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【短編小説】ダイヤの原石

 クリスマスが来る前に、一度俺の部屋に遊びに来ないか? と大原くんから誘われた。去年授業で編んだ、ボコボコした黒いマフラーでその口を隠しながら、大原くんはわたしの顔をまともに見れず、反応を怖れながらおずおずと提案した。意地悪なわたしは、なんで? と聞き返す。大原くんは、それは、と言い、視線を泳がせためらいながらも、またマフラーを押し上げて口を隠し、堂々とキスがしたいから、と恥ずかしそうに自白した。
 
 わたしと大原くんは、今年の夏から交際を始めた。好きだと言ってきたのは、大原くんのほうだった。

 藤井さんの顔、キララちゃんと似ているんだ。
 アニメ系の雑誌を開き、大原くんはわたしにキララちゃんの顔を見せてきた。キララちゃんは、肉付きがよく、まるまるとしていて、一重まぶたで、鼻が低くて、顔は一般の人より大きかった。わたしはというと、子どもの頃から容姿のことでいじめの標的とされ、中学に上がった頃にはあるお笑い芸人に顔が似ていると言われ、クラスや学年を越えた人たちが、笑い物を見に来るために、わたしがいる教室を覗きにきたほどだった。ちなみに、その芸人は、40代の男性だった。
 大原くんは頬を紅潮させ、「初めて見たときから、その……、藤井さんと仲良くなりたい、と思っていた」と言う。大原くんが推しているキララちゃんとやらは、マイナーなアニメの声優さんだった。マイナーなアニメだけど、キララちゃんが担当しているキャラは、神に愛されているようなグラマーで金髪の美女だった。

 大原くんがわたしを見つけたのは、図書室。本の中でしか恋人を探せなかったわたしは、高校に入ると図書委員に立候補した。本を借りにくる生徒はあまりいないから、図書委員の当番になっても、カウンターで合間に好きな本を読むことができた。ちょうど、大原くんが声をかけてきたのは、わたしがエミリ・ブロンテの「嵐が丘」を読んでいる最中だった。
 初めて大原くんを見たとき、皇室にいそうな顔をしている、と思った。すっきりとしていて、落ち着いていて、どこか寂しそうな顔をしていた。大原くんは、わたしを見ながら頬を赤くさせて、「あの……、返却期限っていつまでなんでしょうか?」と返却のルールをわかっているのに、聞いてきた。わたしが1週間まで、と簡潔に答えると、会話が途切れるのが嫌だったのか、また質問をしてきた。「読書感想文の課題図書を探しているんですが、何がいいと思いますか?」。知らんがな、とわたしは思ったが、てきとうに「三島由紀夫の『仮面の告白』」と答えておいた。今思えば、「仮面の告白」で読書感想文を書くのは難しい。

 それから大原くんはちょくちょく顔を出してきて、5回目くらいで連絡先を聞いてきた。初めてのことだったので、わたしは大原くんが何をたくらんでいるのか理解できなかった。もしかしたら、変な宗教に入っているのかもしれないし、宗教でなくとも、偏った思想のサークルに入り、断るのが苦手そうなわたしに目をつけ勧誘してくるのかもしれない。などと込み入ったことを考え、連絡先を聞かれたとき、なんで? と用心深く聞き返した。なんでわたしとLINE交換したいの? 
 その瞬間、大原くんは熟れたトマトのように真っ赤になった。
 じつは……、俺の好きな声優さんと、似ているんだ。
 それから、大原くんは自分のリュックからアニメ系の雑誌を取り出してきて、わたしに見せた。藤井さんの顔、キララちゃんに似ているんだ。だから、その、なんというか……惹かれる。
 今度はわたしが赤くなる番だった。でも、大原くんには気づかれていないと思う。大原くんはそのとき、ずっとわたしではなくキララちゃんの姿に目を落としていたから。
 
 その大原くんが、クリスマスの前に家に来いという。
「俺の部屋で一緒にコンビニのスイーツでも食べてさ、映画でも見てさ、それで……キス。そう、キスして解散」
 その一連の流れを、マフラーで口を隠したまま、わたしの顔を見ずに、顔の横で蠅を払うように手をふりふりしながら提案する。キスして解散ね。結局したいのはそれか、と呆れてしまった。
「……だ、だめかな?」
 初めて向き合った大原くんの大きい眼鏡は、曇っていて、瞳は半月のように中途半端に見えた。わたしはあえて迷っている素振りをした。そうね、と言いながら、リュックのベルトを引っ張り、地面に敷き詰められたタイルの模様を眺めながら歩いた。隣で大原くんが焦っている気配を感じた。いいぞ、その調子。キスが嫌なわけではないけど、わたしは大原くんに、もっと慎重になってほしかった。
「あ、あの……、途中で嫌だったから帰ってもいいよ? ただ俺は、藤井さんと、クリスマスの前にでも一緒にいたいと思って」
 もっと近づきたいと思って。
 付け加えたその言葉は霞のように曖昧に響いた。
 
