見出し画像

間違えられないことがストレス

今日は歯医者に行った。
3ヶ月に一回定期検診に行っていたにも関わらず、虫歯が5本も何故かあったためである。全部で10回のうちの2回目。手痛い出費である。
検診をしていた歯医者側の弁明としてはエナメル質が異常に分厚く、そのために光を当てても虫歯が分からず、発見が遅れたらしい。その理論だと僕の歯と骨はカッチンコッチンの骨太おじさんになってしまう。まあでも歯を削るときにドリルが通らんという呟きが聞こえてきたのであながち嘘でもないのかもしれない。次からは一年ごとにレントゲンを撮ってもらおうと思う。

こんな感じで人はその道の専門家であっても間違える。普通に訴えたら勝てる気がするが。まあニンゲンである以上間違えるのは仕方がない。野生の世界だと間違えたら死ぬが、残念なことに私達ニンゲンは野生ではない人生を歩んでいるため、間違えても生き残り、その間違いを元に新たな間違いを犯すことになる。間違いを犯しても致命的な間違いを犯すことはあまりないのだ。
本来的には間違いを犯すことは死ぬことであるために、間違いを犯すことはとてつもない恐怖を伴って当たり前であると思うのだが、人生に大きな関わりを持つ社会は間違えることを強制してくる。
研修で間違え、実務で間違え、間違えるたびに間違いを正されるだけならばまだいい。間違いを正され、教えられたものが間違いであったとき、再びその人は間違いを犯すことを宿命付けられることになる。 

研修で教わることの9割は役に立たない。昔、上司がそう言っていた。残りの1割は実務による。こうも言っていた。思いっきりダブルスタンダードである。研修で教わることの9割は役に立たないと言われても、研修で教わる以上何かしら役に立つに違いないとその時の私は考えていた。しかし、世の中というものはそんなに甘いものではなく、研修で教わることの10割は役に立たない。役に立つのは上司の中の基準だけである。
判子を押してもらう為には上司の中の正しさに準拠するしかなく、正しさは上司の中にだけ存在するのである。
つまりは正しくある為には上司に全部聞けばいいのである。
しかし上司も人間であるため、99%間違えないのだが1%くらい間違える。そして僕は上司絶対信者であったためその1%を見逃すことが出来ない。間違えることが怖いのでその1%のノイズも見逃さず、自分の中に取り込むのだ。こうして僕は研修で教わることの9割は役に立たないという1%の間違いをインストールした。実務においても上司の基準を完璧にインストールした。そしてこの間違いは上司の数だけ存在する。僕は自分の中で何が正しいのか分からなくなり、仕事をすることに対して多大な恐怖心を得るに至った。
書類を持つだけで手が震える。職場に向かって一歩歩いただけで息切れと動悸が止まらない。会話の記憶が全部飛ぶ。会話をしていても言葉が出てこない。相手の言っていることが理解できない。座っているだけで急にパニックに襲われる。睡眠薬を飲んでも夜寝ることができずに朝を迎える。そしてまた……というように落ちていった。
まあ今は歯医者に行くためにゆっくり準備し、桜が咲いているからといってデカいカメラを持っていく気になる程度には回復してきたが、この間違いに対する恐怖心と、正しさへの異常な信仰をどうにかしなければまた同じ轍を踏み、より深みへとはまり込んでしまうと思うのでなんとかしたいものである。
最後に今日撮った桜の写真を貼って終わりとする。
暗いのは鬱病だからではない。作風である。


この記事が参加している募集

仕事について話そう