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わさび農家についてお話しする前に

私が嫁に来た地域について、そしてどうして「情報発信」をしているのか、少しお話したいと思います。

私が嫁に来た「茅野」とは。

伊豆市湯ヶ島「茅野」地区は、伊豆市(旧天城湯ヶ島町)の最南端、伊豆半島の中でほぼ中央に位置し、天城連山をはじめとした山々に囲まれた小さな地域です。川端康成の小説「伊豆の踊り子」や石川さゆりの名曲「天城越え」の舞台である浄蓮の滝や天城隧道といった観光地もありますが、国道から一本通りを入ればら山から湧き出た水が用水路を流れ、ひっそりと人々の暮らしがあります。
かつては営林署があり、特に1958年の狩野川台風後には全国から林業関係者が移住し、かなり多くの人が暮らしいましたが、現在は人口わずか213人、小学生は4人、中学生2人しかいないという典型的な過疎高齢化地域です。(人口は2012年当時。現在は、人口230人、小学生6人、中学生1人)
自分で農業をやるか観光客向けの仕事に就く意外、家の近くで働くことができる人はごくわずか。
(まるごと茅野ポスター展〜伊豆の小さな地域の住民が「地域の日常」をポスターにするまで〜の中から抽出)
「茅野」という地名の由来は、茅野の住民にとって「母なる山」鉢窪山。昔は鉢窪山は茅葺き用の茅がとれる草地だったところから「茅野」という地名になったそうです。
また、鉢窪山の噴火によって茅野台地や浄蓮の滝がつくられ、伊豆半島ジオパークの1つとしてユネスコ世界ジオパークにも認定された場所となっています。

https://izugeopark.org/


私が嫁に来た地域は、皆さんが河津桜を観に訪れたことがあれば一度は通ったであろう国道414号線沿い。伊豆市野最南端、『天城越え』を歌いながら通ったであろう道の、一本はずれにひっそりと暮らす集落。
買い物は、一番最寄りのお肉屋さん、コンビニまでも車で5分。スーパーになると車で20分ほど下らなくてはなりません。小学校・中学校はバス通学。
飲み屋さんもほとんどなく、夜は満天の星空、鹿の鳴き声くらいしか聞こえません。

出会いは突然やってくる


そんな地区に、2011年、伊豆市で都市農村交流や定住促進を目的とした事業を実施することになり、田舎暮らし体験用住宅「そらそい荘」がある茅野がモデル地区として選ばれ、有名な講師を呼び、勉強会が始まりました。そこに講師にやってきたのが、(株)四万十ドラマの畦地履正社長、地デザイナーの迫田司さん、ファシリテーターの畠中智子さんの3人。

四万十ドラマ↓

http://shimanto-drama.jp/

地デザイナーとは↓

私がはじめて出会ったスーパーファシリテーター↓

https://waravino.com/_m/


講師がくるのだからと、次世代を担う茅野地区出身の若者9人で「茅野塾」を立ち上げ、当時農林水産省が新たに立ち上げた「食と地域の交流促進対策交付金」に応募し、2011年から2年間、茅野塾の挑戦がはじまりました。

私自身は、2012年の5月に結婚、6月から茅野での生活がはじまり、数日後、詳しい話もないまま、突如主人から「今日、地域で集まりがあるんだけど、一緒に行かないか」と言われ、わけも分からずその会合についていきました。(実は主人が茅野塾の塾長をつとめていたそうです。まったく知らなかった)
会合に行くなり、雑誌に載っていた人達が揃っていてびっくり。

新聞バックや道の駅『四万十とおわ』の事を、大好き雑誌に載っていて知っていたので、まさかそんなすごい人達が、この小さな集落のために来てくれているなんて!と驚きと高揚感を持ったことを思い出します。

すでに2011年から商品開発や試食会、四万十への視察も行い、茅野塾の活動は、挑戦しながらも商品開発の難しさにぶつかっていた時だったそうです。

wsの後の交流会(飲みニケーション)の中で、まったく初対面でありながら、畦地社長から、「これからは市場出荷ばかりに頼っていてはダメ。自分達で売らなきゃ」と言われたのをずっと頭から離れませんでした。
(数年後にお会いした時に、畦地社長にその話をしたら覚えてないとおっしゃっていましたが(笑))

「舞台は茅野、モデルは住民」

 地元特産野わさびを使った「わさびもち」や、茅野で作られた大豆を使って作った「おからのでないお豆腐づくり」など、商品開発を行ないましたが、なかなか塾生のモチベーションはあがらず、前に進みませんでした。
そんな中、講師の迫田さんから、「自分たちでポスター作ればいいじゃん、いろいろ作って、どっかに展示するとかさ。日本初の住民ポスター展やれば。」と一言。
迫田さんに茅野塾のロゴ作成を依頼していたので、迫田さんが塾生をモデルに写真を撮り、迫田さんが作ってくれたロゴと、自分たちでコピーを付ける作業がはじまりました。
そして、12月8日、9日と2日間「まるごと茅野ポスター展」を開催することも決定。
約4ヶ月間でイベント開催に向けての準備がはじまりました。

日常を撮影するワークショップや「滑沢渓谷でのキャニオング」「鉢窪山トレッキングツアー」のモニターツアーを開催しながら、写真を撮って、SNSで写真の共有方法を学んだり。
ポスターの準備をしながら、ポスター展の告知も同時進行で行わなくてはいけず。当時はまだ慣れないFacebookでの告知活動。
その時に精力的に力を貸してくれたのが、南伊豆で「ジオガシ旅行団」を立ち上げたデザイナーの鈴木美智子さん。ポスター展のポスターのレイアウト、HP作成、データの集約、共有方法などをほぼボランティアで教えてくださりました。

そして迎えたポスター展。


大きなパネルに貼られたポスターは、全部で48枚にもなりました。
まるで生き生きとポスターに描かれた日常。
「舞台は茅野、モデルは住民」がカタチとなった瞬間でした。
ポスター展は大盛況、夢のような2日間はあっという間に終わりました。

このポスター展を通して、「何もない」と思っていたこの地区にはたくさんの豊かな宝物があることに気づかされました。当たり前だと思って見落としていた豊かな自然、そして人々。
そして、この茅野地区だけでなく、伊豆にはたくさんの魅力があることにも気づくことができ、伊豆が大好きになりました。

ポスター展が終わり、年が明け、補助金事業も終わりを迎え、いざ自分達だけで活動しなくてはという話しをし始めた最中に、このプロジェクトを全面的にサポートしてくださっていた市役所職員の突然の訃報。
皆、言葉を失いました。
その方が居なくなったあと、誰がこの茅野塾の活動を進めていくのかとなった時に、誰も動けず、そのまま活動は縮小していきました。

「だれが」
「だれのために(だれをhappyにしたいか)」
「そのために何をするか(なぜするのか)」

それぞれ仕事や家庭を持ちながら、地域活動を継続していく厳しさを改めて感じた瞬間でもありました。

茅野塾の活動先細りしていくなかで、私自身の中では、その時から、相良さんが残してくれた「タノシム」ことを誰よりも体現し、慣れない私に優しく声をかけてくれた優しさ。
その恩返しをしたい、何か動かなくては、という気持ちが芽生えた時でもありました。

それから月日は流れ、ちょうど9年。
わたしの中では、毎日毎日「楽しめている?」「相良さんに恩返しできているかな」と自問自答する日が続きます。

9年前を思い返していたら長文になってしまいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

感謝します。


2012年8月
そらそい荘にて。
チーム四万十、地デザイナー、行政の皆さんと。

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