波の象、貝の紋

 もしもさだめというものがあるのなら、それは日々幾千幾万と打ち寄せる果てしない波の形と同じように、小さな二枚貝の模様と同じように、限りなく似通いながらも、どれ一つとして同じではなく、限りなく近くありながらも、少しずつ違ううねりをなぞりつつ顕れるのだろう。そうして、いつか違う岸へと辿り着くのだ。
 出会いがいつであったのか、どこが始まりだったのか、それを知ることはできないのかもしれない。それでも、その瞬間に、これは定まっていたように巡り来るものだと彼女は悟っていた。廻っていたのは自分の時間なのか。自分自身なのか。それも定かでない。幾つものこころみを繰り返していたのを知ってか知らずか、それを語る言葉さえ持たぬまま、幻のように覚束ない記憶を重ねながら、縦に織られた流れを揺蕩いつつ、横には広がることのない軛を負って、その生は繰り返されていた。


 島の井戸は三か所あって、いずれも高い位置にあった。小さな島だから、それで事足りる。ただ、三つのうち一つは既に枯れかけていて、生活のための水源としては用を成していなかった。それでも特に降らないという時季でもなければ大して気に掛けられることもない。水を節制することは、島の住民にとっては暮らしの中に刻まれた拍動のようなもので、それを芯にしてすべては回る。
 もちろん水量として豊かではない。それなのに、水がなければ人は生きられぬと、わざわざ言い聞かされたような記憶を、人々ははっきり持ってはいなかった。
 すべての住民が海へ出ているわけでもなく、まして遠方へ出過ぎて漂流した覚えがあるわけでもないのに、それを知っているのは不思議だとミナギは思った。そう思うことが、むしろ不思議なのだろう。そう思われるだろうと分かっていたから誰にも言ったことはなかったが、そんな思いは常に胸のどこかで揺らめいていた。いずれ幼い日々のどこかで聞かされているのだろうが、それは、生きていけぬ、という神妙な諭しではなく、むしろ水を粗末にしてしまった時にこっぴどく叱られたりして身についた習慣に過ぎない。
 ただ、ミナギはそうではなかった。水は、彼女にとって別の意味で生の所以なのだ。物心つく前から、父親と島(しま)長(おさ)によってとくとくと水の希少と大事を説かれ続け、誰よりも水の源に慎重であらねばならなかった。それはミナギが、代々水守(みもり)の役を負う血筋であったからだ。
 ミナギが生まれて間もなく母は死んだ。母もまた水守であった。いつからこうだったのかと、ミナギは父に問うたことがある。水守の夫である男は井守と呼ばれ、井戸を守る役となる。実際に何かをしているわけではなかったが、それは決まっていたことだった。
「いつからたぁ、わしは知らん……」
 しばらく黙りこんだ後で、父のトナミはぼそりと言った。特に困ったような顔はしていなかったが、その時ミナギの顔を見て、トナミは何かしら懐かしげに目を細めた。おそらくは母の面影を見ていたのだろうと思ったが、それだけではなかったのかもしれない。
 同じことを島長にも問うたことがあったが、その時は「大昔」とだけ言われて追い返された。「いずれな」と付け足すように言われたのはミナギが幼かったということだろう。島長は島の山のてっぺんに立てられた社の傍に住み、山と水の理を仕切っているのだと思われていた。時折、くにゃくにゃした落ち着かぬ抑揚で何事かを拝んでいる。幼いミナギに最初に教えたことは、水が枯れぬように願え、という事だった。万が一、水が湧かぬようなことが起こりそうならば、いち早くそれを報せるのだと、彼は毎日のようにミナギに語った。
 水が湧かぬようなことが起こりそうならば――。
 どうしてそんなことを言われるのか、その頃は何も分からなかったが、幼な過ぎたミナギには、それを知るのが普通の事ではないことも分からなかった。ただ、母がやっていたことを継ぐのだという事が、父の顔を見ていて解った。
 いつから。いつからだったかはどうでもよかった。なぜそれを問うたのか、ミナギ自身もよく分かってはいなかった。
