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一万文字越えの自己紹介

はじめまして、びじさばです。
ここでは私がどんな人物で何を目的としてnoteを始めるに至ったのかについて話したいと思います。
タイトルを見て分かるように分量多めです。
自己紹介の概要だけ知りたい人は下の目次を使って飛ばしてください。
時間がある方は長文にお付き合いいただければと思います。

名前の由来

最初に名前について簡単にお伝えさせてください。
誰に教わることもなく、野生児のようにビジネスを学び、様々なことを一人で解決してきました。
そのことを振り返った時、「サバイバルだな」と思ったんです。
そして『ビジネスサバイバー』という言葉が頭に浮かび、その省略語として『びじさば』を名乗ることにしました。

生い立ちと人物像

九州の田舎町で生まれ、17歳で高校中退。その後すぐに親元を離れ、地方都市で一人暮らしを始めました。駅近の6畳1Rマンション、なぜか部屋より広いバルコニー付きで、エアコンと電子コンロ、そして小さな冷蔵庫がついて家賃は4万1千円。そこが初めての一人暮らしの部屋で、持ち込んだ荷物は、布団と衣服が詰まった大きな段ボールが一箱とベッドマットのみでした。

すべての家事を親に依存していた私は、自分の服を洗うという行為さえ経験したことがありませんでした。もちろん一人で洗濯機を回した経験もなく、洗濯用洗剤と柔軟剤と漂白剤の違いも分かりません。若かったこともあって、店員さんに聞く勇気さえありませんでした。散々迷った末に一番安い粉洗剤を買ったことは今でも鮮明に覚えています。ただ残念なことに洗濯機がなかったので、ユニットバスに少しだけ水を貯めて洗濯物を放り込み、買ってきた粉洗剤を振りかけて足踏みして洗うという、現代人とは思えない洗い方をしていました。

社会というものを何も知らない若者だった私は、未成年かつ18歳以下ということで、なかなかアルバイトの採用には受かりませんでした。それでも諦めずに求職活動をしたところ、アミューズメント系の接客業の仕事につくことが出来ました。時給700円、今となっては全国の最低賃金以下の時給で働き、初めての給与は手取り7万円以下でした。

今思えば相当少ない給料ですが、アルバイト経験もなかった私は、通帳に振り込まれたまとまったお金に何とも言えない充実感を持ちました。ですが、頭の中で家賃や生活費などを手取りから引くと「これ生活できるの?」という現実が見えてきます。給料明細を見ながら必死に考え、「生活を成り立たせるためには何をすればいいのか」と試行錯誤する日々が始まりました。

白飯、パスタ、卵、納豆、豆腐、もやし、調味料、これらの組み合わせが毎日の食事で、栄養も偏っていたのでよく口内炎ができていました。ある日サンマが格安で売っていたので購入し、換気扇もせずにそのままフライパンで焼き上げ始めた結果、部屋に煙が充満し、あわや火災報知器が作動する寸前までいきました。その失敗の経験は今でも引きずっていて、魚は切り身や加工品しか買わないというルールが今でも続いてたりします。

そんなワイルドな生活をしながら、少ないながらも家計は毎月黒字で推移し、月3万円の貯金が出来ていました。当時は貧乏でしたが、やること全てが新鮮で将来に対する不安や迷いは一切なく、ただその日を生きるだけの生活で満足でした。それだけ生きることに活力を注いで人生を楽しめていたんだと思います。目の前のことに必死で足掻いていた昔の自分は、間違いなく今の自分より輝いていたと言えます。そんな風にできないこと、分からないことを一つ一つ時間を掛けて身につけていくという経験を繰り返し、少しずつ大人として成長していきました。

ある日の深夜、アルバイトから帰宅していた私はバイクで交通事故を起こしました。その事故は全治二ヵ月くらいの軽いものでしたが、バイト先のシフトを埋められない状況になったため、そのまま退職扱いで処理され、そのまま無職になりました。今考えれば適当すぎて酷い処理だと分かりますが、当時は本当に無知で大人から言われたことをそのまま受け入れていたので、お金をだまし取られなかっただけマシだったともいえます。

そんなこともあり、バイクの修理代や治療費でせっかく貯めたお金が溶けるようになくなりはじめます。生活費のことも考えると半年経たずに貯金が底をつくような状況です。そこで思ったのが次の二択でした。

