指紋

 百舌鳥の高鳴きを聞いた。
 庭先で立ち止まって、美紀は首を上げた。あの枝か、それともあちらか。聞こえると思っている方向とは全く違う方にいたりする。自分の聴覚もあてにはならないのだと、自覚はしていた。聴覚のみならず、ありとあらゆる感覚が鈍くなる。齢は取りたくないものだと思うが、そう思うことは増える一方で、とんと減る気配はない。何しろ、もうじき八十だ。
 朝の冷気に、ふっと息を吹き出してみても、まだ白くはならない。それでも、日中の最高気温が二十度を下回り、最低気温が十度を切るようになると、暦が冬を告げずとも、手指はそれを訴えた。
 爪の周囲の皮膚には強張った筋ができ、それは月面に走る放射状の皹のような線に似ていた。油断していると、すぐにもぱっくりと割れてしまってひりひりと神経質な痛みを起こして身を苛む。爪の周囲が傷むと、やがて生えてくる爪そのものが歪になった。気味の悪い窪みが波打つように凸凹とうねり、深々と刻まれたそれは、すっかり伸びきってしまうまで、消えてしまうことはなかった。爪は、一度傷むと、それっきりなのだと知ったのはいくつの頃だったか。七十を越してしまうと、もう曖昧になってしまったが、それはやはり年齢を感じるようになってからだったろう。爪は健康を測るもののようにも言われるが、自分の爪は指によって、いちいち様子が違う。人差し指や中指の爪は無残な有様だが、薬指や小指のそれは、きれいなままだった。縦線が見えると、それも健康でないということだそうだが、これも半分は出てこない。爪半月に至っては、あったりなかったりだ。これで何がわかるのだろうかと思う。分かるのは、水仕事で荒れている、ということくらいか。しかし、そんなことは、普通の主婦なら珍しくもないだろう。
 水仕事を終えるたびに、クリームを擦りこむが、真冬にはそれも追いつかない。指紋はいち早く姿を消した。
「今なら犯罪ができる」と言って亡くなった母は笑っていたが、それも、証拠と言えば指紋、という時代ならではの話となった。そもそも、その時代だって、荒れた指なら、それはそれでわかるのではないのだろうか。
 指紋なんて、あったからって困りはしないし、なくっても困らない。

「父を殺した、って言うんです」
 美紀は何度もそう言ってはため息をついた。認知症になった母は、昔気質の関白亭主であった父の長年の抑圧を根に持っていたらしく、自分でそれを繰り返し触れ回った。
 どうやって殺したのか、と訊くと、途端に答えは曖昧になり、ある時は毒を盛ったのだと言い、別の日には首を絞めた、と言った。認知症の症状も個人によってさまざまと聞いているし、虚言も妄想も何でもありだが、何も夫を殺さなくてもよさそうなものだと、呆れた。
 父は母が惚けてしまう数年前に亡くなっていたが、死因はくも膜下出血だった。突然のことで、茫然とはしていたけれど、年齢も年齢だったため、割合穏やかにその事実を受け止め、やり過ごし、淡々と、それは日常の中で順当に薄れていったのだった。父は実に扱いづらい人だったから、母でなくても、とにかく面倒ではあった。だからといって死んでほしいほどではなかったけれど、いざ亡くなった時に、呆れるほど気楽になったのは、なんだか申し訳ないくらいではあった。母もそうだと思っていたのだが、それは、少し違っていたのかもしれない。美紀には弟と妹があったが、二人共を家を出ていた。昔人間の父は当然弟に家を継いでほしかったらしいが、弟は帰って来る様子はなかった。そんなことにも年中ぐずぐずぶつぶつ言ってはいたが、弟に直接は言わずに、ほとんどは母が請け負っていたはずだった。美紀も妹も、耳を塞いでその場から逃げたのだ。
 父を殺した、などと、どうして言いたかったのか。調べれば、そんなことはただの妄想だとわかるけれど、穏やかでない。そんなことを触れ回ってほしくはなかった。
 消えていく指紋を見て、母が考えたことはそんなことだったのだろうか。

 美紀は婿養子を取る羽目になったが、その夫も、昨年亡くなった。長男は家を出て、次男は未婚のままこの家で暮らしている。
 ありがたいことに、誰も殺したいとは思わない。
 そんな事実が意識に上ることが、そもそも穏やかでない。

 きちきちきちきち……。
 積み上がった年月も、毎日の速さに霞んでゆくのか。早い早いとばかり感じていた毎日が、このところ減速しているようにも感じる。これも老いなのか。
 きちきちきちきち……。
 百舌鳥の鳴き声に入れ込んで耳を偏らせていたら、裏口で呼ばわる声がして、我に返った。昨日やって来た水道工事の業者だった。古い家だからここ数年であちらこちらと不具合が出て、やたらと修繕が要る。「はいはい」と返事をしながら、美紀は声の方へ向かった。
 今日は、使わなくなった堀炬燵の壁を崩して、床下に潜る穴を開けるのだとか言っていた。堀炬燵か。そんなものがあった、そういえば。子供の頃にはよく潜って遊んでいたっけ。小さな隙間があって、どこからか空気が漏れていたので、ちっとも暖かくなかった。真っ暗な中に入ってもやがては目が慣れてきて、隙間がどこにあるのか見えてきた。床下なのに光が漏れてくることを知って驚いた。これなら、光を頼りに進める、と思う。どういう理由でそんな状況になるというのか、考えてみれば可笑しかったが、なぜだかそう思ったのだ。子供の空想なんてそんなものか。実際は、壁を崩さねば入れないというのに。それとも死体でも隠して塗り込めたのか。
 いやいや、いい加減にしなさい。これでは自分も惚けたらそんなことを言いそうだ。
 浸みだしてきた冷気に両手を擦り合わせると、その勢いでぴし、と痛みが走った。人差し指の腹が割れていた。
 まったく、指紋がないような状態で役立つことなんて、ない。ああ、そうだ。手袋をすればいいのだ。そうすれば、手も荒れない。指紋も残らない。   いやいやいや……。


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