 ただ、自分が島の他の子供たちと違うことは次第に知れた。ともに汀で遊びはするが、何かと言えば水守を危ない目に遭わせちゃいかんと言われて、あれこれと留めをくうことが多かった。大事にされているようでもあり、あるいは忌まれているようにも思えた。
 簡単な話だ。水守に何かあれば、井戸が枯れると伝えられているからだ。母は、ミナギを残していったが、ミナギはまだ子を持ってはいない。幼子であったならなおのこと、その身は水そのものと同じように慎重に扱われた。ただ、子供たちは無邪気であったから、大人の目さえなければいくらでも危ういことをしでかす。怪我の一つや二つもしないで崖をよじ登ったり岩場を走り回ることなどできるはずもなく、当然ミナギもそうしたことはやってきた。蛎殻で指を裂き、海栗に突かれ、海月に巻かれてその肌を爛れさせて長じていった。潮の満ち引きは身の内で血を巡らせる鼓動そのものだった。
 岩場で草鞋の緒を切ってしまい、フジツボを踏んで足裏に掻き傷を作り、赤いものを波に滲ませて、家までの坂道に赤い筋を引きながら帰った日、何かが身の内を突き抜けて胸の内を粟立たせているのをミナギは感じた。血は、足裏から出ていただけではなかった。
 トナミは島長の女房を呼んで手当てを頼んだ。何が起きているのかさっぱり分からず、子供を産めるようになるのだと聞いても、ミナギの胸の内の奇妙な蠢きは治まらなかった。
「なんか、変じゃ……」
 思わず零れた呟きに、島長の女房は何度も黙って頷き、ミナギの頭をそうっと撫でた。島長の女房キセは優しかったが、ただ体の変化に怯えているのだろう、としか考えていない。それがミナギには分かった。そうではない。それも怖いけれど、それだけではない。それでも、磯の仕事に荒れて膨らんだキセの指が何度も髪を梳いてくれるのが嬉しかった。その指からは、あまり長くはなかった子供時代と、無闇にひとの言いなりにばかりなってきた虚ろな時間が流れ込んできて息苦しくなったが、髪を梳かれるごとに伝わる、湯に浸るような温もりを放したくなかった。それほどに、自分には寄る辺はないのだと、どこかで解っていた。初めて生きた魚を触った時に掌の中で脈打っていた白い腹を思い出す。胸の中でそれがのたうっているようだった。
 水の湧かぬようなこと、というのが何だかは分からなかったし、そんなことは普段は忘れていたが、ミナギは時に、水とは関係ない予言を口にすることがあった。ある時は、浜へ降りる坂道にあった大きな棕櫚の木に雷が落ちることを夢に見て、幾日もその木を仰ぎ見ては呆然として佇んだ。真っ二つに裂けて燃え上がった光景がしばらく頭から離れず、それはやがて初夏の長雨が終わるころに実際に起こった。またある時には波が赤くなるのを夢見て、その三日後に、やはりその赤い波を見た。そういうことは稀にある、と漁師たちは言った。ただ、その波の中では生きた魚は獲れない。だから不吉なのだと大人たちは眉を顰めた。そうしたことをぽつりぽつりと語るたび、島長はミナギの目を見て何度も深々と頷いた。それでいい。そういうことは早めに言うように、と噛むように言い聞かされた。
 それまでは、先の事だけだった。けれども、あの日から、それは先の事だけでは済まなくなったのだ。
 ある夜、夢うつつに、父と島長が言い争っているような声を聞いた。何を言っているかは判らなかったが、火花が散るような音が見えた。同じ音が遠くでも鳴っていた。それは昔の音だった。その音を辿って、ミナギは夢のうちに過去を彷徨った。
 その頃から、トナミはミナギと目を合わせなくなっていった。やがて、子供達も、次第にミナギから離れていった。浜に降り立つと、少し遠巻きにしたまま、近寄ってこない。水守はそうしたものだと長は言ったが、それは得心できなかった。
 ただ、夢の中で、或いは、昼日中の幻の中で行き来する時間は、否応なくミナギを攻め立てた。気が違いそうに思えて山の端に駆け出し、切立った崖の端にまで自分を連れていった。島の北側に崖の上に立つと、いつも、奇妙な風が吹いた。まるで足元から吹きあがってくるようだった。崖の下からではなく、押すように、足を絡めとろうとするように、それは吹いた。崖は下から登れるところもあるが、ここは登れない。下は大潮でもなければ水が届かない岩場だった。その日の風は錆のような匂いをミナギに届けた。
