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枠を設けない至高の哲学

【チャンネル桜アーカイブス】西部邁大いに語る-ファシスタたらんとした者[桜R2/5/5]

この動画の感想や雑感はとても1記事に言い現わせるものではなく 著者も西部先生は大好きな一人だ
しかし今回は この動画のメインテーマではなく 途中の内容を引用して
脱宗教論 脱スピリチャル 脱哲学 という観点を話すものとする
※👇において 動画内のお二人の会話の要点と思われる箇所を多数抽出しているが それは当然自分の解釈であり実質 先生の云わんとされている事はもっと多様性と深さがあるのかもしれない 何はともあれ 先生が言われたことは動画こそみるべきであり この場合 動画の会話こそ真実の内容であることを宣言しておくものとする それを踏まえた上での話だ

22:40ちょいまえから非常に哲学的に内容の濃い部分にさしかかり
西部先生は
「未来に向けて俺には自由があるとキャンキャン叫ぶようなことはしたくない」
と宣言し もうすでにこの時点で単純馬鹿な左翼とは程遠い領域にさしかかり さらに

『 自分の思考も含めたマインドの中の確認できえる世界観の範囲で これは自分が認める範囲だとする
内的象表=4or6面体を踏まえる形で表現(押し出し)を進行させていく ある時点から方向が多少変わり6面体を描き進行したりと生は進行していくが 考えてみるといずれはその4面体6面体の中の俺の自由も その先にある死に向かっていることを認めざるおえない 』

そして 相対主義=脱構造主義 のポストモダニズムを批判したり会話は進み

27:00 から水嶋社長が その西部先生独流の人生哲学では、仏教の禅的観点からの見解はどうみえるのか? これを聞き出した

もし自分が水嶋社長の立場でも おそらくこれは最も聞きたい部分のことに匹敵する これをみていたとき大きな発見があった

「禅坊主ならいいですよ・・・」と悟りの哲学を認めながらも 生き方として「禅寺にこもりたくない」「研究室にこもりたくはない」

といいながら「自分自身を混沌社会の中に放り出したい」と言い
そして 本の主語である 少年は 老人は をとりあげ

「4角形 or 6角形の中でうごめいている自分をみている『もう一人の自分』そこから 少年や老人を語ってみたい」

として それはいうなれば

『もう一人の自分を思索の中に置くというのは 別な言葉でいえばそれは神の視点であり人間を超越した視点を意味していて
・・・だから そこを水嶋さんにつつかれて 「 おまえは禅坊主じゃない 書斎人種?(研究専門員)じゃない」といっているが
 そう言う人の お前の目線そのものは 禅寺やら書斎から自分(世界)をみているじゃないか? 』

と西部先生らしい カウンターをかけている(^^) もちろんこれの真相は、おそらく水嶋社長にいっているのではないだろう

なぜなら 語尾から笑っているし 社長がその後『いゃいゃ 全然そんなことないですよ・・・・・』 という返答に笑ってうなずいている
それにちょっと議論の論点からはみ出て 洒落た反骨心をみせるのは西部先生の癖みたいなものだ

自分もこの動画をあげて特にアピールしたい点は 👆の最後から続く内容ではなくて まさに この時の

『・・・・・お前の目線そのものは 禅寺やら書斎から自分(世界)をみているじゃないか?』 ここだ👇

(※自分がこの記事の下で訴えたい部分は、この部分からの2人の会話とは全く別な話題であり 今まではそのわかりやすい例をあげるためこの動画を使わせていただいた
 2人の視点というのは、途中の宇宙の深淵の話題から政治的正道とは という別な点にあることは言うまでもない 西部先生もそんなことは解った上で話している 元へ )

とする 西部先生の見解は まさに 自分がよく 宗教団体もしくは 宗教者に対していいたいことに通じるからだ

つまり 今まで自分は気づかなかったが 👆で西部先生のその訴えは 見事にラマナマハルシやニサルガダッタマハラジの根源的問いと重なってくる それが証拠に 西部先生は 二言目には俺はいったい何をやっていたといえるのか?と口ずさむ でも当然それは全て重なるわけではない
先生の場合はもっと 社会的正道 やこの本の主題と関連しているものだろう だが途中の奥さんとの運命的プロセスにもあるように宇宙の深淵さも言及している

注釈ばかりになっては駄目なので 本題に進むと 先生は ここで 宗教全てに喧嘩を売っているのだ(ほんの1瞬だが) 自分など生まれながらそうだ

なぜなら 上の先生の一言はそれを全て物語っている「それなら おまえらは・・・という世界観を基点としているじゃないか?」

この根源的問いがある まさにここだ!

