見出し画像

絵の練習を九か月やりました、できないこと、できること

 絵を相変わらず描いている。もうじき九か月になる。

 わたしは最近はカウンセラーの勉強をしていて、これがとても面白いこともあり、仕事らしい仕事はほとんどせずに勉強と絵、それにランニングの練習を繰り返している。絵も勉強と練習をしている時間のほうが長いのでほとんど勉強に費やしていると言っていい。仕事らしい仕事をしていないので生活は苦しいのだがなんだかんだでまあ何とかなっている。

 ランニングも全然走れないのでまだとにかく体を動かす練習で、とにかく最近、練習と勉強と訓練ばかりやっている。

■わたしにはできない

 以前も書いたような気がするけど頭の悪い子供だった。というか、成績や評価として提示できないので頭が悪かったのだと思っていた。「わたしにはできない」がたくさんある子供だったし、そのまま大人になった。

 子供の頃は集中して勉強をすることができなかった。決められたことを決められた時間に行うのが苦手で、時間感覚に乏しかった。時間内に問題を解くというのがとにかくできなくて、翌日までに課題をやってくるというのもできなくて、継続的に課題をこなすというのもできなかった。今思うととにかく時間を把握する能力に乏しいこと、そしてその行動を行う理由が納得できないと行動がとれないという性格なのだと思う。

 できないことのほうが多い子供だった。

 ゆっくり本を読むこととゆっくり考えることは、時間とは関係がなかったので、できたのだと思う。それから時間をかけて歩くこと。文章を書くこと。

 絵を描くこともたぶん、「教わる」「学ぶ」「上達する」を目指すようになるまでは「好きなこと」「できること」の範疇だった。はずだ。


 「できない」ことには、「実際本当にできない(走る体力がない、絵を描く技術を習得していない)」と「できないと思い込んでいる(走る体力をつけるために動けないと思い込む、絵を描く技術を身に着けることは自分には不可能だと思い込む)」がある。

 で、「できないと思い込んでいる」というのは認知療法で言われる硬直化して歪んだ思考、自分の考えに固執して物事の多面性を捉えられない思考、というやつで、この場合の「できないと思い込む」というのは「できない」以外の言葉、思考、考え方、概念、そういうものが一切存在しない世界に自分はいる、という、「ゼロの空間」なんだなーということを最近思う。

 それは、「能力がないのでできない」、というのとは、全然違う世界で、「能力がないのでできない」、というのは、能力を身に着ける選択肢、能力を身に着けない選択肢、あえてサボる選択肢、別に変わる必要を感じないからできないままでいい選択肢、できないけど別にそれでよくてしたくもない選択肢、いろいろあるなかで、「(今はまだ)できない」という事実、ってことだと思う。

 「ゼロの空間」とわたしがいまここで呼んでいる場所にあるのは、「できないからできない」という前後左右のない世界で、そこには理由はない。

 逆に言うと、「なんでできないのか」説明することができれば、「ここさえ克服できれば、改善できれば、努力しようとすることができれば、できない状態から脱出できる」し、「できないのはなぜなのか理由があって、その理由を乗り越えるのは自分には荷が重かったりリスクが多かったりするので、できないままで別に構わない」と判断することもできる。

 というようなことを考えるようになったので、新しいことを始めることや、できないことを克服すること、努力することが楽しくなった。できないことができないのはなぜなのか、できないことで不利益を被っているのか、できないままでもいいと思えないとしたらなぜなのか、そういうことを考えてみるのはわたしにはとても役に立つことだった。

 勉強、役に立っている。


 絵を描いて三ヶ月の時に書いたエントリに、「自分は絵を描いてもいい」という感覚を持つことができなかった、ということが書いてあって、たぶんわたしにはこの感覚を覆したこと、「自分は絵を描いてもいい」と思えたことはとても重要だったと思う。今思うとそれは裏を返せば、「自分は絵を全然描けないし、そのままでいても、うまくなるように練習してもいい、それを選んでいい」ということを受け入れることができるかどうか、ということだったと思う。

 ずっと新鮮に「自分には何も描けないので、一個一個丁寧に向き合えば、わたしの目が認識して手が動く範囲ならば何でも描ける」と思っていられるところは、わたしの良いところだと思う。し、苦手意識を全部取り払うことに成功したのだなと思うとそのことが嬉しい。

 「描けないもの」はなくて、「うまく描く技術を今習得していないもの」がある。それだけ。

■継続する

 さて、自分は勉強ができない、と思っていた、ということとは別に、インターネットをはじめてから、毎日新しいものを用意しておくとアクセス数が伸びる、というのがおもしろくて頑張っていた時期がある。

 わたしはインターネットを始めると同時にホームページを開設したので(インターネットにつながっていないパソコンでホームページを作るだけ作って眺めている期間が三ヶ月くらいあった)いわゆるROMの期間というものが存在しなくて、ずっと発信側だった。更新はほとんど毎日やった。それはもちろん最初は毎日書きたいことがあったからではあるし、当時のインターネットに「毎日更新するのはかっこいい」という雰囲気があったからでもある(今でもそうかもしれないが)。そして毎日更新すると閲覧者は確実に増えたし、毎日見てくれている人も確実にいた。

 それは単純な成功体験で、その成功体験は、「毎日練習する、練習した結果を報告する」という現在のルーチンに確実につながっている。

 これはわたしの人生において運が良かったことのひとつだ。毎日大量の文章を書き続けるだけのリソースが十代のうちにあったこと、それを見せる相手がいたこと、それを継続的に見てもらえて、良かった場合はリアクションがもらえたこと。

 「続けている」というのはインターネットにおいて「良いこと」なのだという認識があり、だから「絵のうまい下手が問題なのではなく、続けている人間がいるということを示すことに意味があるのだ」と自分に言い聞かせることができたのは良いことだったと思います。

■自分が幸せであるということ

 インターネットの評価がずっと人生の傍らにあったのは運のよいことだったけどよくない側面もあって、わたしはちょっと「誰かにとって良い」とか、「誰かにとってコンテンツとして面白い」ものを提出し続けなくてはならないという強迫観念に捕まりすぎていたところがある。と思う。

 「自分にとって良い」というのはどういう状態なのか、考えていかないといけないんだよな、自分の人生が自分にとって良いという状態を作ること、自分が幸福であるという状態を作ること、そのことについてもっと考えないといけないんだよな、と最近すごく思う。それで音楽をたくさん聴いたり、自分にとって良い絵を探して何度も眺めたり、体を動かすことをしっかりやったり、できるだけ毎日部屋掃除をしたり、している。

 絵がうまくなりたい、という感情は最初からいままでそんなになくて(勉強ができるようになりたい、とも、足が速くなりたい、とも思わなくて)、わたしがしたいのは、「自分は何が好きで、何を選んで、何を成果物として出力している、何者なのか」を知りたい、そして「自分がいったい何者であれば幸せだと感じられるのか」ということ、だと思う。今のところは。


ここから先は

0字

¥ 100

気に入っていただけたらサポートいただけるとうれしいです。