 その崖の上に石を積んだ塚がある。あれは墓なのだと聞いたことがあった。 悪い者の墓なのだと、言い伝えられていた。悪い者。それが誰なのか、もう問い質すものはいなくなっていた。でも――。
「長は、知っているのじゃろう」
 何の話かと訝る長に、ミナギは風と共に立ち上って来た血の匂いのことを話した。何人もの男たちが、そこで死んだ。殺された、のではないか。
「わしが見たわけじゃあねえ。もっとずうっと昔の話じゃ」
 そう言いおいてから、定かではない聞き伝えらしく、ぼそぼそと起こったという事だけを長は語った。
 ある時、海賊が現れたのだと。島に人が住んでいれば、すなわち水がある、ということだ。潮の流れの大きい沖の向こうからは滅多に余所の船が来ることはない。それがやってくるのは不穏なことだった。海賊たちは突然やって来て島に上がると、最初に立ちはだかった島の漁師をものも言わずに斬り殺し、刃を翳して水のありかを問い質した。長は、それ以上の犠牲を厭うて彼らを井戸へと導いた。海賊らは樽を持って井戸へと向かい、それを満たし、頭から浴びた。さらには食い物を求めて差し出させた。彼らは刃を片手に家々を漁った。狼藉はそれだけでは済まなかった。押し入った家で若い女を見れば当然のように手籠めにし、抗う男たちは殺された。悪夢が繰り返された数日後、一人二人と大船へと戻り始めた海賊たちを見遣りながら、男らは心を決めた。日が落ちるのを待ち、夜半、闇に乗じて小舟を操って大船に近づき、油壷を投げ込んで火をかけたのだ。気付いた何人かが水に飛び込んで追って来るのを、一人一人斧で叩きのめして沈めた。島に残っていた数人もまた、大勢で取り囲んでは打ち殺し、逃げようとする者を崖に追い詰め突き落とした。
 石塚は、その時の勝利を印したものだ。墓ではない。
 全ては終わったかのように思えたが、苦しみは執拗に残されていた。半年が過ぎようという頃、多くの女たちが身籠っていることが分かってきたのだ。既に人が変わったようになっていた女の一人は、海に入ってしまった。それに倣ったものがさらに一人。そして生まれた赤子を手に掛けた者が二人。しかし、その後は、皆で女たちと赤子を守っていった。
 長は言葉を切った。だから、今残るもののいくらかは、そいつらの末なのだ、と付け加える。
「うちも――」
 零れた言葉に弾かれたように小さく揺れ、しばらく黙り込んでから声を絞った。
「お前は、違う。おそらく」
「なんで」
 長は潰したような溜息を洩らしながら、もう一つの話をした。
 それまで、島にはなぜかおかしな者が多く生まれた。どこか、頭が足りない。或いは、身体のどこかが奇妙に歪んでいたりしていた。そういう者がよく生まれ、島には子供のような大人がいつもいた。だが、その年に生まれた者の中には誰一人そういう者がいなかったのだ。血が近く重なり過ぎたゆえのことだと、長は伝え聞いていた。
「じゃが――」息をつき、目を泳がせてなお続く。「おかしいのは、そういうことだけじゃあねえ」
 まだ見ぬことを見知る者が、生まれ続く家があった。それが水守の家となったのだ、という。
「海賊が来たら、報せるんじゃ。早くに」
 ミナギは立ち上がって、後退るように島長の家を出た。
 わしが見たわけじゃあねえ、と長は言った。だが、それを引き継いでいるのは長だろう。ミナギはおぼろな気配にしかすぎなかったものを、今や確信していた。
 凶事の中生まれた子らを島はなんとかして長らえさせた。そうして血を薄める一方で、重なり続ける血もまた濃く残されたのだ。
 母は、ミナギを生んで、間もなく亡くなった。抜け殻のようになっていたと聞いたことがあった。誰か、遊び仲間の子の母親が、そう言っていたと。
 火花の弾けるような声が見えた、いつかの晩が蘇った。父は、その手に大鈎を持っていた。それで長を脅して帰らせたのだ。そこで散っていた火花は怒りだと思っていたが、そこには悔やみも混じっていた。