禅などというものは 宗教団体としての側面はおそらくもっとも薄い存在でありその対象とは言い難く、この対象とは、団体としての側面が強くなればなるほど 西部先生の洒落た反骨心からでた 永遠の問いは意味をなす

(※禅のことをとやかくいうつもりはない 上であげたのは内部の人間関係を意味するものではない 人間関係はどこでもいつでも何でもドロドロしている そんなことは言わずと知れている)

自分はいつも考えている つまり自分は瞑想家と表明しているが 今のとここれ以外のニュアンスがないからそうしている

しかしもし何かしらの団体をつくり その自分達のポジションを鮮明化する場合 その内面を意味する名称というのが非常に厄介だと思われる

つまり 禅やヨガみたいに真理を探究するとき 世界のあらゆる良質な解脱実現への教えや教訓また良質な世界観を目ざす そのようないうなれば あえて許せば "宗教的" 団体として仲間を求める時 適切な 種別とは何になるだろうか? 適当では駄目であり 名称により一発でいわんとしている内容を伝えるには何があるだろうか? それを考えるときがある

今までのような 人から「 あれね あれは宗教だね 」と言われてしまうようでは駄目であり 全現象をダイレクトに指し示し 同時に完全な唯心論であり 人が一発で 自然に その名称を聞けば それは 哲学であり 真理探究であり 全宇宙観を追求できえる幅があり 全現象学を意味している となるような単語がないものか? ・・・と

またこれは単語がある無し関わらず 自分の内面にいつもあるのは 枠を作ってしまったら終わりだ という思考だ
なぜなら スピリチャルという単語とて もうすでに枠という概念が発生してしまう 当然宗教など当たり前に枠となってしまう

つまり西部先生みたいな 反骨心の強い人にはその時点でアウトである 例え内容が自分と瓜二つであっても 反骨心の強い人はその時点で敬遠してしまう

もし唯一の枠があるとしたら 全唯心論を認める団体 つまり 唯心論=意識根源教 といえるのかもしれないが そんな単語は今度別な意味で弊害がでてくる

つまり スピリチャルや宗教より遥かに幅が広く 全てを網羅する 唯心論、意識総合学みたいな形態 その名称は簡単なようでこれほど難しい事はない またその内容説明も難しいものとなる いやいや これもまだ限定観がある 唯物論者の意識に浮かぶ概念すらその範疇であり 全現象宇宙それそのものの摂理を言い現わす単語は無いのか?

結果からいえば そういった名称種別ではなく 方法論のほうが今ではハッキリしている ラマナマハルシ、ニサルガダッタマハラジ、禅といった至高の実在学、であり 名称説明が難解極まりないが故に 逆にそれは ・・・教とか・・・宗 といったものよりはるかに立ち振る舞いというかフットワークが軽くなる
もちろん 宗教ではなく 信仰という範囲でいえば 日本神道、太古神道、ヒンズー多神教、南米の信仰なども多神教だろう

これとは全く逆に 非常に狭い世界に埋没していく教えは 「 ・・・以外は・・・教として認めない 」などと馬鹿の戯言をいう教えだ

なぜなら 世の大きな宗教のほぼ全ては 開祖が創ったものではなく それは途中において誰かが組織運営を円滑にするためまとめ上げたものでしかなく 特に仏教などはその色彩は強い 釈迦などは 誰より何より『組織や組織化を嫌った』事は有名だ

つまりこれは そう宣言している段階で終わっている まずは そこに全てが現れていることを徹底して悟る必要がある つまり ・・・以外は・・・教として認めないなどと非常にくさい事をいう その心理を単純にみてみる必要があり 明らかにそれは支配欲とか識の縄張り欲からくる 愚かな強欲以外の何ものでもない!

従って 今までの歴史が証明しているように 宗教において あからさまな争いは そういう非常に下等な低レベルな団体が引き起こしている 明らかに完全に歴史がそれを証明している それがわかった人は 即座に!この瞬間にそれを全て捨て去り 瞑想のみに向かうことをお勧めする そこに気づいたら 気づいた分だけ実行に移すべし!

