文舵練習問題⑤

 それは子供の頃の記憶だ。一家は島に住んでいて、当時暮らしていた家からは歩いて一分で海に出られた。砂浜は庭同然で、どこにいても潮の匂いが漂ってくる。その砂浜には一隻の廃船があった。一見、危険に思えるが、近場まで来る波にも揺らがず、砂中に錨で留め置かれてでもいるかのように動かないので、そこは子供たちの遊び場となっていた。一隻、というほどの規模の船ではなかったかもしれないが、一艘、というほどの小舟でもなく、いつからそこにあったのか、ただ時間が閉じ込められたような空間に惹きつけられたのだろう、子供たちは年中そこへやって来ては遊んでいた。どこででもできる鬼ごっこも、そこでは何か違う趣があったのかもしれない。四、五歳の子供は、趣などという言葉は知らなかったが、それでも何かを感じていたらしい。塗装が剥がれ、掠れてしまった緑色は、潮によって別の色を刷かれたように見え、船室の隅から隅まで少しの余白も余さず散らばった砂は、その船が波を忘れ、砂の中から湧き上がるように出てきたのだと思わせた。一面に敷かれたような砂は晴れた日にも湿っていて、床を転げ回る子供の肌に吸い付くように馴染んで離れない。持ち出しても持ち出しても、砂は現れる。
 年かさの子たちがやって来るのは、学校が終わってからだ。昼日中には、就学前の子供しかいない。そういう時に、一人では入りづらい部屋があった。今思えば、操舵室というものだったのだろう。年代がかった雰囲気の舵が床に転がっていて、そこに入る時は少しだけ緊張していた。閉じ込められた時間の鍵が、そこにはあった。
どこから来た船なのか、誰も教えてくれなかった。誰も知らなかったのかもしれない。


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