 船が来る。
 海賊が。いや、そうではない。あれは、海賊なんかではない。でも――。胸が高鳴り、嵐のようなざわめきが起こって目覚めた。これは、どこから来たのか。先の時か、それとも前の時なのか。果ての見えない広い沖の向こうから、船が来る。
「海賊か」
 眉を寄せて、長は言った。ミナギは首を振る。違う。
「ではなんじゃ」
 分からない。ミナギはさらに首を振る。
 いずれ水が欲しいのだろう、と口の中で呟きながら、長は頭を揺らせた。
「また、……皆で殺すんか」
 声を潜ませたミナギに、長は一層眉を寄せた。
「滅多なことを言うな」
「では、どうするんじゃ」
 まさか、わざわざ迎え入れるつもりでもあるまい。喉まで出そうになった疑いをミナギは飲み込んだ。
 備えはする、とだけ言って長は黙り込んだ。踵を返して敷居を跨いだところで、ミナギは振り返って言った。
「これは、井戸が枯れるようなことなんか」
 長は黙り込んだまま答えず、代わりに押しやるように手を振った。

 三日後、船影は現れた。
 島長の言う備えとは何なのか。ミナギは訝ったが、やはりそれは武器となるものを思ってのことだったと、問わずに知れた。でも、あれは海賊ではない。ならば、なんとするのだ。胸のざわめきは吠えそうに強くなった。
 ついに大船から小さな舟が下ろされた時には、島の若い漁師たちの殆どが浜に揃っていた。少し離れた所に上げてある船の陰には斧や鍬、鎌までが隠してあった。長がそれをさせたのだ。
 小舟には二人の男が乗っていた。陸に近づくにつれ、ミナギは引き寄せられるように前へ出た。眉を寄せ、遮ろうとする漁師たちの間をすり抜け、ずいずいと進む。舳先の方に立つ男に目が留まった時には、島長の制止も耳に入らなかった。島の漁師たちと同じに、その男もやはり浅黒い肌と筋の張った体を持っていた。そして、潮に撫でられて少し掠れた声で言った。
「わしは、イサナという」
 イサナ――。耳の奥深くで遠い波が何十にも打ち寄せた。
「あの船の長じゃ」
 再び波が打ち寄せる音が谺する。それは目の前の波音とずれを起こして、ミナギの身を引き裂かんばかりに揺さぶった。今、なのだ。
「わしが島長じゃ」
 しわがれた声が傍らで鳴り、我に返る。
「ずいぶんお若い船長(ふなおさ)じゃのう。この島に何用じゃ」
 イサナは目を細めて一礼し、用を述べた。
 彼らは遠い海へ出て漁をする者たちだった。陸から遠く離れた海へ出ても迷うことなく風を読み、星を読み、母島に帰って行ける。しかし、時ならぬ大嵐に遭いひどく痛手を受けたのだという。仲間を失い、多くの積み荷も捨て、帰路に就くための水が足りなくなった。ここが、幾日も彷徨ってようやく見つけた島影なのだった。若いのは、船長であった父親がこの度の嵐で命を落としたため、息子であった自分が船上にて長を継いだというのが理由だった。
「迷惑は承知じゃが、どうか水を分けてはもらえまいか。この通りじゃ」
 若い船長はその場に身を伏せ、砂に額を付けた。もう一人もそれに倣った。
 島の漁師たちは、互いに顔を見合わせていた。これは島長が言っていたような海賊とは違う。そういう事なら、水を恵んでもいいのではないか。安堵の息がいくつも漏れていた。ミナギは砂にめり込んだイサナの手の傍に歩み寄った。ざり、と砂が撚れる音が鳴り、イサナは小さく弾かれたように頭を揺らしてゆっくりと顔を上げた。見上げた目は魚のそれのように底が透き通って見えた。海の深みに、それは似ていた。そこに陽の当っている人の姿が現れる。髪が燃え立つように吹き上がっていた。これが、自分なのだ。
「これは、島の水守じゃ。井戸を守っておる」島長は、割って入るように言った。「水守が許さねば、水は分けられん」 
 イサナは再び頭を砂に押し付けた。顏を埋めぬばかりの勢いに、ミナギは足を引いた。長は、本気でそれを自分にあずけようとしているのか。それとも……。
「雨は、降るのか」
 今度はきっぱりとミナギを見て長は尋ねた。ミナギはその顏を見ずに頷いた。

