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紛争を回避しようとすればするほどかえって紛争を生みやすくする、という対人構造について

ここ数年痛感していることがあります。それは、医療者が紛争を回避しようとすればするほど、かえって紛争を生みやすくする、ということです。これはどういうことでしょうか?

こちらとしては精いっぱい頑張って医療を提供したとしたも、結果として患者さんにとって不幸な転機が訪れることはあります。また、良かれと思って行った医療で副作用が出現し、かえって患者さんにとって不利益になってしまうようなことがあります。そんなとき、患者さんご自身やご家族が抱く感情は「あの時ああすればよかったのではないか?」という後悔の念であり、「どうしても納得できない」という疑念です。

そして、このような感情を患者さん自身やご家族から受け取ったとき、医療者がしばしばとる行動は「自分達には落ち度はなかった」ということを当事者に説得していくことです。たとえば、「あの時点で入院していればもっと早く手を打つことができたかもしれない」という言葉に対して、医療者の返信は多くの場合、「ただ、あの時点では危険なサインは特に出ていなかったのです」という言葉なのです。同じように、「どうしてこんなことになったのか納得できない」という言葉を受けた医療者の返答は「医療は不確実性を大きくはらんでいます。すべてが予定通りにうまくいくとは限らないのです。また、医療行為というものは常に患者さんにとっての利益もあれば不利益も起こりうるのです。そこのところをご理解ください。」というものだったりします。すなわち、残念に思っていたり、悲嘆にくれている患者やその家族に対する医療者のレスポンスは、「私たちは間違ったことをしていないのですよ。間違ったことをしていないのに結果がよくないのはしょうがないことなんですよ。それを理解してくださいね」という説得なのです。

多くの医療者にとって、現在でもこのような対応をすることが妥当な行為であると認識されています。しかしながら、私自身はこのような対応に強い違和感を感じています。

患者さんにとって悲しむべき事象が起きたとき、医療者が行うべき行動は、自分の正当性を主張することではなく、ただただその悲しみに共感することなのだと私は思います。「心中お察しします」とか、「私にとっても残念でなりません」という感覚は、素直に共感し発することができる感覚だと私は考えています。そして、経験上も、その感情に共感することで、明らかに自分自身も患者自身も救われる気持ちになると思っています。

だとすれば、なぜ私たちはそれを言葉に出して言えないのでしょうか?それは、私たち医療者の中に「まずは攻めこまれるな。水際でリスクを回避しろ。そして、自らの正当性を主張することで盾としろ」という強迫観念のようなものがあるのかもしれません。

私は医療者が持つ「自らの正当性を主張したいと考える癖」は、医療者の鎧だと思っています。そもそも疑義が生まれないようにすることが大切なのだと医療者は考えている節があります。そのために、いち早く鎧をかぶるわけです。そして、患者から「あなたの行いは本当に正しかったのか?」と言及されるはるか前から、いち早く自分の正当性を医療者は主張し始めます。そして、その防御的な姿勢はいともたやすく患者側に伝わっていきます。

少し考えればわかることですが、隣に「僕は君の味方です」といって座っている人が甲冑に身を固めていたらどう感じるでしょうか?「えーこの人味方って言っているけどなんで鎧着てるの?実は敵なの?」と感じるのが普通ではないでしょうか?そしてその違和感は、疑念に変わってきます。厄介なことに、医療者の防御的態度は、慰安じゃや家族が持つ疑念にあえて気づかないふりをする、というか、「あなたはそのような感情は持っていませんよね」と仕向けるような方向に話を進めていきます。このような態度によって、疑念は反目に変わっていきます。

残念なことに、医療者が持つ「紛争を回避したい」という気持ちから患者に接する振る舞いは、かえって紛争を生み出す負の連鎖に入っていくと私は考えています。しかしながら、「自分を守りたい」という本能にも似た欲求を医療者から取り去るには大変困難であることも承知しています。

ここで、社会構造的な議論をすることはできるかもしれませんが、私は現場でのこの問題について私が心がけていることのみにとどめます。まず私は、患者の健康状態が不安定であったり、良い方向に向かっていないときには、少しだけスイッチを入れます。このスイッチは「薄着で居る」ことに対するスイッチです。そして、イメージとして、対話の際に対面のイメージから円卓にみんなで座る、というイメージを画像として自分の頭にセットします。その上で、なるべく「医療の専門家」という立場を崩さずに、一方ではなるべく「患者や家族と同じように困ってみる」という立場をイメージして対話の場に向かいます。目の前にある困難や課題に対して、患者や家族とともに困ってみる。しかし、専門家としてなるべくクリアにコメントし、推奨する、という態度を持つようにしています。

もうだいぶ慣れましたが、毎回のようにあえてこのようなイメージ作りをしないと知らないうちに私も自己防御の姿勢をとりがちになってしまいます。自然に患者の支援ができる専門家になれるとよいのですが、それが自然にできてしまうようになると、今度は考えることができなくなってしまうかもしれないのでこのままでいいです(笑)。

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