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汽車のある情景 裏庭の線路

老人は木工職人だった。
伝統工芸というわけでもなく、
ラワン材で安物の小さな木箱を、
細々と作っていた。

戦前は若松で若い職人を十人も抱えた、
そこそこ名の通った木工所を構えていたという。
しかし、戦争は、
弟子たちを次々と中国奥地や南方へ送り出し、
空襲は店ものこぎりかんなも何もかもを灰にした。
弟子たちは誰一人帰ってはこなかった。

老人は今の土地に借家を借り、
腕一本で子ども三人を育て上げた。

戦後機械化が進み、あらゆる物が
大量生産のプラスチック製品に姿を変え、
老人の仕事は、減ることはあっても、
増えることはなかった。

しかも元々身体の弱かった老人は、
長年の木工仕事で肺を木屑きくずにやられ、
喘息ぜんそくを患っていた。
注文が来るのは、
一箱の工賃が50円にもならない、
小さな木箱がほとんどだったが、
老人は息をひゅうひゅうと鳴らしながら
毎日毎日こつこつと、精魂込めて作っていた。


老人の家は、駅から少し歩いた、
旧い商店街の外れにある。
石炭景気の衰退とともに寂れた、
その商店街のすぐ裏を、
汽車はまるで軒をかすめるように走り、
列車の窓からは、古枕木の柵越しに、
そこで暮らす人々の、
屈託くったくのない日常がうかがえた。

洗濯物を干すおかみさん。
タライの行水にはしゃぐ幼い兄弟。
そして、黙々と罫引けびきを引き、
かんなを使う木工職人。
狭いながらもきちんと整理された道具類や、
溶けたにかわの立てる湯気が、
走る列車からもはっきりと見えた。



家の裏側を作業場にしている老人にとって、
毎日目の前を行き交う汽車は、
使いやすいように床に並べた
罫引けびきや紙やすりのように、
日常のごく当たり前のものだった。
そして、数ある道具の中でも、
特に愛用の一本があるように、
行きかう列車の中にも、
何故か愛着を持つものがあった。

朱色と肌色に塗り分けられた、
スマートなディーゼルカーよりも、
石炭車を連ねてボコボコと進む
煤だらけの古機関車が、老人は好きだった。

朝5時過ぎに通る、
5591列車の汽笛で目を覚まし、
7時前の5593列車の通過を合図に、
どっこらしょと仕事を始める。
ばあさんがお茶と茶菓子を持って来るのは、
5592列車が通る10時過ぎで、
5595列車の汽笛は、
昼飯を知らせるサイレンである。
就寝を告げる直方行きの1298列車まで、
古機関車の汽笛や通過音が、
老人の時計代わりを務めた。

以前はもっと頻繁に行き来した汽車だったが、
時刻改正毎に本数が減り、
つながる石炭車の列も短くなった。
時には機関車一輌だけで行き過ぎることもあり、
荷も無く軽々と走る様子が、
老人にはかえって手持無沙汰で、
寂しそうに見えるのだった。

雨の日も雪の日も、
ただ黙々と重い荷を運ぶ頑固者。

太いボイラーの下で、
小さな動輪をがちゃがちゃ動かす、
不格好で無骨な働き者。

戦火の中をくぐり抜け、
今なお老骨に鞭打って、
山野を駆ける大正生まれのボロ機関車。

そんな姿に、老人は自分の生きざまを、
重ねて見ていたのかもしれない。




老人が卒中で突然他界したのは、
この線が無煙化される一週間ほど前だった。

時を同じくして、筑豊の蒸気機関車たちは、
そのほとんどが、
真新しいディーゼル機関車に世代交代し、
鉄屑てつくずになった。



そして、時代と共に石炭列車は姿を消し、
車窓からうかがえた人々の日常を、
屈託くったくが覆い隠した。


ただ、木工職人の仕事場だけは、
使いやすいように並べた
罫引《けびき》もかんなも紙やすりも、
湯気の立ちそうなにかわの鍋も、
そこに老人がいた時のままに残されていた。


列車がその前を通り過ぎるとき、
老人はひゅうひゅうと息をしながらかんなを使い、
汽車はボコボコと
音を立てているような気がした。


昭和49年 冬、国鉄糸田線