 それでも、万が一という事がある。長は声を潜めて言った。昔、海賊が来て、島を荒らしていったのだと。それだけをイサナに語った。だから用心をするのだと。
「一度に大勢を上げるわけにはいかん。一度に多くの水を取るのもならん」
「じゃあ」イサナは背を起こした。「わしを捕えておいてくれ。一度に二人ずつ寄こす。そうして、日に決めた数だけ水を汲ませてくれ。おかしな真似をした時は、すぐにわしを殺せるようにすればええ」
 
 島長はイサナの思い切りよい言葉に、怯みを隠して唾を呑み、何も付け足さずに頷いた。
 幸いこの時季、井戸の水は豊かであった。島長は日に七樽の水を汲むことを許し、その都度、陸に上がる二人の者を、大勢で見張った。イサナは浜の近くの小屋に捕えられ、これも、夜昼通して見張りが付けられた。
 ミナギは毎日小屋へやって来て、粗い板木の隙間から、その目が自分を認めるまでイサナを見つめ続けた。大して頑丈な造りでもない小屋は、屈強な男ならば、本気になれば、なんとか打ち壊してしまえそうなものだ。見張っているのは二人の漁師だけだった。ただ、イサナはまだとても若く、小屋を囲っている島の漁師たちからすれば、息子のような年頃に違いなかった。日焼けて筋張ってはいても、いかつい年かさの男たちに比べれば、まだか細く、非力に見えた。黙って目を伏せていれば頼りなげにも見える。こんな若造を虜にしたとて、脅しになるのかどうか怪しいのではないか。そんなことを小声で呟く者もいたが、今のところ、大船からやってくる男たちはおとなしく決められた人数と樽の数を守っていた。イサナの方もまた、おとなしく囚われたまま、何も言わずに日を送った。大船と浜を行き来する者らは、ちらと小屋を見はするが、特に言葉を交わすわけでもなく、目が合えば軽く頷き合う程度のものだった。それなりの度量があるのだろうと、誰もが察した。
 なぜ毎日虜を訪れるのかと訊く者もあったが、そういう者には冷ややかな目をくれて、自分は水守であるとミナギは告げた。わけも分からぬままに、それで引き下がる男たちが情けなくもあったが、ありがたくもあった。イサナが揉め事を起こす気はないと悟ると、見張りたちはすぐに気を緩めた。夜ともなれば、大雑把な閂をかけただけで、のうのうと鼾をかいて眠りこけていた。