「実家に戻るか」
「継続して住み続けるか」

その二つでしばらく悩み、仕事を見つける苦労やお金を貯める大変さを知った私は、1年も満たなかった一人暮らしに終止符を打ち、実家に戻るという決断を下しました。そして想い入れのある一人暮らしの部屋を引き払い、実家へと戻ることになります。

実家に戻ってから数ヶ月が経ち、「これからどうしよう」という不安と戦いながら日々を過ごしていました。求人雑誌を買ってきて地元の求人を見ても、一度地方都市に住んだためか選択肢の少なさが気になります。実家にいれば生活は保証されます。しかし、働きたいと思える場所もなければ暇を潰す場所もありません。ただただ感じる窮屈さや生きづらさだけが頭に残り、地元には居たくないという気持ちでいっぱいになりました。

悩みに悩み続けた結果、私は東京へ上京することを決心します。決心といっても大したものではなく、なんの計画性もない田舎者の東京への憧れが背中を押しただけに過ぎません。東京に行けば面白そう、東京に行けば何とかなるという謎の期待感だけで親を説得することになりました。

当たり前の話ですが、そんな無計画な挑戦であってもお金は必要です。普通であれば説得力もない子供の戯言に対して数十万円単位のお金を出してくれる親は多くはないかと思います。ですが、私の両親は何の迷いもなく、その資金を全額工面してくれました。「なぜあの時お金を出してくれたのか」と親に確認したら、こんな言葉を返されました。

「17歳のお前が見知らぬ土地で一人で行って、住む場所を探し出してきたことに驚いた。しかも、誰にも頼らずに少ない給料で短期間で30万円も貯金できたことは、誰にでもできることではない。少なくとも俺にはできない。そんなお前ならどこでもやっていけると思った。だから迷わずお金を出すことにした」

当時の私は生きることに必死なだけで、周りから評価されるために頑張ったのではありません。しかし、私の親はそんな子供の悪足掻きを客観的な目線で評価してくれていました。家族の問題児だった私は実家が嫌いでした。田舎が嫌いでした。正直、居場所がありませんでした。だからこそ離れたかったんです。東京という日本一の都会で生活するという夢は、私の親があっさり叶えてくれました。これは間違いなく私の人生のターニングポイントだったといえます。

上京直後の私は、生活基盤を作るのは二回目ということもあって、特に大きな苦労もなく物件を決めました。埼玉県の県境に近い東京23区内の場所で、エレベーターなしの4階立てマンションの最上階にある14平米の1R、電気コンロと小さな冷蔵庫がついている小さな部屋が東京生活の拠点です。地方都市で住んでいた部屋より狭く、家賃も1.4倍ほど高かったため、家賃を払い続けられるか不安になりながらの契約でした。

引っ越して直ぐにアルバイトを探し始め、自宅の近くという安易な理由で携帯ショップ店員として働き始めます。地方都市と比べて東京の時給はとても魅力的で、どの求人も地方都市の深夜帯以上の時給が掲載されていました。そして私は時給900円という新たな条件で接客業の道へと進みます。

中卒の18歳を雇ってくれたところは、破竹の勢いで店舗数を拡大している会社でした。実力主義を謳っていたこともあって、販売力があれば誰でも構わないというような方針で大量採用をしており、そこに上手くマッチして採用に至ったというわけです。そんなこともあって色んな考えの人が集まっていて、私みたいな半端者でも差別されることは全くありませんでした。

そこで作った実績としては、全国数千店舗参加の契約件数を競ったコンテストでトップを取ったことが一番の実績になります。短期間でインパクトのある実績をあげたことで、19歳で店長としての役職を与えられ、アルバイトながら店長という肩書で仕事をさせてもらえました。

そんな刺激的な毎日を過ごしていましたが、会社的には急激に店舗拡大した影響もあって、数年後には大量閉店となってしまいました。私自身もその煽りを受け、会社都合の退職を余儀なくされました。離職後は携帯販売の職歴を活かし、アルバイトから携帯販売派遣へと軸足を移すことで時給の単価を上げることに成功します。単価が上がったとはいえ年収250万円以下の低所得者ということは変わりません。どの場所でもトップクラスの販売成績を残す不思議な派遣スタッフとして関東圏の色々な店舗を渡り歩きましたが、年収が大きく増えるということはありませんでした。

低所得者のまま22歳を迎えた私は、「このままでいいんだろうか」という将来への不安を感じていました。東京で安定的な生活をしながら、自宅と仕事先を行き来するだけの生活。それを淡々と続けているだけの毎日の中で「このまま携帯販売業を続けた未来には何があるんだろう」と考え始めます。

