darning

「これ、よかったら履いてくれない?」

 近くの婚家からやって来た妹が手にしていたのは、ソックスの束だった。

  夏の間、少しでも涼しくしたいからと、足首の部分が全くない靴下を買ったのだが、甲が高い妹には、履き口のゴムが強すぎ、辛いのだという。

 スニーカーインというその類のソックスは私も愛用している。裸足で直接靴を履くのが躊躇われると、そういう靴下が重宝する。スニーカーはもちろん、サンダルにでも履く。自分の汗で靴を汚す不快と、直に靴に接して汗ばんだ肌がその汚れを絡め取る不快が二重に嫌だからだ。暑さとのせめぎ合いだが、ビーチサンダルで出勤していい仕事でもないので致し方ない。夏は仕事から帰ると、風呂場へ直行して足を洗う。帰って来るまで何とも思っていなくても、帰宅した瞬間から一秒でも早く裸足になりたいと猛烈に思うのだ。一日履いた靴下のままの足は、何だか不当な熱が籠っている。それは一日分の理不尽だったり、仕事柄向き合っている外国語との齟齬だったり、立ち尽くして酷使した筋肉の粘るような疲労感だったりする。そのままの汚れを付けたくないので、スリッパを手に持ったまま風呂場へ向かい、水をかける。濯ぐ、とはこういうことだ、と思う。

  私の足は大きめで、第二趾は親指より長い。そのせいか、靴下に真っ先に穴が開くのは爪先のほぼ中央だ。しかも、歩き方が乱暴なのか、とにかくすぐに穴が開く。そんなだから、不意に渡された靴下の束は有難かった。靴下といえども身につけるものだから、それぞれ好みもあるし、そう簡単にあげたり貰ったりはしないものだが、幸い妹とは趣味が合った。お洒落な人は色々楽しんでデザインを選ぶのだろうけど、私はとにかく何にでも合わせやすいものを基準にしてしまう。黒とかチャコールグレイ、当たり障りない色彩のストライプ、などだ。今回貰った五足のソックスも、だいたいそんな感じだったが、なぜか、一足だけ妹らしからぬ色合いのものが混じっていた。オレンジ、黄色、茶色の三色からなる太めのストライプで、それなりに悪くはないのだが、その色合いに合う洋服を私は全く持っていなかった。そもそも黄色とオレンジは鬼門と言っていい。「これ――」と言いかけた私に、妹が苦笑いしつつ、被るように言った。

「ごめん、それセットだったんだ」

  私にどれくらい似合わないかよく分かっている苦笑いだった。

「まあ、いいよ」要らないものだけ突っ返すのも悪い気がしてつい言った。「惜し気ないってことで。家で履くから」

「うん、そうして。どうにもダメだったら捨てていいし」

 妹も手放すというと気楽に言った。

 靴下も買えないほど困窮はしていないが、物惜しみなものだから、新品のものを捨てる、という感覚を持てない。貧乏性が私の性分だ。すぐに穴を開ける身ではなおさらだった。

 勢いで「家で履く」などと言ったものの、それは妙な具合になった。スニーカーインはもっぱら暑い季節に履く。家の中で靴下なんか履かない時季のものだ。しかし、こうなると貧乏性にも妙な意地が湧く。少し足に冷えを感じるようになると、早速私はこの靴下を取り出した。何しろ惜し気がないのでさっさと着潰したかった。しかし、どうしたものか意外と丈夫にできていて、なかなか穴は開かない。そうこうするうち、すぐにしんしんと冷えが這い上る季節になった。もはや、足首の部分が無いような靴下の出る幕ではない。にもかかわらず、私は件の靴下を手に取った。足首ウォーマーという代物の助けを借りるのだ。そうすると、まだまだ履き続けることができた。そうこうするうちについに穴が開き始めた。心のどこかで「やった」という声がしたような気がした。もうじき冬だ。

 しかし、我ながら呆れたことに、この貧乏性たるもの、こんなことでスパッと消えるものではなかった。何しろ生地がとてもしっかりしているのだ。惜しい。ふと、思い出した。いっそ、これでもかと寿命を延ばす方法だ。

 ダーニングというものがある。いわば繕い、ということだが、昔の繕い物と違って、最近は手芸の一環として広まっている。

「おばあちゃんの頃はね、そりゃ戦後すぐだったし、誰だって繕いのある靴下履いてたのよ」と母は言う。「だからまあ、大雑把な繕いも多くてね。上手な人もいただろうけど」

 祖母の仕事は雑だったと母は言う。大雑把に繕われた靴下を履いて学校へ行くのは嫌だったと。だが、その母もやはり物惜しみではあった。ダーニングが流行り出すと、少し嬉し気に針を取っていた。何にでもあれこれ口を出し、成人した娘をいつまでたっても子ども扱いする母には日頃から鬱屈がある。それをやり過ごすのは、家の中での服と靴下の色合いと似ていた。あまりのちぐはぐ加減に、来客時に慌てて脱ぎ棄てたこともあった。

  ダーニングは、目立たないようにするよりも、いっそ全く違う色の糸を使って逆に目立つ刺繍をするように縫う。それはけちな貧乏性と繕いの概念を覆すものに思えた。私の貧乏性もそれに倣った。とはいえ、派手な色合いの縞模様に目立つ色合いもない。それでも意地になってそれを探る。決して似合わない色を手にぼうっとしている私を見て、妹は眉を寄せ「捨てれば?」と言った。

 うん……と喉元で答える。気楽に言う。それができないのは何だろう、と思う。

  こっそりと忍び寄っていた冬が堂々と姿を見せた霜の日に、ようやく私は気づいた。逆、だ。私は黒糸を手に取った。繕う、縫う、というよりも、ダーニングは織る、に近い。

 勢い付いて針を運ぶ指先に痛みが走った。小さく声を上げ、見れば血玉が膨らんでいる。

そういえば、英語のdarnはスラングで「くそー」とか、「ちっ」とかいう意味だった。

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