見出し画像

外出、ストレス、ぱわー

最近気が付いたことがあり、おもむろに文章をバコバコ書き始めた。
1日の中で1日フルに動き続けるということができない。すごく頑張って一日の予定がお昼ご飯を食べるとか、歯医者に行くになる。もうこれを超えるとしんどい。
社会不適合者の手本のようなことを書いているがまあ実際社会には適合できていないのでしょうがない。
今思えば小学校から中学校の時に学校の後、部活をしてクラブまで行っていたのは本当に頭がおかしかったとしか思えない。なぜ昼放課にドッジボールをしてその後に部活で3000m泳ぎ、夜ご飯を食べてクラブで5000mも泳いでいたのか。意味が分からない。高校生の時から徐々にこれが勉強にシフトし、受験の時にはマジで一日中勉強していた。意味が分からない。大学三年生の時に思いっきり体を壊してからは勉強は一日5時間まで、3日勉強したら2日休むと決めてやっていたが、一日8時間が週5続くのが当たり前の社会では当たり前のようにやっていけず、また体を壊している。
今は本当に何もしていないというか気力がないので何もできないのだが、たまに気力の湧いた日に予定を入れるようにしている。それは友人と会うだとか、歯医者の予約を取るだとかであり、そんな行動をしてもだいたい当日は無気力なので予定が入っていることに絶望している。絶望するならやめればいいではないかという意見が聞こえてきそうだがこれは全く本当にそのとおりであり、一ミリも反論を挟む余地がない。しかし、お気持ちを言わせてもらうと、社会から進んで不適合のレッテルを張られたいわけではなく、不適合なりに社会には迎合したいと思っているので、社会とのかかわりを完全に立つのはよくないなと思い、社会を構成している人間とかかわるための予定を入れるのである。ふん。

予定を入れると心が沸き立つという人種がいることに対して尊敬の念を通り越してもはや恐怖しかないのである。心の調子が悪いときはコメダというクラシックの流れる空間でゆったりとしたソファ席でくつろぐという人間の話を見たことがある。外出することができる時点で心の調子悪くなくね?と思う。外出がそも嫌いを通り越してストレスである人種としては、わざわざ外出して他人のいる空間で家でも飲めるコーヒーをそう安くないお金を払って飲みながら、貧乏ゆすりをするくらいなら家で何もせずに虚無に浸っていたほうがいい。

最近の行動指針がいかにストレスを感じないかになりつつある。ストレスを感じないようにすることは無理なのであきらめているのだが、せめてストレスを感じる量を自分で制御できる環境に身を置くように気を付けている。身を置くもくそも排斥された片隅でうずくまっているだけなのだが。

まあつまるところ、社会というものに触れているだけでストレスがたまるのである。外出して見知らぬ人の顔を見て、余計な情報を受け取って心労が募っていく状況に比べれば、何も考えていないサボテンに手を突き刺されたり、アロエの発根が遅いなと考えていたり、カメラでへたくそな写真を撮っていたりするほうがはるかにましなのである。
だから外出を一人ではめったにできないし、まして週5で8時間も特に好きでもない人間と同じ空間に配置されるだけで私の心労は限界突破するのである。
日記というより愚痴になった感じがしなくもないがこの辺でおしまいとしておく。最後に最近モノクロ写真にはまっているので写真を載せておく。自己顕示欲マシマシじゃんとか思われそうだが。


この記事が参加している募集

仕事について話そう