まずイメージとして現れたのは、家電量販店で働く年配の販売員の姿でした。雑誌やネットで接客業の求人を調べると求人票が載っています。しかし、どの求人票を読んでも魅力的だと思えない自分がいました。

「この未来を受け入れられるのか」
「もっとワクワクするようなことはないのか」
「こんな人生でいいのか」

そんな葛藤みたいなものを感じつつも何も変えられない。そうして妥協しながら、いつも通りの生活を続けました。時間が経っても不安が消えないことに気が付いた私は、一度リセットする意味も兼ねて、勢いで無職になりました。当然の話ですが、周りからすると「辞めて何をやるの?」という話になりますよね。そういう声に対して適当な理由を並べて時間稼ぎをしつつ、私が最初に行ったことは自己分析でした。

「なぜ」という言葉を何度も自身に問いかけ、自分の本心に向き合い始めることで本当にやりたいことを知ろうとした感じです。なぜ携帯販売業じゃダメなのか、なぜ接客業は給料が安いのか、どんなところにいけば高給取りになれるのか、幸せな生活をするためには何をすればいいのかなど、色々な疑問に対して考えを巡らせ、自問自答することで気持ちを整理し、自身の方向性を固めていきました。

誤解のないように補足しておきますが、決して接客業が悪いわけではありません。現在でも必要とされる職業であって、接客サービスは商いの基本となる職業の一つです。当時の私はキャリアや社会的意義というものを正しく理解しておらず、高給取りになれば幸せになれるという短絡的な考え方をしていました。給与という面だけを見た場合、接客業はビジネスモデル的に年収が低くなりやすいです。しかし、その中でも高額な給与を得ている人は存在しますし、場所によっては外国語や高度な交渉術などのスキルが求められます。当時の私はそういう道があることを知らず、限られた範囲の中からしか情報を汲み取れない未熟さがあったというわけです。

当時、高額時給の求人として興味を持ったのがIT系の求人でした。未経験可と書かれているものもいくつかありましたが、実際に連絡をしても全く相手にしてもらえません。相手にされなかった理由は、採用する側が期待していたものが本当の未経験ではなく、情報系の大学やIT専門学校の学生などを狙って出していた求人だったからです。

面接にすら辿り着けないという事実に直面した私は。貯金で一台のデスクトップPCを購入しました。「さぁ、やるぞ」と息をまいてパソコンを立ち上げ、基本操作を一つずつ身につけ始めます。色んなソフトウェアをインストールしては操作感を試しながら、パソコンにはどんな可能性が隠れているかを確認していました。

途中オンラインゲームに浮気などもしましたが、着実にIT関連知識が増えていきました。その勢いでWEBサービスの立ち上げに挑戦することになります。時代的にはブログサービスが出始めていたころで、個人ページからブログへの移り変わりが始まっていた時期です。また色んなアフィリエイト会社が立ち上がってWEB広告業界が大きく成長していた時期でもありました。

WEBには色々な稼ぎ方があります。その中で私が選んだものは、エンタメ系のニュースサイトをゼロから立ち上げ、広告収益を得ることでした。ホームページスペースやブログといった便利な無料サービスがあったのにも関わらず、素人が誰の手助けもなくネットワークやサーバーから作り始めるという過酷な挑戦です。これだという直観とやる気だけで高い壁を乗り越えようとしてたわけです。

自己解決、自己責任という二つの単語は、パソコンと触れ合う中でインターネットから学んだものです。分からないことがあっても誰にも頼らずに自己解決する、その行動を忠実に守ってきました。分からないことがあればネット検索をする。それでも分からなければ試行錯誤する。それでも分からなかったらネット検索に戻るという風に、正解に辿り着けるまで諦めないという粘りの精神です。人に頼るというのは最後の最後の手段で、そのせいで酷い時には数週間分からないこともありました。しかし、圧倒的な経験を積むことで問題解決能力が大幅に上がり、知識だけではなく大きな知恵も身につけることができました。

「経験を積むことで分からないが減り続けていって分かるようになる」
「経験を積むことで未知への対応パターンを網羅し、どんな問題でも進む道を切り開ける」

今となってはこういうことがわかりますが、当時は本当に何も分からない素人だったので、目の前には闇がずっと続く感じでした。誰の手助けもなくIT専門職の世界に手を出すことは辛いです。しかし、それは必要な苦労だったというのは間違いありません。この苦労によって「分からない事でも必死に努力すれば、不格好だけど意外と何とかなる」ということを身をもって学んだわけです。