「イサナ――」
 見張りたちが鼾をかいて昼寝をしているのを確かめると、ミナギは声を出して、その名を呼んだ。呼ばれた者は声の主を探して見回し、やっと板壁の割れ目に気が付いた。
「そうじゃ」イサナは唐突に呼ばれたことに小さく笑みを浮かべて頷いた。「……見たことがあるか。巨きい魚じゃ。大船ほどもある」
 ミナギは首を振った。この島の者は遠い海へは出ない。勇魚(いさな)を見たことのある者はいない。ただ、聞いたことはあった。かつて、そんな遠くの海へ出て、戻った者もいたのだろう。
「みもり、じゃったな」
「名ではない。……うちは、ミナギ」
「そうか。……ミナギ、」
 柔らかに、イサナは微笑んだ。その声で呼ばれることが胸を引き絞る。
「うちは――」言い澱む。だが、口にせずにはいられない。「お前に会う……。会った、ことがある」
 イサナは僅かに目を見開き、そしてゆっくり瞬きをした。
「……わしは、この島に来たのは初めてじゃ」
「うちは、島を出たことはない」
「そんなら、いつ……」
「――先の世じゃ」
 イサナは言葉を返せないまま、ミナギを見詰めた。先の世――。
「水守は、そういうことが分かるんか」
 ミナギは小さく頷いた。
「見えないものもある。いつ見えるかは分からん。先や、昔のことを見るんじゃ。よくないことを、除けられる、……こともある」
「それは――」イサナはしばし躊躇って言葉を継いだ。「恐ろしくはないんか」
 月明かりの中、ミナギは木目の間からイサナの目を射るように見つめ直した。波の音が、不意に耳を覆う。ない、と答えると、イサナはゆっくり目を伏せた。先のことが見えても、すぐ目の前のことが分からないこともある。今、イサナが何を考えているのかは分からなかった。伏せる時と同じに、ゆっくりと目を上げると、イサナは言った。
「わしらが、無事に帰れるかどうか、わかるか?」
 ミナギはすっと板壁から身を離した。
「いつも、見たいものが見えるわけじゃねえ」
 駆け去って行きながら、後ろからイサナが身を起こして自分を見送っているのが分かった。その姿を、もっと遠くから自分が見ているようだった。

 その次の夜も、見張りが寝入った頃を見計らってミナギはイサナの元へやって来た。イサナも寝てしまってはいないかと思っていたが、小屋を覗き込むと、待っていたようにミナギを見上げて微笑み、イサナは壁の際に寄って来た。
「お前は……、無事に帰れる」
 ミナギがそう告げると、イサナの顔は暗がりを照らすように明るくなった。そうか、とだけ言ったその声もまた明るかった。聞く者を安らかにさせるような声だとミナギは思う。だから、船の男たちも従っていくのだろう。
 いつ、とは尋ねられなかったことに安心した。訊かれれば、自分はそれを探ろうとするかもしれない。知りたくはなかった。身が裂かれるような思いになるだろう。そのことが先に分かっていた。
「水守は、巫女なのか」
 イサナはミナギの傍に寄って別のことを尋ねた。何でもいい。そうしてともにいられる時は、おそらく長くはない。ミナギは見張りの男たちが、随分離れた舟の辺りで眠っているのを確かめてから話し始めた。
 母も、そのまた母もそうだったこと。その家には、濃い血があるゆえのこと。
 そうして、島長から聞いた忌まわしい話のこと。自分が悟ったこと。
「お母は、お父の姉さじゃったと」
 イサナが息を詰めたのが分かった。
「なんで、そんなことをわしに言う」
「誰にも言えん。……お前がうちを疎まんことがわかるから」
 誰もが黙って自分を遠巻きにするのはわけがある。それならば、自分も皆の知らないことを黙っているのだ。ふつふつと澱んでいたものが腹の中から姿を見せていた。誰も、自分を見ない。ずうっと、一人にしておくのだ。忌か、畏れか、どちらも同じだ。
 不意に、思いが掻き消えた。頬に大きな掌が当てられてた。昼間の陽のように暖かく、そこから何もかもを溶かしてしまいそうに思えた。ミナギは、身震いするように息を吸い込んだ。
 そうじゃ、お前はうちを恐れない。疎まない。
 ミナギはイサナの手に自分の両の手を重ねた。ずうっとこの手を抱いていたい。けれども、それが叶わぬことはどうしても分かってしまっていた。だからこそ、だからこそ、思い出したのだ。

