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羽生選手の件で感じた、他者による強権的な禁止命令が妥当とされる状況について

テレビ見てなくって全然世間の話題についていっていないのですが、羽生選手が頭部を打撲した直後に試合に臨んだ件についていろいろ生産的な議論が行われているようです。私は価値相対性をかなり重視する立場をとっているので、こういう事象が起きた時に「是非」を考えてしまう人間の性をしばしば反省したりします。日本はパターナリズムにあふれていて、個人の選択や意思をないがしろに議論が進んでいくことが多いというのが一般的な私の印象です。

ところが、今回の羽生選手の件については、むしろ議論のフォーカスが「羽生選手の決断」として語られていることが多く、羽生選手を主体者として「立派だった」、「いや、将来を考えると出るべきではなかった」という意見が交わされているのを見て実に興味深いなと思いました。私の意見としては、「棄権する」ことについては羽生選手自身の決断とするべきだと思いますが、「出場する」ことについては彼の決断とするべきではない、より正確に言うと、彼に決断させるような構造にするべきではない、というものです。

頭部外傷のアセスメントは高度に医学的なものです。その状態で体を大きく揺らしたり、転倒のリスクがあるような行動を行うことが、如何に医学的に危険なリスクを持つかということについては、専門家でなければ評価は困難です。さらには、世界が見守る状況で、世界が自分に期待してアドレナリンが体の中から噴き出しているような状況で、目の前にある決断に対し合理的に利益と不利益を査定するなどということができる人間は途轍もない俯瞰能力を持った人間で、普通の人間であれば「出たい!!」と強く志願するのではないでしょうか?

わたしは、今回の状況において、危険を伴う決断をその本人に任せることに反対です。なぜならば、その決断に対して本人が妥当な選択をする要件が全くそろっていないからです。要件とは、<1>本人に合理的な選択を行う能力がある。<2>合理的選択を行う上での情報が整備されている<3>合理的選択を行うための時間的および精神的な余裕がある、という要件です。

これは羽生選手の問題ではなく、あの状況に立ったほとんどすべてのアスリートに適用される環境だと思います。私は、あの場面では権限を持った人間が理不尽かつ強権的に「出場禁止。君がなんと言おうがダメ」というべきだったと思います。

問題は、あの場にそのような権限を持つ人間がいたかどうかということ、その権限がルールとして明文化されていたかということ、さらにはその権限を持つ人間が、権限に対してどれほど自覚的であったかということです。

私は、ルールというものは常に理不尽だし、そして常に理不尽であるべきだと思っています。ルールは人の人格を無視し、秩序を優先させる、それを発動された側の人間にとっては常に忌み嫌うべきものです。そして、だからこそルールというものには価値があると思っています。特に、人を守るルールは、それを発動する人間に覚悟を持たせ、そして強いものである必要があると今回の件を見て私は感じました。

普段は、「本人の意思は?」ということばっかり言っているので、こういう感情が自分にあるのだということを再確認したのもまたちょっとした発見でした。

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