残像だ

ヨガの行者がろうそくの火に手をかざすように、痛いとか辛いとか苦しいとかいう現象っていうのは自分のこころが作り出すまぼろしであり気のせい・思い込みだという説をとっているので、いやなことが脳裏をよぎってもはいはい気のせいね、とやり過ごすようにしているのだけれども、どうしても本物の馬鹿に絡まれるようなことはよくあり、いやわかっている争いというのは同等のレベルのもの同士でしか成立しないのだということはよくわかっている、つまり自分と同じくらいの馬鹿にからまれることはどうしてもあり、うわあ馬鹿が来たとおもうとどうやら顔と態度と言動にそれらを出すのが私の生き方らしく、これもまた自分で止められず、かといって心でさまざまなまぼろしだったり思い込みを作り出してしまう程度には脳みそが機能していて、あのお馬鹿さんがこのように動くとこうなるわけで、だとか、あのお馬鹿さんが利益だと考えうる状況はこれとこれとこれで、それらの利益を最大化するためにとりうる道はあれとあれとあれで、その場合に自分に降りかかってくる負担はその程度になるわけで、みたいなことをすっと考えざるを得ず、上記のまぼろしや思い込みにとらわれるわけです。わかっている、これらはすべて気のせいだとわかっているし、実際は私もいい大人だしお金をもらうためにペコペコすることにはまったく戸惑わないタイプなのでペコペコペコペコペコペコペコペコするのだけど、それにしても、生きるというのは苦しみの連続だという前提で、こういったまぼろしや思い込みっていうのは拷問と拷問の間の休憩時間のように胃痛となってあらわれるわけです。先週も私は生きていましたつまり面倒くさいことだらけでした。柔術だけに限っていうと楽しいことしかなかったし最高に素晴らしい体験をみんなとしていたものだと断言していいくらいの楽しい時間だったのだけれども、それ以外の人生のひきこもごもがどうしようもありません。ちなみにいまは拷問と拷問の間の休憩時間は終わった状況なので胃の痛みは消えており、雑事をこなすわけです。雑事、つまり拷問を受けることそのもの。問題に耐えるだけなら何もつらいことはないのだけれども、その直前の自分の脳が見せるまぼろしが辛い。犬になりたい。

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