 時には昼間に、ミナギはイサナを訪れた。黙って、裁く者のように見下ろしていた。そしてまた夜にもやって来て、板壁の隙間から、貪るようにその眼を探した。イサナは黙って、手を差し伸ばした。イサナはミナギに余所の島の話を語った。遠い海には、ミナギの知らない島が多くある。それぞれに違う習い、言葉、着物。恐ろしい大嵐。幻のようなものが見えることもあるという。島影すら見えない、そんな島々を近くに思えるのは不思議だった。幻とは、自分が見ている先の世や、昔の姿と同じようなものなのだろうか。

 ある夕刻、その日の最後の樽が運ばれていこうとする時、島長が大船の男たちに声をかけるのをミナギは見かけた。何事か話された後、二人のうち、一人は首を振って戻って行き、今一人は頭を掻きながら落ち着きなく目を泳がせていた。男の目が何度も小屋の方を見ては、島長の方を振り向き、また小屋を見るのを見て、ミナギは胸が粟立つのを覚えた。かたく目を閉じた。昔のことじゃ。ずうっと昔の――。
 おなごを――。聞こえるはずのないところから、はっきり聞こえた。
 てびきを――。しわがれた声が見えた。

「船に、何かがあるのか」
 その夜、小屋に駆け寄るなり、ミナギは訊いた。
「何か?」
「うちらが欲しいと思うような……」
 イサナは怪訝な面もちで首を振った。
「積み荷は殆ど捨ててしもうた。余所の島で換えたものもあったがな。何もねえ。帰っていけるだけのものが、今は大事じゃ」
 そのはずだ。
「じゃから、水を分けてもろうた。魚は自分で獲れる。船さえあればな」
 船――。遠くの海に出る大船。
 ミナギは胸元からせり上がるような気味悪さを覚えて口元を覆った。自分を責めないためか、言いがかりのための企みか――。
「どうしたんじゃ」
 我に返ったミナギは、口元に指を立て、見張りの鼾を確かめると、小屋の閂をそっと外してイサナを促した。閂を戻し、黙ったまま、離れた所にある別の小屋の陰に連れて行き、声を潜ませた。足の下で干からびた貝殻が幾つも割れていくのがわかった。
「今夜のうちに船を出すんじゃ」
 驚くイサナに、ミナギは島長の企みを明かした。
「誰にも言ってねえ。けど、大船を乗っとれんかと思いだした」
「まさか」
「まだじゃ」頷きながらミナギは言った。「まだ、はっきりしてねえ。けど、いずれ見えてくる。そのうち、長の中できわだってくる――」
 今なら、何も起こらない。今なら、誰一人、悪鬼のようなものにはならない。忌むべきものは誰だ――。だから、居なくてはならないのだ。
 闇の中で互いを見据えながら、波が音を消していくのを二人は感じた。
 わかった、とイサナは言った。やはり、ミナギの身は裂かれそうに軋んでいた。身震いしながら、それでも頷き返す。
 震えるミナギの肩を、イサナはそっと支えると、言った。
「一緒に、ここを出んか」
 ミナギの胸は一層打ち震えた。
「水守は島を捨てられんのか」
 そういう日がいつか来るのかもしれぬ。でも今ではない。水守を残してきた者は、寄る辺を失くして惑うだろう。何かがあっても、責める処を失うからだ。それに――。
「だめじゃ」ミナギは首を振った。「うちはお前の島に疎まれる」
 黙り込んだイサナにはその様が見えるように思うのだろう。巫女でも何でもない余所の島人がそこに根付くには、縁(よすが)であるイサナは島を離れすぎるのだ。だが、それだけではない。
「……戦があって、海賊の群れがいくつも、できる。……お前は、何度も戦いに行く、何度も戦に狩られる……」
 イサナは訝し気に目を細めた。
「それが見えるんか」
 頷く代わりにミナギはイサナの頬に両手を伸ばした。幾重にも蘇る先の世の記憶が瞼の裏でぐらぐらと揺れた。お前はいつも戦に狩られて死んでいく……。両の眼から涙が溢れ、それは井戸の底を思い出させた。人知れず、滾々と湧く。
 イサナはミナギを掻き抱いた。なぜ行くことが叶わぬのか。それは分からないままだった。それでも、ミナギの見ているものを信じることはできた。
 確かに、我らは知っている。こんな時が、確かにあった。ずうっと先の世に。互いの中に打ち震える時の鼓動を感じながら、星の下に二人は溶けた。

