「個」を特徴づける2つの身体のうち「みずから制御する身体」がごっそり欠落していることに由来する。
この作品では「ポプ子」と「ピピ美」という主人公が設定されているにもかかわらず、ビジュアルと暴力的な性質以外のキャラクター性はほぼ存在しておらず、彼女らを演じる声優すら毎回変わってしまう。

いうまでもなく、これは露骨なパロディだ。それだけでなく、作中で扱われる単発のエピソード群もレトロゲームのパロディや、なにが「ボケ」なのかさっぱりわからないナンセンスな笑い(ぼくはこれが好きなのだけれど)だけで作られている。
つまり、このアニメ作品は、『みずからを「クソアニメ」と呼ぶことで自発的にアイデンティティを主張しているが、外部環境から作品を切り離してしまうとポプ子とピピ美という「誰か」が存在しているという事実以外なにもない』という不気味さを持っている。
ポプ子とピピ美が「キャラクター」でなく「象徴」だと気づくと、このアニメはたぶん表現としてかなり見通しの良い作品として批評対象になる。

環境は存在しているけれど「わたし」がいない、といえる『ポプテピピック』が単なるパロディ作品に終わらないものにしているのは、やはりこのアニメで最大の構造的な仕掛けである「再放送」だろう。
アニメ『ポプテピピック』では、前半15分のパートとほぼ同じ映像を声優を変えて後半15分で「再放送」として放送する。このアニメの内容そのものが外部作品との関係性(アニメを取り巻く環境)を軸に構成されているのだけれど、本作は「本編のパロディを本編中に行う」ことでみずから「クソアニメ」という環境を作り出すことの成功している。
そしてこの再放送は、郡司がいう『「おのずから」形成され所有される身体』を自発的に作り出す装置として機能することで作品に大きな捻れをもたらしており、同時にポプ子とピピ美が「何者であるか」(「みずから」制御する身体」)を一層希薄化させる効果ももたらしている。
こうした過剰な引用とパロディは、作品の作品たるアイデンティティとは何か、キャラクターとは何か、そしてフィクションの実在についての問題意識を呼び起こす。

結局「クソ」とは何か?

というわけで長々とアニメ『ポプテピピック』について言及をおこなったわけだけれど、強引かつ簡潔にまとめるならば、

そもそもあらゆる創作は「それ自身の自己主張」と「特定領域内での立ち位置によりもたらされる人格」を生得的に持っているが、アニメ『ポプテピピック』は前者が棄却されているという異質さを持った作品

といった感じになる。

そしてアニメ内でも言及される「クソアニメ」とは何かあらためて考えると、これはすでに新たな「表現形式」とぼくは考えている。
つまり、「クソ」とは、作品自身が具体的な世界観やその自己主張を棄却し、外部の環境や作品を引数として記号化されたキャラクターや構成にはめ込むことで機械的に創作される表現形式という風にも考えられるんじゃないか、と。
そして従来「クソ」と直接的に表現されてきた「劣悪さ」は、おそらくこの制作過程により副産物として吐き出されるものだ。

こういう表現形式は、おそらく対象の母集団が巨大化し情報が氾濫するほど狂気や不気味さも膨れ上がる。食らいつけるネタがある限り、ポプ子とピピ美はこの世界のどこにだって存在できる。それが「クソ」という環境であり、世界だ。

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