そんな生活を三ヵ月ほど続けた結果、会員機能がついたニュースメディア型のWEBサイトが完成します。このタイミングで気付いたこととしては、WEBサイトを立ち上げただけでは自己満足の世界で終わるということです。どこにあるかも分からない無名のサイトにアクセスする人はいません。お金を稼ぐためには相応のアクセスが必要。そこに気付くことができました。

アクセスを集めるという課題解決のために挑戦したのが、WEBマーケティングとコンテンツ強化でした。国内外の話題性のあるコンテンツを見つけては記事を書き、外部からのアクセスを増やすという努力をし続けた結果、WEBサイト公開から3ヵ月ほどで、そこそこ有名なエンターテインメント系のWEBサイトの立ち上げに成功しました。どのくらい有名だったかというと、ライブドアブログ全盛期の上位ランカーから定期的に記事を拾ってもらえるくらいのレベルのサイトになります。

ここからマネタイズだと思ったタイミングで貯蓄に陰りが見え始め、生活資金を貯めるための労働が必要になりました。数ヶ月前までは完全に素人だった私はプロとは言えないにしろ、それなりの実績があります。そこで培った経験と実績をひっさげて再度求職活動をしたところ、中卒で業務経験なしにもかかわらず、IT専門職のアルバイトとして採用されました。これがITエンジニアとしてのキャリアチェンジ成功の瞬間です。

採用された会社の本棚にはIT技術書がズラリと並んでいました。全てネット検索のみでITスキルを身につけていた私にとっては初のIT専門書になります。書籍から学ぶという基本的なことも知らなかった私は、業務時間外も技術書を読み漁り、本棚全ての技術書を読み終えました。分からない用語は調べ、理解できないものは実際に手を動かして把握したおかげもあって、在籍して直ぐに情報系専門卒の方々からエースと呼ばれるような存在になっていました。

そんなある日のことです。駆け出しのIT技術者として充実した日々を送っている中、完全に放置していた自身のWEBサイトのサーバが故障し、苦労して立ち上げたサイトの閉鎖を経験することになります。その経験で「WEBビジネスとして耐えうるITシステムとはどういうものなのか」ということを強く意識するようになりました。と同時に、ITエンジニアとしてのキャリアアップについて考え始めました。

「ITスキルを磨ける就業先への転職」という目的で求人サイトを見始めますが、一つの問題にぶつかります。学歴の問題です。当たり前の話ですが、4大卒、短大専門卒、高卒、中卒の順で応募できる求人が少なくなります。そして、今の学歴では大企業で雇ってもらえる可能性はほぼありません。そういう理由もあって学歴を一段階上げるために通信制の高校へ通い始めました。元々高校2年まで学校へ通っていたこともあって、卒業に必要な単位数はそれほど多くもなく、転入から1年で無事に高卒の資格を得ることが出来ました。

中卒フィルターが外れた結果は予想以上で一気に応募の枠が広がりました。気になる求人に数社応募したところ、上場企業の情報システム部の正社員として採用されました。有名大学卒の人達が新卒で入るような会社に中途入社で入るという離れ技をやってのけたわけです。しかし、私はこの会社でITスキルだけでは通用しない世界に直面します。

まず経験したのが社内政治です。会社課題やプロジェクト課題に対する議論や解決ではなく、社内での権力者に対しての立ち回りが必要でした。報連相や社内調整から始まり、取引先との交渉、社内ITプロジェクト推進などを同時進行で進めていくのですが、全て自分主体で進めていたやり方とは違って、上司や関連部署への調整などで全くやりたいことできず、何も進まない何も進められないという状況に陥りました。また肝心のITスキルは業務上ほぼ活かせれないという状況です。

次に経験したのが厳格な組織管理中心の働き方です。問題解決の糸口が目の前にあっても、縦割り組織では他部署に手を出せません。自部門の問題であっても色々な権限の問題で調査すらできません。効率重視ではなく管理重視の考え方が強い組織ではリスクを取った行動が取れません。当時目的志向しか経験していない私は未熟で、その環境に直ぐに対応することができませんでした。