 そして今、大原くんの部屋にいる。
「部屋ちょっと汚いけど……、藤井さんが来るから頑張って掃除機かけたんだ。てきとうに座って。そう、そこらへん。あ、音楽でもかけようか? 何が好き?」 
 ちょっと汚いけど、と前置きをしたわりには、大原くんの部屋はきれいに片づいていた。テーブルの上に置かれたティッシュの位置は、テーブルの端と正確に平行だったし、ラグの上には何も置かれておらず、毛のひとつもない。趣味趣向が表れる本棚には紺色の麻のカーテンがかけられ、大原くんの秘密は守られていた。
 とりあえず、birdyかな。と、答えたら、大原くんがきょとんとして、わかった、バードね、とひとり得心して、鳥のさえずりのヒーリング音楽を流した。説明し直すのも面倒だから、黙っていた。
 ヒーリング音楽を聴きながら、わたしたちはコンビニのケーキをそれぞれ食べ、そのうち大原くんと関わりのある友だちの話題がのぼった。
「伊藤は明日、彼女と水族館に行くんだって。1か月前から計画しててさ。そこで指輪を渡すらしいよ」
「指輪? なんかプロポーズみたいだね」
「うん、伊藤のなかではそんな感じ。初めてできた念願の彼女だし、もう離したくないんだって。今まで振られてばっかりだったしさ」
 ふーん、と唸り、プラスティックのフォークについたクリームを舐めた。それから大原くんの話は飛び、今度は片思いをしている加納くんという男子の話をした。加納くんの相手は、バイト先の先輩で、女子大生なのだが副店長と不倫関係にあるらしい。加納くんは「ぜってぇ、俺と一緒にいたほうが幸せになるのにさ」と悔しがっている。それからまた話は飛んで、今度は好きなひとと一緒の大学に入りたいがために、D判定でも頑張って勉強している戸村くんのこと。けれど彼が愛するその彼女は学校が違い、接点が少なく、完全なる戸村くんの片思いだということだった。
 大原くんは次々と友だちの話を列挙していき、次第にわたしは大原くんの身振り手振りの動きがいつもより大げさになっていることに気づいた。おそらく、話をしないとこの場がもたないと思っているのだろう。そのうち、大原くんの喋りが途切れ、ネタがつきたようだった。そろそろ、映画でも見る? とわたしは大原君のiPadを指さして、少しでも気詰まりな思いをさせないようにした。大原くんは、ああ、うん、と曖昧に言い、そして「これ、画面ちょっと小さいから、近くに寄ってもいい?」と声を震えさせながら言った。数秒わたしは黙ったあと、わたしの隣をぽんぽんと軽く叩き、「どうぞ」と誘った。
 近くに来た大原くんは、雑草の匂いがした。男の子とこんなに接近するのは初めてで、大原くんの顔は見れなかったが、彼の息の音がいつもより耳に響いてきた。ふたりで、デスゲームの映画を選び、それを見ながら大原くんは手を握ってきた。大原くんの手の皮膚は厚く、そして硬く、肌の感触はざらざらしていた。男の子ってこんな手をしているんだ、とわたしは少し驚きつつも、大原くんの体温の高さになぜか安心してくる。画面ではひとが容易く銃撃され、崖に落とされ、海に沈められ、と散々な様子であるのに、大原くんの顔は火照っていた。
 主人公が樽のなかに入れられ、外側から短剣を刺される、というシーンで、わたしの指先に大原くんの指先が絡み、大原くんは顔を近寄せてきた。戸惑ってわたしが顔を少し引くと、大原くんの上品そうな顔立ちに不安の影が表れ、キス、してもいい? と自信ない声で訊かれた。断ったら、大原くんは素直に引き下がるだろう。そして、しょげた顔でずっとデスゲームを見るだろう。哀れに思う気持ちよりも、情けなさを感じるよりも、わたしの心を占めていたのは、大原くんへのいとしさだった。
 目をつむって、大原くんと指先を絡め直した。これがわたしなりの合図。暗闇の向こうで、大原くんが小さく笑う息の音が聞こえた。唇が重なり、鼻のあたりで大原くんの匂いを濃く感じる。今度は雑草の匂いではなく、さっき食べたガトーショコラケーキの、甘い匂い。
 顔が離れてから、しばらくお互いの顔をまともに見れなかった。

 ふたりとも静かにデスゲームに向き直り、やがて大原くんが「これって、すごく残酷だよね」「見ていて痛くなっちゃうな」と、腕をさすりながらわたしに話しかけた。照れ隠しだと、わかってしまうような饒舌さで。それを遮るように、
「キララちゃんのこと、本当にかわいいと思う?」
 あえて意地悪なことを大原くんに訊いた。大原くんは目をしばらく、ぱっちり開いたままで、「うん」と頷いた。変わっているね、という言葉はしまい、無意識に唇を舐めた。ラグの上に置いた手に大原くんの手が重なり、「ダイヤの原石だと思っているよ」と言いながら背けた顔が赤かった。
 キララちゃんのこと? わたしのこと? そんなことは訊かない。大原くんが被せた厚い皮膚の手のひらが、とても優しかったから。
 その日、大原くんの提案どおり、ケーキを食べ、キスをして、映画を見て、そして無事解散した。

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