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人間の自由と尊厳を蹂躙する「絆システム」

SMAPの謝罪会見が怖すぎてもはやホラーレベルであるという声がツイッターなどのSNSで盛り上がったのは、ちょっと自分としては「とても怖い力はあるけれど、日本に住む人たちはまだ死んでないなあ」と元気をもらった出来事でした。

 人間は、もし生きているのであれば常に変化し続ける存在です。そして、人間と人間との関係性もまた、そこに生きた関係性が存在するのなら変化し続けます。私は、日々変わりゆく関係性の中で生きるのが好きです。出会いがあり、別れがあるから人生は輝くのです。

 一方で、変化を許そうとしないシステムが社会の中には存在します。最もわかりやすいシステムは主人と奴隷との絶対的な関係を結ばせる隷属システムです。昭和の時代の終身雇用制度などは広い意味での隷属システムの具現化系なのかもしれません。また、身分差別などはかなり大きな枠組みでの隷属システムです。しかし、これは誰から見ても暴力的で傲慢なシステムであるため、しばしば社会の批判を受けます。

 人と人との関係性、とりわけ、支配する側の人間とその力に巻き取られる側の人間の関係性を確固たるものにし、そこに発生しうる変化を止めようとするシステムとして、愛情や友情、信頼などのなんだか甘い味がしそうな鎖で他者をからみとるシステムがあります。私はこれを「絆システム」と呼んでいます。

 絆システムは一見美しそうに見えます。「私たちはずっと一緒」というスローガンは、「お前は一生俺の奴隷」という言葉よりもずっとやさしくて美しそうです。しかし、私は絆システムのほうが厄介な鎖に見えるのです。なぜならば、隷属あるいは束縛から解放されたいと願う人間は社会からの共感を受けますが、絆を断ち切ろうとする人間は、社会から「わがままな人間」あるいは「冷たい人間」と認識されがちだからです。

 絆システムとは何か?一言で言うのなら、それは同化を強要するシステムといえます。すなわち、「俺と君とは絆でつながっている。だから俺は君の考えていることがわかるし、これからもずっと一緒にやっていけるね」という認識を他者に無理やり押し付けるシステムです。「信じあっている」とか「結ばれている」とか「これからも一緒」とかの強い考えは、多くの場合相互認識ではなく「この人(たち)をからめとりたい」「この人(たち)を私に従わせたい」と考える特定の人間のエゴイスティックな感情と私は思っています。「従う」という言葉はひょっとしたら強すぎるかもしれません。「私と同じでいさせたい」という感じでしょうか?

 ここで、辞書で「絆」という言葉をひいて見ると、驚くべきことが書いてあります。

http://dictionary.goo.ne.jp/jn/52114/meaning/m0u/

1 人と人との断つことのできないつながり。離れがたい結びつき。「夫婦の―」

2 馬などの動物をつないでおく綱。

  私が「絆」という言葉から感じる恐怖はまさに本来この言葉が持っていた「家畜をつないでおくための綱」というイメージです。「私とお前は切っても切れない関係でつながれているのだ。私がお前を守ってあげる。だからもうお前に逃げ道は無い。どこにも逃がさない」と言われている恐怖です。「絆」は本質的な意味を保持したまま、きらきら系の衣装をまとい私たちの社会に仕組みとして入り込むことに成功しました。そこに、批判することが困難な束縛の仕組みが生まれたのです。

  絆システムは他者に対して安心を強要してきます。結果として「安心」があることは喜ばしいことだと考えますが、目的としての「安心」は、自分殺しに他なりません。絆と安心はセットでやってきます。これは、「お前はもう私につながれているのだ。だからもうお前は何も考えなくていい」という言葉だと私は捉えています。SMAPのこの間の会見で草なぎくんが「安心しています」という言葉を使っていましたが、「ひええええ!」とあの時叫んでしまいました。私には、「僕は、生きるのをやめました」と聞こえたのです。

  私は絆のうすい社会を望んでいます。人間が自由であり、尊厳を保って生きられる世界です。ただ、人間として生きる以上不安は必ずついて回ります。そして、耐えることができないほどの不安に対する強力な処方箋は、他者に同化を求め、「私とあなたはいっしょだ」という感覚を得ることなのだと思います。このことそのものを完全に否定すると人間は壊れてしまうかもしれません。ただ、ここで発動された絆システムが持つ暴力性や、巻き取る側、まきとられる側双方に訪れる無動が生む「自分殺し」について常に注意を払っておくべきだと思っています。

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