連日深夜帰宅をするほどの努力を1年積み重ねましたが、評価面談の場で部長から年収ダウンを告げられました。年収350万円だったのを50万円下げるという話をされ、その場で退職を決意し、辞職の意向を伝えました。当時の私は、担当役員と部長から仕事ができないメンバーという扱いを受けており、そのストレスで睡眠障害や体中に発疹がでるなどの身体的症状が現れていました。評価をされないのであれば、ここでの努力は苦しむだけになる、ここから逃げなくてはいけないという気持ちで退職を決意し、降格の話が出た時には自然と渇いた笑いが出たのを覚えています。

同時期に入社したメンバーは15人ほどいましたが、私が退社する時には誰一人残っておらず、たった1年で全員辞めていきました。情報システム部で入退社処理に関与していたので誰が辞めるのかは一目瞭然で、初めてのデスクワークで比較対象がなかった私でも、一人一人と同期が辞めていくのを見て異常なことだと感じていました。これが特定部門や部署固有の事象であれば納得しやすいですが、全部門に渡って退職者が出ていたので、組織全体の問題だったことは明白です。

そんなブラックな環境で1年過ごしていましたが、ヘルプデスク業務も兼ねていたこともあって、各部署の方とも良好な関係を築けていました。私個人の送別会が開かれた際には、全従業員の20%が集まるような扱いを受けました。古株の方曰く「過去一参加者が多い」と驚かれていました。本当に仕事が出来ずに周りに迷惑をかけていたとしたら、盛大な送別会もなくひっそりと退社することになっていたはずです。しかし、他部署からの評価は全く違っており、実務で関わってた管理職クラスの人からも不当評価という話を聞く事ができ、その言葉にとても救われました。

ここからは割愛して駆け足になります。その後、教育系ITベンチャーへ転職。ITインフラ部門のメンバーとして数年を過ごし、コア人材として扱われます。そして29歳の時、その職場で出会った方とB2B向けのIT企業を設立し、代表取締役として就任しました。数年後、支出に対する価値観の違いで退任の意志を伝え、取締役へ降格願いを出し、その一年後に取締役を退任して無職になりました。形的にはバイアウトになります。

退任して半年経たずして転職エージェントからスカウトが入り、有名インターネットメディア事業会社のIT部門マネジャーとして声が掛かりました。そのスカウトを承諾し、3年いかないくらいの在籍期間を過ごしました。そこでは全部署から相談を受けるような立ち位置を確立することができ、当時の関係者からは今でも連絡を貰える関係性を築けています。創業初期から今もその会社に在籍している元部下からは「私がいた時期が今まで一番良い環境だった」と今でも伝説のように語り継がれていているらしく、よく名前が出てくるそうです。

退職後は色々と悩み、悩んだ末に二回目の起業へと踏み出します。実店舗型のサービスを立ち上げるために新たな法人を設立しましたが、資金調達のタイミングでコロナショックとなり、いきなり事業が頓挫する危機に陥りました。その危機に対して事業の軌道修正をすることで何とか初年度黒字化を実現し、現在は4期目を迎えています。

ここまで読んでいただいた通り、私が通ってきた道は綺麗なレールに乗ってきた人生ではありません。道なき道をグニャグニャと手探りで歩きながら、キャリアと資産を築いてきました。世の中には輝かしい経歴を持った方がたくさんいますが、私のような者でも上手く立ち回れば、それなりの位置に辿り着けるということを伝えたいと思っています。

累計して10年ほどの経営者経験がありますが、経営者人生で一度も赤字になったことがありません。黒字の会社が良くて赤字の会社はダメという話ではなく、継続して黒字にしてきたという実績はそれなりの信用に値するものだと思っています。もちろん多くの失敗も経験しているので、全てが順風満帆だったわけではありません。今まで経験した苦労話、その経験を通して磨き上げた考え方には、それなりの価値がついてほしいと思っています。その情報が誰かの役に立つことがあればいいなと思って行動に移すことにしました。

何を目的としているのか

自身の体験や考え方を情報として提供することで、どのくらいの価値がつくのかという部分に興味があります。
つまり、自分の価値を確認することが目的になります。

以上のことから有料記事も投稿していきます。
購入時の判断基準としては、このページや他の投稿記事の品質と同じ形になります。
なので、タイトルと触りの無料公開部分を確認した上で、購入のご判断をしていただければと思います。
販売価格については、売れ行きなどを見て調整しますが、基本的に安くしない方針でいきます。
なぜかというと、既に購入してくれた人が損したと思わないようにするためです。

また無料記事として投稿したものについても、一定時間を経過したタイミングでバックナンバーという形で有料マガジン化します。
気になる無料記事があったら、早めに読むことをオススメします。

