文舵練習問題④ー2

 滔々と、それは弛まぬ流れであり続け、いつ何時も水音はどこからか響いている。大きな川は大きな時を、小さな川は小さな時を、ゆるゆる刻んで其処此処でささやかな歴史に身を寄せてきた。そうだ、それは近くて遠いただの風景だったのだ。それなのに。誰がこんなに食い入ってこいと願ったか。誰がこの身に関わってくれと頼んだか。
 返せ。あの子を返してくれ。それは私の声なのか。
 いっそ誰かの不注意だったなら、それを恨み、憎んで生きる縁としよう。それなのに。
いつもの帰り道をいつものように歩いていたのだという。ただそれだけのことだった。雨だって、いつものことだ。水が溢れるのも、いつものことだ。
ここは大昔から延々埋め立ての続く地盤の低い土地だから、地面はいつのまにか凸凹とうねり盛り上がり、それはまるで何かの呪いであるかのように足元を覚束なくさせていた。数年に一度はアスファルトを敷き直しているのに、幾重にも重ねてはまた重ねられているはずの黒々としたその道は、地盤の歪みにあえなくひび割れ、あちらこちらに窪みを作っては車のタイヤを傷ませた。ずるずると、でこぼこと、そうした窪みは、大ごとにはならないための緩みのようではなかったか。それなのに。「経験したことのない」という枕詞は、すべてを蹴散らし免罪符となったのだ。二週間続いた大雨に、道路は突然大きく陥没し、傍らを走る用水路に崩れ落ちた。水門はとうに決壊し、増水した濁流に黄色い傘ごと、あの子は呑まれてしまった。返して、あの子を、返して。誰に、誰に言えばいい。誰かを恨めるものならば。水に近づくな、そう言われてはいなかったか。水、そんなものはどこにでもある。どこへ逃げても人は水に近づかずに生きてはいけまい。わざわざ近づかずともどこにでもそれは浸みだしてやって来る。どこにでも水はある。
返せ。あの子を返してくれ。あの時、その母もそう言って叫んではいなかったのか。
恨みたいのか。憎みたいのか。呪いたいのか。では思い出せ。

 隣の藩の地を下されるとの話にも関わらず、水野の殿様はこの地を欲した。どこまでも続く遠浅の海。干潮に開けたその拡がりを見た彼は大干拓に着手する。干上がったその時に、地に穿たれる関を重ねてはまた重ね、土地を拓く普請は続いた。だが時に、途方もない大水が出ては堅く思われていた関を押し流し、それまでの民の労苦をも無に帰した。それは地か水か。泥の中に失われる年月を人々は黙ってやり過ごせるのか。そのままで、関は堅くはなるまいよ。ついに人柱が選ばれる。そもそもの事を起こした殿様の齢十二のその姫が、丁度その年の干支の娘であった。しかし姫は密かに隠され、かわりに差し出されたのが背格好の似た女中の娘であったのだ。ゆるせ、と一言殿は言ったのだろう。その後の安泰は幾重にも約するゆえにと。しかし母は黙らなかった。
 返せ。あの子を返してくれ。
眠った隙に連れ去られた娘を追って泥に入った時には全てが終わっていたのだ。呪ってやる。お前も姫も、末代までも呪ってやる。この地の水は治まるまいよ。だがその声も、その夜のうちに絶たれてしまった。
やがて殿は転封と相成り、姫はそれより早くに嫁いで行った。この地に水野の子孫は残らなかった。けれども時は廻る。水もまた廻り来る。

水に近づくな、とは昔から言われてたんだ。父はそんなことを言っていた。なんだか海とか川とかで亡くなる人が多くてね。いや、昔は学校のプールだって怖かった。排水溝にすごい勢いで引っ張られたことあってさ。まあ、大丈夫だけどね。ちゃんと人が見てりゃね。ちゃんと人がね、気を付けてればね。人として、ね。まともであればね、人がね。
時は廻る。人もやがて廻り来る。え、どこの人だって? へえ、そりゃあ奇遇じゃないか。うちのご先祖、その辺の出なんだよ。なんかわりとエラい人だったとかって聞いたよ。そうそう、広い干拓地があるんだよね。随分昔からあったそうだよ。
なんでこんなに道がでこぼこしてるの。その道を行くと、まるで遊園地の遊具にでも乗っているかのように娘はきゃあきゃあ声を上げて笑った。ジェットコースターみたい、って。本当は酔いやすいから夫がわざと声を上げて盛り上げていたのだけれど、それに乗っかってはしゃぐと本当に酔わずにすんでいた。何回も舗装してるんだそうだけどさ、と彼は言った。重ねても重ねてももともとの地盤が怪しいからさ。ここらは元は海だから。
だからいつまでも水は浸みだしてきては地を打ち砕くのだ。

どうしてこんなことになったのか。誰が悪いのか。誰のせいなのか。誰のせいでもないんだ。いいえ、いいえ。誰かのせいだ。そう言っていないと苦しいんだよね。かわいそうに。人が、ちゃんとしていれば、って誰かが言った。誰か大人が付いていたら。先生が。保護者が。親が。親でも助けられなかったんだ。私はあの子を守れなかった。誰が、誰が、誰が――? なぜ誰も、止めてはくれなかったのだ。そんなことは間違いなのだと。
呪ってやる。呪ってやる。誰を? そう言ったのは、誰なのか。誰を、呪うのか。呪われたのは、誰なのだ。よくぞこの地に戻っておくれだ。誰がそう言ったのか。
返せ。あの子を返してくれ――。


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