 夜のうちに行け、とミナギは言った。
「また会えるんか」
 ミナギは頷いた。会える。それでも涙は足元の砂を濡らした。会える。だが、この生ではない。それをイサナは知らない。流れを変えるためには、元の処を知らねばならなかったのだ。
 今一度腕の中にミナギを抱き締めて何度も頷くと、イサナは身を離した。
「お前のために、水の上で火を焚こう。それを見たら思い出せ」
 ミナギは頷いた。闇の中を滑っていく船に向かって、ミナギは一人胸の内に繰り返した。水の上で火を――。
 海の上で命を失う者のように、波に心寄せる者たちは海に還せばいい。百年、二百年――。いずれ小さな島には死者を横たえる地がなくなるだろう。人は、果てない揺蕩いの中に生まれた、夢のようなものなのだ。
 沖で、小さな火が点った。波に映る光は幾重にも重なりながら谺し、ミナギを呼んでいた。

 星の見える夜のうちに去ったのだとミナギに聞かされ、島長は憮然としていた。よくよく礼を言っていた、と伝えられはしたものの、怪訝に思ったものは多かったが、よく言葉を交わしていた者もあり、近く引き上げるだろうことは見当がついていたという者もあった。ミナギは長の顔を見据え続けた。何を考えていたか、自分に読めないとは思っていまい。長は、目を逸らした。

 ミナギは、やがて男と女の双子を産んだ。波の音を聞かせれば、赤子はよく眠った。乳を含ませながら、すべてを託した。
 余所者の子を産んだ水守は役を追われるだろう。もう、水のことからは放たれる。先を知ることは忌まれるかもしれない。だが、思い出せ。波が止むとき、動くとき。いつか、ともに生きられる時を探すのだ。

 一年の後の夏の夜に、ミナギは一人、小舟を漕ぎだしていた。もう幾年かのうちに、イサナの生も終えてしまうだろう。大きな潮の緩みを捉えて舳先を預けると、震えるように小さく揺れる。行き交う波は打ち合いながら互いを延べ、昼と夜、海と陸の風を溶かした。
 繰り返される無数の波の寄せ返しに揺さぶられ、先の世の記憶が届く。
 知りたかった――。
 初めてお前に逢った日を。初めてその眼に自分を映した日を。初めてお前に心掴まれたその日を。
 風が止み、全てが凪いだ。波はしばし揺蕩いを留める。漕ぎ止めた櫂の端から雫が落ちて、滑らかな水面の上に輪を造り、拡がっていった。船のわずかな揺らぎはその輪に輪をかけ、貝の柄のように細かな紋様を描き出す。少し動く度にそれは変わる。似ていても、同じ紋様の貝はない。

 ミナギは船底に投げていた粗朶の束を解すと、その上に油を撒き、火を付けた。跳ぶのだ。
 想え。それは永劫のうちの永い刹那だ。ひとときのうちに燃え、水に沈む。波は果てなく打ち寄せ続ける。その姿は一度として同じかたちをとることはない。
 やがて潮が打ち震えて蘇る。ゆるりと舟は流されて、少しずつ違う岸へと向かうだろう。水面に映る焔が我らを繋ぐ。思い出せ。遠い時の向こうで幾度でもお前に逢うのだ。


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