まぁそうはいっても これもまた やんちゃ坊主の端くれとして この現象世界には現象として派生して そのムードバンドウェブをまき散らし 世の骨格に影響を与えているのだが・・・ つまりは現象として起こってしまっていて そして多数の人間に支持されている段階で そこには何だかの勉強が含まれていることを意味している
ワンネスの中の何かの因が 『・・・以外は・・・教として認めない』などという言葉遊びを奏でる結果になるのである
 実に滑稽な現象として その ムードバンドは巻き起こる

余談だが 自分が好む姿勢は、感情論でいうならば このようなムードバンドウェイブと全く逆であり 宗教的なものとしては最も自分が大嫌いな 智恵浅き 浅ましき 愚かなマインドであり それは ある日突然 ネットワークマルチビジネスに目覚め 昨日まで土方服に身を包んでいた若者が突然目を輝かせフォーマルウェアに身をつつみ 講義活動を開始するのに似ていて 内容がどうこういうまえに ダサすぎであり くさいものの典型と言わざるおえない

しかし 悔しいかな これらが『現象として起こっている』という事実は、世界観察として認めるしかないのであり 現象として素直に認めたとき それがなぜにこの世に発生したのか? ワンネスのストーリーの中でその因を探り勉強するしかないのだ

第2の問題は ・・・教とか・・・宗 あるいは スピリチャルにおいても 派閥というか枠組みを簡単に想起させてしまうような団体というものは ある種 めちゃくちゃ損といえる

なぜなら 上の会話にもあるように その名称をつけた段階で 自己の表現方法や立ち位置が好むと好まざるとに関わらず 他者からは特定の視点としてみられてしまうからだ

自分の友達の中に ヒンズー教と聞いただけで まるでヤバそうな土人のそれを想起するものがいるが そのような判断が治ることはまずなかなかない よってやはり 真理追求が関連する範囲のものに限り 限定化、個性化を図るような名称種別というのはあまりかんばしいものではないのかもしれない 人の先入観とはでかいものがある

まぁ個別団体において 高度な見解をもつ人は残念ながらごくごく少数であり 大方は 完全に言葉にイカレてしまい 言葉に引っ掛かり 憲法9条に引っ掛かり理想論を述べる左翼と同じく 非常に低レベルな発想しかできないものは 意外に多い 猿に毛の生えた程度の智恵しかもたず 言葉に引っ掛かり 真っ赤な尻をひけらかすのだ

また どうせ自分なんかは 高度な認識は無理と最初から諦め 低レベルな見解でグルグル回りだす 猿のような人もいる そして最後には尻がでかくなり も~にっちもさっちもいかなくなる 感情と言語野(脳)が構成する世界がたちどろこに崩壊して 最後の最後には 赤子のように駄々こねをやりだすのだ

これを解決する方法は至って簡単で誰でもできるとも知らずにだ 駄々こねまくりをやる時間があったら10分でも瞑想すればいいだけだ

・・・教とか・・・宗 と宣言している人でも 実はいろいろいる 高度な見解をもつ人であればあるほど 実は・・・教とか・・・宗というのは愚かなことだと悟っているというか 高度な人であればあるほど 勉強できている人ほど ごくごく一般の普遍性でしか物事をみたり論じたりはしないだろう

そして 派閥とか個別団体というのは その普遍性への途上において 一見自分の着眼点が留まった 一時の幻だったというのを品よく悟っている
つまり それなら 最初から・・・教とか・・・宗などという単語など 団体名種別に使う必要などなかったともいえるわけだ わかるだろうか?

しかし 変なもので ここまで究極的なことをいいだしたら 世の中は個性も何もない 非常にのっぺらぼうの平坦なものになってしまうだろう

よって 自分がいえるのは 個性的 名称種別という概念に文句はいえないとなる あくまで自分はそうせず できうる限り 森羅万象 万能な名称種別を好み それを目指すというまでだ

自分がいいたかったのは 真理探究という世界でいうなら ・・・教・・・宗という段階 そういった時点ですでに終わっているという点だ もし反論するなら それは登り方の名称にすぎない と付け加えるしかない そう言い切る範囲で正当性が担保される とそういうことだ だから ・・・以外は認めないなどというセリフを吐くものは
その・・・以外は 現象として世の中にすでに起こってしまっている という事実を認めないのだから その時点で真理追求=現象学の答え を探すものとして完全失格というわけだ

