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美容室をやめて理髪店にいったら妻とケンカになった件

 フリーランスになった最初の年のことだ。
 三ヶ月ぶりくらいに髪の毛を切りにいったのだけれども、いつもいっている美容室にいく経済力を失ってしまっていたから、950円の理髪店にいかざるをえなかった。美容室の担当のお兄さんは気さくで、多すぎる毛量とくせ毛の処理についてのアドバイスを丁寧にしてくれて、いつも気に入った髪型にしてくれるし、面白いくて意味のないお話をたくさんしてくれてすきだった。けれどもおしゃべりなのは実はそんなにすきじゃなかった。あと、嫁と同じ美容室だったから、家族の話がなんとなく会話の節々から立ち上がってしまうのも微妙だった。

はじめての950円カット

 ぼくはもともとおしゃれさんでもなければおしゃれ太郎でもなくおしゃれ泥棒でもないけれど、そういえば理髪店なんて十数年いってなかった。美容室、というなんとないおしゃれ感にいままでぼくはお金を払っていただけかもしれない。だからぼくは理髪店の敷居をまたぐことで長い思春期に終わりをおもった。
 でも万が一、いや千が一、百が一、十が一、ぼくの希望にそぐわない髪型にされたらどうしようという不安はやっぱりあったし、それまでぼくの髪の毛を切ってくれていた美容師のお兄ちゃんはとても丁寧に顧客カルテを作って、ぼくがいつどれだけ髪を切り、何に注意しなければならないかを知り尽くしていた。理髪券を買って、椅子に座ると還暦くらいのおじさんが、
「どうすんねん」
 といった。
 そこでぼくはすかさず、こんな感じで、とiPhoneで髪の毛のイメージを見せた。いまはやりのツーブロックだった。実はツーブロックはぼくの髪の毛の特徴を考慮した上で一番すっきり見せることができるものだと教えてくれたのはいつもの美容師さんだった。ぼく自身、かれの提案には満足したし、向こう数年はこの髪型でいいかな、とおもっていた。ぼくの後ろに立つ還暦くらいのおじさんはiPhoneを2秒だけ見て、
「刈り上げていいんやな」
 といった。
「はい」
 ぜんぜんよくなかった。けどそういうしかなかった。おじさんはハサミを持って、2度空中でちょきちょきさせてから、ぼくの髪にさわった。
 いざカット!……と思いきやハサミをバリカンに持ち替えて、そこからザクザクいった。すごいスピードだった。ぼくはここ十数年のあいだに、これほどぼくの髪の毛をぞんざいに扱われたことなど一度もなかった。たくさんの髪の毛が空気抵抗を受けながら重力と釣り合って等速運動となって床に落ちていった。
 還暦くらいのおじさんの快進撃はその後も止まらず、顔剃りでぼくの顔面の皮膚をめくったり、頭皮に強い刺激を与えるトニックシャンプーで殴るように洗髪したりした。
 着座してから腰をあげるまで、おそらくいつもの半分の時間だっただろう。

 それは散髪としかいいようのない散髪だった。

 そのくらい、熟練の技によってなされる散髪をぼくは味わったのだ。鏡を見て、ぼくはまるでお刺身定食を注文したのにラーメンを出されたみたいに驚いた。
 ぼくの髪型は、中学の野球部を引退した先輩のそれだった。しかし若さを失ったぼくの姿は、セカンドバックを脇に抱えて街を闊歩する量産型おっさんのそれだった。おしゃれとは、経済的成功により勝ち取れるものだ。弱小フリーランスに、おしゃれ市民権などないのだ。

その夜、妻は4000円を叩きつけた

 ぼくはその4000円を妻のほうへすっと押しもどしたけれど、彼女はそれをつかむとふたたびぼくのまえに叩きつけ、
「その頭だけは勘弁してくれ」
という。パナップみたいな量産型おっさんヘアスタイルになったことで、夫婦喧嘩になったのだ。
髪型について、ぼくはじぶんの社会的立場そのものだと解釈し、歯を食いしばって受け入れた。いつかもっとお金を稼いで、その時におしゃれを取り戻そうと心に誓った。また、そのときは友人が大きな文学賞を受賞したばかりで、その授賞式に出席する予定もあった。だからこそ、なおさら妻は怒りを示したのだ。

 妻はぼくに、
「身なりは頼むからきちんとしていけよ」
 と何度も警告してきた。そこについてはぼくだって元営業職の人間だし、ちゃんとわきまえているつもりだ。だいじなのは会うという瞬間にある。最後に髪を切ったのは学生時代の友だちの結婚式の前で、それからかれこれ三ヶ月になる。そのあいだ、とくに社交的な場というものはなかったので、お金と時間の節約のために伸ばし散らかしてきた。
「人間は第一印象できまるからな」妻はため息をつき、続ける。「ただ伸ばし散らかしてるのをざっくりみじかく切りゃあええってもんでもないねんで。あんたが1000円カットにいくやろ、そんでジャイアントコーンみたいな髪型になって、それを初対面のひとがみたらどうおもうねん」
「ちょっと笑うくらいやろ」
「おまえはそこがあまいねん」妻は語気を荒げた。「そういうやつに、クリエイティブをかんじるかってことが、いちばんの論点やねん」
「いや、こんかい打ち合わせで会うひとはぼくのつくったものをすでに読んでくれてて、けっこう買いかぶってくれていたからそこは大丈夫だとおもうんだけど…」
「あとわたしが生理的に嫌や」
「はい」
「そんな髪型のやつとならんで歩きたくないねん」
「まじか」
「まじで」
 日帰りの東京出張から遅くに帰ってきた彼女はぼくの髪型をまじまじと見てはその後、

北朝鮮の人だの、

国産の松茸だの、

 あらゆるものにぼくの髪型を譬えて罵倒した。

 口ぶりから察するに嫁氏の政治的嗜好に由来する嫌悪をぼくの髪型に重ね、第一級の秋の味覚の尊ささえもダークサイドに落としてまで、なぜぼくを責めるのだろうか。
「できるだけはやく髪の毛を切りに行ってこい」
 金がないなら貸してやる、といってちゃぶ台に鎮座する4000円をぼくの方へ押しやる。
「でもこんだけ短く切られたら、美容室行っても意味なくないか?」
「それはわたしたちの決めることじゃない。美容師さんが決めるんや」
「無理やって。ワックスとかつける意味すらない長さやで」
 妻の美容師さんへの信頼を信仰に近いものにまで変えてしまったことに、さすがにぼくも悪いなとおもった。嫁氏は俯いたまま、肩をこわばらせて、
「プロの仕事をなめるな」
 と、いうのだった。

***

 現在はおかげさまで、美容室に戻れる程度にお仕事をいただけるようになりました。

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