どんなものを書いていくのか

まずはこの記事に書かれているような体験談を書いていきます。
とは言っても書けるネタは限られているため、考察記事などを挟みながらコンテンツにボリュームを持たせていこうと考えています。

ジャンルとしてはビジネス系で、その他に金融や会社組織運営におけるよくある話などを広く浅く扱おうと考えています。
note運用の知見がある程度貯まったら、教科書みたいなものを作って販売予定です。

生い立ちを見てもらえば分かりますが、ワーキングプワ層から脱却するのが如何に難しいかということを知っています。
本来であれば、今のような暮らしができる人生ではありませんでした。
そんな人物がどういうことを考え、どういう行動をして高所得者になったのかを赤裸々に綴っていこうと思っています。

一つの道筋を知れば視野が広がります。
その道筋が全ての読者にとって役に立つとは思いませんが、それを知っているか知らないかで変わることもありますよね。
失敗を未然に防ぐことができれば時短になりますし、物事の本質を知れば成功しやすくなります。

労働者目線、管理者目線、経営者目線、お客さん目線のように、同じ物事でも目線によって感じ方や捉え方は変わります。
一方向だけの狭い視点だけでは表面的なものになりがちです。
本質に迫った記事を読んでもらうことで読者の視野が広がる、そんなものを提供できたらと考えています。

ターゲット層は若手社会人と起業や副業を目指している人です。
投稿を重ねることで読者がどういうものを求めているのかという指標が見えてくると思うので、その辺を確認しながら柔軟にやっていこうと思っています。

投稿頻度については約束ができないので不定期運用です。
反応が良ければ面白くなって筆も進むかもしれません。

現時点で投稿を考えている記事はこんな感じです。
 ※ここに掲載していないのも含めると100くらいのネタがあります

  • 黒字経営の立ち回り方

  • フリーランスを始める前に読んでおくと良い話

  • 手を出してはいけない副業の話

  • 株式投資や暗号資産投資の銘柄選定ノウハウ

  • お金持ちになるための行動学

  • 数ある接客の中で身につけた売れる極意

  • ビジネスでよく使われている肩書の裏側

  • 小型店舗が大型店舗レベルの販売実績を作った話

  • 有料記事の販売価格を決めるのに必要な知識

  • 胡散臭いビジネスに騙されない防御力を身につける方法

  • 2000万円の価値があったNFTが迷子になっている話

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中の人はどんなスキルを持っているのか

ITエンジニアとしてのスキルは広く浅くではありますが一通り揃っています。
バックオフィスや企業経営にも長年携わってきたので、会社に一人いると便利な人物だと思います。

対外的な評価を例にあげると、私がIT要員として外注で動く場合の元請け単価は、最高月額180万円で最低125万円です。二次請けだとそこから15%ほど安くなります。

もう一つの対外的評価としては、とある転職サイトのスカウト機能を有効にしてますが、次のようなスカウトが最低でも数日に1回以上は来ています。
COO、CTO、VPoE、事業責任者、部長(IT部門、マーケティング部門、事業開発部門)、プロジェクトマネジャー、プロダクトマネージャー、プログラマー(WEB、組込)、インフラエンジニア、ネットワークエンジニア、クラウドエンジニア(SRE含む)、QAエンジニア、コンサルティング(IT、経営)

10代後半から携帯販売の実店舗を任されていたこともあるので、店舗運営の基本は抑えているつもりです。ジャンルに縛られないように様々な商売の事業分析を定期的に行っているので、色んな業界の知見を持ち合わせていたりします。

またネットビジネスも過去に複数回チャレンジをしていて、WEBサービスの企画から構築、立ち上げまで一人で行い、一番成功したサービスは一日数万PVで、一定のファンができるところまで経験しています。

金融投資の実績としては、3期目は営業売上0で投資益のみで黒字を達成しました。
本業を頑張れよって話ではありますが、一つの挑戦として頑張った結果、インパクトのある面白い成果を残せたと思っています。

現在は何をしているのか

ブロックチェーンの将来性を信じてGamefiでどの程度稼げるのかを検証中です。
仮想通貨市場は絶賛ベアマーケット中ですが、今のところ投資額以上の含み益は確保できていてなんとか黒字で推移しています。

SNSプラットフォームを使ったビジネス研究を始めました。
noteもその一環です。完全に無名だからこそ伸びしろしかないはずです。

最後に

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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