ここで話題は 前に戻るが 西部先生みたいな 超個性的な存在の 超個性の追求のバックボーンには メタ認知に基づく永遠の多次元的観察者が必要であり やはりその部分において ラマナマハルシやマハラジは万能といえるのだ
もし 仮に西部邁先生が好きな ほぼ似たような思想だと宣言する人がいたなら 仏教ではなくて ラマナマハルシやニサルガダッタマハラジをお勧めする もしかすると相性がいいかもしれない 自分も反骨心が強すぎて 今までどんな宗教も認めることはできなかった 唯一真言密教だけはそうじゃないが これは高野山専修学院でもいかないと追求の仕方が難しい それに比べ ラマナマハルシやマハラジは、真剣に求めれば誰でも実感が伴ってくるし どんな人でも認めざるおえない事しかいっていない
孤高の反骨心旺盛な人には絶対的にお勧めだ ただ現代文認識力は最大限使うのでそのつもり読むべきだ

そして その超個性のさらなる追求の先に 森羅万象をならしめている 禅の解脱の境地である 全ての全てを網羅する 完全に脱理屈の世界がある

つまり真の解脱の予兆が垣間見れるのであり やはり それはそれで ロマンであり自分は自然にこれを永遠に追い求めている自分に気づいている


そうはいっても 長期 中期 短期という取り組みの流れはあるのであり 短期的意味において自分は エハン熟のエハンデラヴィが取り上げた

ベルナルド・カストラップ哲学博士の 『言語が足りない』という呼びかけは的を得ているとおもう

なぜなら近年 人々の意識は若干ではあるが ワンネスに向けほんの少しの向上が見られたと思われる そうなってくると即座に 言語が足りなくなる

その言語とは 具体的に確定的な個別のものを言う言語ではなく 抽象的概念を一発で相手に即認識させる言語が足りないといえる

博士のつかっている『メタ認知』『メタ意識』という 単語はそれの意味がわかるだけで おそらく約2~3行にわたる解説が省かれる


また これは自分独特な最近のマイブームだが 手印という手による形象に 内的表現とそのエネルギーを解放合理化させる何だかの力があるのではないだろうか?

と感じている 明らかに 内面の想念の種別と 手の先端の『こう動きたい』という欲求が連動しているとわかるときがある

でもそれは 真言密教でいうところの 手印とは別もので もっと大胆な手や指の形というものが 内面に息づいているエネルギーと連動していると思われる

おそらくこれは 瞑想において 内面に浮かび流れる想念エネルギーのイメージとして描きだされると思われる

つまりこれは これから瞑想する際に これに集中することで 内面のエネルギーをいかようにでも制御できるのではないか? という予感が沸いてきた

最近 瞑想の課題の主体を何に絞るか?迷っている部分があったが 手印と連携する内面の想念エネルギーの形態を 意識の対象にしてそれをじっくり自然に観察するとおもしろいだろうという まぁちょっとした遊び心もあり これを追求してみようと思ったまでだ こんなものは あくまでマインド内のことであり
意識や魂追求レベルの話とは全く違うのであしからず

まぁこれはこれからの 自分個人の課題だ どうかオカルトとみないでもらいたい(^^) あくまで 同じく手先に無意識からの動きを感じる人がいないものか?
書いたに過ぎない もしそういう人がいたら 意見ください

自分がいいたいかったのは 政治舞台の現実生活の手段論ではなく その系の話ではなく 精神の可用性 という範囲においては徹底して枠を設けるな!と断固強く宣言するものだ 内面でも現実世界の常識論ではなく 自分のプライベート空間において! その表現形態 その可用性においてその取り扱い説明書なるものは!
宗教もスピリチャルも科学も学問も哲学も 何もかも そんなものは 投げ捨て 突破してしまえ!
孤高の空間を突破して意識すら超えてしまえ!
それくらいの気迫をもて! その視点で現象宇宙をみろ! ということで そんなことは瞑想を極めればわかることだ
その内的世界の死をも超越しようとする絶対勇気 のみが活路を開くと知るべきなのだ 事実瞑想は深まれば深まるほどそれが試される
単理 瞑想とはそういう状態に至ってこそ価値あるものとなる


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