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マゼンタ、闌れ果てた。

 物体色と光源色は異なるんですって。知ってた?だから、同じようでも同じものなど存在しないのよ。え?何のことだと?色の話よ、あくまでもね。

 マゼンタ色の空間が緩やかに歪んで、眩暈の中、目醒めた。

 徐々に視野が戻ったら、それがベッドの上で、マゼンタ色のリネンであることに気づいた。

 「目が覚めた?」と腕に時計をしながら、夫が笑う。

 此処は何処…何…このワンピース…眠る時には絶対に着ない。自分の胸元に触れる。レースのひらひらも好きじゃない。

 「ね、起きてるよね?どうしたの?」再び聞こえる夫の声はいつも通りで同じだけど…悪戯そうに、目の前から此方を覗き込む男の顔は…夫じゃなかった。

 「昨夜は、無理にゴルフに付き合わせてしまったから…疲れたんだね」

     この顔…この男は…

 「〇〇さん…どうして?」

 「どうしてって?確かに〇〇だけど、あのさ、キミは僕の妻だから、ということは…キミも【〇〇さん】なんだけど?」と、そして「面白いけどね」と背後から手を回して抱き締められる。この感触は覚えていて同じ。でも…この男は舞台で観ていた俳優だ。わたしと彼が結婚した事実も記憶もない。だって、わたしの夫は違う男なはずなのだから。

 急な展開に困惑して戸惑っていたら、

 「ま、今日はこれから、ウチの会社の社長の誕生日パーティーで、夫婦で招待されてるから、悪いんだけど時間がないから、早く着替えてくれる?」

 男は、寝室隣りのウォークインクローゼットへ目配せする。

 マゼンタ色のペンシルラインのドレス。

 此れは…確か…あのデザイナーが初めてデザインしたものだったけど、オーダーした覚えなんて勿論ない。

 そもそも、わたしの好みじゃない。どちらかと言うと、あっちのシンプルなリトルブラックのドレスの方がきっと似合う。

 「あー今日は黒はダメだよ、葬式じゃないんだから」と男が口を挟んで来る。

 気は乗らないが着替えてみたら、サイズも寸分の狂いもなく、身体にぴったりだった。仕立てたように。マゼンタ色がクローゼットの鏡に反射して妖艶に輝く。よく瞳を凝らして見ても、この色は、明るく鮮やかな赤紫色なはずだけど…赤、ピンク、紫、藍色、いや、赤が強いの、藍、青が強いの、どれなの…眩暈が戻って来る。

 「とてもお似合いですよ、奥様」と、支度を手伝う男が、背中をソフトタッチで撫でるようにファスナーを素早く上げる。それから、いつものように髪をアップに纏めてUピンで手早く仕上げる。確認するように、ネックレスは此れ、ピアスは此れでいい…此れはわたしのもの。無くしたとしても惜しくない。耀くイミテーション。

 ジルコニアだけど、悪くない。

 「〇〇さん…フッ(口元に手を置き)やっぱり苗字で呼ぶのは違和感あるよ、さあ…どうぞ奥様…」

 知らないけど知っている夫だと言う男が腕を出して、ニコッと静かに、もう片手の指で床を差し、「靴はコレを…」と、また悪戯な表情で笑った。靴はヒールまで透明に透けて不思議な畝る輝きを放っていた。何、今時、ガラス製ってことはないでしょう。

 恐る恐る足を入れたら、吸い付くような、あたたかな感触。そう、まるで、ぬるま湯。足湯に浸ってるような。生温い感覚は嫌い。

 そんなことより、やっぱり、知らない。知っているけど、知らない。この男は…

 送迎車の後部座席に並んで座り、隣りの男をガラス窓越しに盗み見た。「何?」と視線に気づかれて、「今日は何の遊びなの?」と男が言う。続けて「まあ、そんな悪戯好きなとこも嫌いじゃないよ、僕はね」

 走り出した空間にどんどん流れる景色が、無機質なビル群を追い抜いてゆく。この街は何処?知らない。やっぱり知らない。この男…知らないけど、知っている。でも、夫じゃない。

 どうしよう。

 こんな違和感を持ったままでは、この先は熟せない。

 

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 「本当に熟せない?」耳元でゆっくりと囁かれて、渇いた唇を舌で転がされる。目を見開きハッと我に帰ったら…朝に目醒めた寝室のベッドの上だった。裸で服を着ていない。馬乗りになった男の体勢で、ことの次第を理解した。

 「足を上げて」

 「あっ…」

 「この角度が感じるから好きでしょう?」

 「ど…どうして…」

 「どうしてって…夫婦だから…」


 汗が吹き出し、額から首筋に流れる汗がマゼンタ色だと気づいた。そんなはずはない。目に入ったのに滲みもしない。視界がマゼンタに深まる。だから、マゼンタ色だなんて、さっきワインを飲んだからって、血尿でもあるまいし、ありえない。

 「ありえない?じゃあ…これは」男が少し腰の角度を落として、斜め右下から突き上げる。

 「あ…違う…ちが…う…」

 「でも…かなり感じてるじゃない?」

 ギシギシ軋む音と、出し入れするリズミカルな卑しい音と共に、男が悪戯そうに笑う口元が、マゼンタ色に染まり、伝うように繋がり湿り潤ってる部分へと下りて、掴んだ手先から頭まで同色に染め上げる。こんな願望も嗜好もない。

 セックスは嫌じゃないけど、けど?

 この部屋は変だ。

 この男も変だ。

 わたしも変だ。

 この行為は単なる事故のようなものだとでも思い込んで、夫には絶対に内緒にしなくてはならない。そんな狡賢いことを脳裏に浮かべながら、この可笑しい陳腐な快感に身を曝け出し、果てるのだ。ドMらしく。

「だから、夫だって…まだ分からないの?ドMだなあ」夫だという男が、頬を舐めながら、また耳元に移動し囁く。

        

闌れ果てた


 他人だろうと、夫だろうと、ことが終われば同じ。

 深い深いマゼンタ色の空間が、また緩やかに歪んで、そのまま眠りに堕ちてゆく。

 どうせ、また、目醒めるの。

 意識がぐっと戻ったら、劇場内の椅子に座っていた。お芝居を観に来たらしい。らしい?記憶がないの。隣りには見慣れた夫が座っている。妙にホッとして、手を伸ばして手に静かに触れる。やっぱり、この人だ、間違いない。「どうしたの?気分でも悪いの?」と心配してくれる夫に、いや違う違うと首を振って、また正面に向いて舞台上を観た。

 視力が最近落ちて、コンタクト無しでは俳優の顔の違いも分からない。ふと、膝の上にあるオペラグラスに手を伸ばし、覗き込んだ。距離感が直ぐには掴めずに左右と静かに動かしてカメラのようにピントを合わせるような仕草をして、再び覗き込む…あの俳優だ…

 ジッと静かに覗き込んでいたら、その俳優が、ありえないはずなのに、刺すような目線で、強い表情で、真っ直ぐに、

知ってるよ

と、一瞬の出来事に、思わずオペラグラスを落としてしまった。そんな筈はない。そんなはずはないのに、改めてみると、舞台の背景がマゼンタ色だという事実に気付いて、また、眩暈がして来た。クラクラして来て、このままでは、また、目醒めることになるようだから、やっぱり…

此処は、闌れ果てた…


 目醒めたいのか、目醒めたくないのか、












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