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【掌編小説】去年の冬、別れた彼女とは

去年の冬、つまり年が変わる前に別れた彼女とは、学生の頃からのつき合いだった。同じ学部で、帰りの電車も一緒で、趣味も同じ—―必ず帰り道には書店に寄って、岩波文庫や新潮クレスト・ブックスやハヤカワ・ミステリを探し回る――だったから、必然、顔を合わせば話すことも多かった。どちらかというと、僕のほうから好意を抱いて彼女を家に誘った。それからつき合いが始まった。

――恋人というより、気の合う友だちって感じだよね。

同じ学部の人間に、僕たちの仲をからかわれたとき、彼女は冷静にそう答えた。まあ、そうかもね。そう僕は同意しながらも、内心、彼女の冷たい言葉に腹を立てていた。

去年の冬、だよな。もう、去年のことになったんだな。

再度頭の中で確認すると、時間が僕を置き去りにしていく非情さに途方に暮れる。横断歩道で呆けた顔で待ちながら、骨の折れたビニル傘を差している僕はどんなに間抜けに映っていることだろう。まあ、この人混みのなか、僕に関心を払っている人はいないだろうけど。隣でスマホを触っている赤い髪の女の子や、斜め前にいる僕と同性代くらいの渋いトレンチコートを着た男性会社員とか、僕がこの場で泣き出しても、青信号になったら僕を無視して(あるいはどけて)、真っすぐに進むんだろうし。

そういえば、信号の色が滲んで見える。目が疲れてかすんで見えるのかな。それとも、僕は本気で泣いているのか?

確かめるために、目がしらを指で触ったら、冷たい水がこぼれてきた。男の子なのに、泣くんじゃない。泣き虫だった子どもの頃、親にしつけられたことを思い出す。今でも、そんなセリフで親は男の子をしつけるのだろうか。男は泣かない、とは、論理的でない言葉だ。

綾は――去年の冬、別れた彼女――、僕が泣き出すと、しらじらとした目を向けた。あるいは、また? と呆れた声で返し、しかたなく、といったふうにティッシュを差し出してきた。

だって別れるなんて言うからさ。

もうすぐ、信号が青に変わる。直前になると、信号待ちをしていた、道の両岸にいる人たちの佇まいが変わる気配がする。僕も涙を拭いて、傘の柄を持ち直して、進む準備をする。

どうして別れたいの? 俺に不満があるなら言ってよ。全部直すからさ。

青に変わった。僕は都会の社会人のように装って、澄ました姿勢で歩き出す。河の流れに乗る魚のように、人は器用に人間という障害物を除けながら、道を歩いていく。綾は、都会の交差点や乗り換えをする大勢の人たちを「なんか鰯の群れみたいだよね」とたとえていた。水族館に連れて行ったとき、通勤する光景を想像したらしい。それは文学的な比喩ではないな、と、僕は笑ったのだけど。そもそも文学的な比喩っていう言葉が、あやふやなものだ。

別れ話をしたのが、煙草の匂いが充満する純喫茶。考えてみれば、僕も彼女も煙草は吸わないし、全室禁煙のチェーン店のカフェでもよかったんだ。あえて、古い純喫茶を綾が指定してきたのは、ただ単に、そこに来ることはあまりない、という理由からだろう。その場所に来なければ、別れ話を切り出したときの空気も、僕の泣き顔も思い出さなくても済むだろうし。

――あんまり、田中くんのこと悪く言いたくないし、田中くんを更生させる労力も払いたくないんだ。だって、本当に変わりたい? 他人のために? つき合っている間、楽しかったよ。だから、楽しいままで終わらせたい。これ以上いると、わたし、いつか田中くんを殴るかもしれないし。

それって、つまり僕のことが疎ましかったんじゃないの?――なんて言わなかったけど。本当に綾が、僕を殴るかもしれないから。

横断歩道を渡り切ると、目の前に綾と同じ髪型――明るいブラウン色の、ショートボブ――をした女の人が、傘の代わりにジャケットを頭の上にかざして小走りで駆けていくのを見かける。不覚にも、僕はその人を追いかけていた。綾じゃないことはわかっているし、見知らぬ男に傘を譲られても、単純に善意だと思ってくれないかもしれない。でも、僕の足は思考と真逆の行動をとる。

「――あの、」
声をかけて、振り返った彼女は、当然綾の顔立ちとは違っていたけど、僕は自然と微笑むことができた。
「僕の家、すぐ近くなんで。傘、どうぞ」
彼女の顔が歪んだ。動揺、混乱、不審、そんなものが、目の前にいる女性の顔に立ち現れては、消える。
「いえ、でも」
「別にいいんで」
と、言った瞬間、僕はビニル傘の骨が一部折れていたのに気づく。ゴミを差し出すようなものではないか。
「あ……、すみません。こんなもの、いらないですよね」
ふたりの間に微妙な間ができ、その間に僕は強さを増す雨に打たれていた。彼女が僕の傘を手に取ろうかためらっているのがわかり、僕は「使ったら、捨ててください」と無理やりに押しつけて、逃げるように雨宿りができるビルに向かって走っていった。振り向いたりなんかしなかった。

――ただ、理由を挙げるのだとすれば。

綾は泣き腫らした僕を哀れに思ったのか――そんなことを考えるだけで、僕の自尊心は深く傷つけられるのだけど――アメリカ―ノを飲み終えてから、言った。

――田中くんとは、ずっと気の合う友だち、という感じ。その先に行くことはないんだな、と思ったから。

ふざけたセリフだ、と僕は笑う。気の合う友だちなら、今でも連絡を取ればいいじゃないか。あの別れ話以来、綾との連絡が途絶え、今でも僕は綾を思い出して泣いたり、綾の姿を(似ている人の姿を)追いかけたり、そうしたりして後悔している。

雨はいずれやむのに、冬はもう過ぎたのに。綾との関係は、もう思い出となってしまったのにさ。

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